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猫はわたしになりたがる。
にゃあ、と鳴いた一声に、わたしは呼ばれた気がして足を止めた。熱を持って腫れぼったくなった重い瞼を擦りつつ、鈍間に後ろを振り返る。そこにいたのは大きな黒猫だった。
寒さに晒されて氷のように冷たいだろうコンクリートの上にお行儀良く座っている。ほっそりとした尻尾が緩やかにぱたり、ぱたりと動いては、地面を軽く叩いていた。ぱっちりとした眸は綺麗なトルコブルーに染まっている。随分と利発そうな顔立ちをしていた。
「――すごい、生で見るのは初めてだ」
ぱちぱちと目を瞬いて、わたしはその場にしゃがみ込む。見事な黒毛が茜色の光を反射して、てらてらと光っている。妙に毛並みが綺麗だ。栄養状態がいいのだろう。どこかで飼われている子だろうか、とも思ったけれど、首輪は付けられていないようだ。
黒猫は唐突にしゃがんだわたしを警戒することもなく、見定めるような目つきでわたしを見上げていた。人に馴れているらしい。ということは、やはり飼い猫か。世の中には猫に首輪を付けない飼い主もいるのだろう。
触ってみたい。うず、と心が疼いた。そろりと手を伸ばす。猫は逃げなかった。ほんの少し目を眇め、仕方ないとでも言いたげにじっとその場に留まっている。指先に触れた毛は驚くほどふんわりと柔らかく、生き物だからか昼間存分に太陽光を吸収したからか、優しい温度に温まっていた。
これほどに気持ちがいいとは思っていなかったせいで、一瞬ぴくりとわたしの動きが止まる。するとそれが不満だったのか、猫は再びにゃあと鳴いた。思わず謝罪を述べてから、毛の流れに沿って指を滑らせる。今度は合格だったらしく、黒猫は満足そうに眸を閉じる。
「……可愛い」
あまりの愛らしさに、思わずわたしは呟いた。当然だろうと言うように尻尾が揺れている。引っ掻かれることが恐くて今まで猫に対して積極的になったことはなかったけれど、世の猫好きたちの気持ちが多少理解出来た気がする。なるほど、これは可愛い。
それまでの鬱々とした気持ちも忘れ、暫しの間わたしは黒猫に夢中になった。無意識に頬が緩む。しかし冬の日暮れは早い。気付けば辺りはとっぷりと夜に染まっていた。どうやら切れかけているらしい外灯が、今にも切れそうに弱々しく光り出す。
「やば、夢中になりすぎちゃった……早く帰んなきゃ。寒いし」
慌てて立ち上がると、猫が恨めしげにわたしを見て、にゃあと一声鳴いて非難した。そんなこと言われても。猫の言いたいことが何となく判ったわたしは眉を垂らし、「またここで会えたら撫でてあげるから」と言って地面に置いていた重い鞄を持ち上げる。またね、と言い置いて猫に背を向けたときだった。
――帰りたくもない場所に、帰るのか?
聞こえた声に、びくりと肩が揺れる。急いで振り向く。しかし当然のように人の姿はなかった。……それはそうだ。実際に聞こえたのは猫の鳴き声だけだった。けれどその鳴き声に、ハスキーな女の声が重なって聞こえたのだ。
ぞっとして、わたしは視線を下にずらして黒猫を見る。周囲が暗いせいだろうか、消えかけの外灯に照らされるその姿は、この世のものではないように思えた。ずり、と靴底を引き摺って一歩後ずさる。たった今まで可愛らしいと思っていた猫が急に恐ろしくなった。
そういえば、黒猫は不吉の象徴だという話を聞いたことがある。魔女の使い魔だとか、黒猫が目の前をよぎったら死ぬだとか、見ると不幸になるだとか。今更ながらに脳裏を過ぎった迷信じみたそれら。しかし今の状況では妙に真実味を帯びているように感じられ、肌という肌が一斉に粟立った。
――お前を不幸にしかしない場所に、帰るのか?
猫が鳴く。また女の声が被さって聞こえた。わたしは瞠目する。一度なら気のせいだと思い込むことも出来たかもしれないが、二度起こるとさすがにそれは難しかった。震える手で首に巻いたマフラーを掴み、ぐいと口元を隠すように引き上げる。
かちかちと、歯が触れ合って音が鳴る。奥歯が噛み合わなかった。寒気とも怖気ともつかぬものがぞろりと足元から這い上がり、わたしは大きく目を見開く。猫の身体が一回り膨らんだように見えた。
――なあアオイ、どうしてだ? お前はそこから逃げ出したいとは思わんのか。
――私ならばその願いを叶えてやれる。……勿論、条件つきではあるが。しかし、お前にとっても悪くない取引だと思うぞ。どうだ、話を聞いていかないか。
アオイ、というのはわたしの名だ。どうして、と問うた言葉は声にならなかった。喉がからからに渇いて張り付いている。それに反して口内には唾液がたっぷりと溜まりつつあった。苦労してそれを飲み下す。
恐ろしいのに、逃げたいのに、身体は全く言うことを聞きはしなかった。根を張ったように、その場から一歩たりとも動けない。身体の自由が全て奪われてしまったみたいだ。するとそれを了承と見做したか、猫は満足そうに尻尾をくねらせた。
――簡単なことだ。私たちの中身を入れ替えてしまえばいいのだよ。
――お前が私に、私がお前になる。猫の暮らしというのは案外いいものだぞ。私の飼い主は金持ちで、たっぷりと愛情を注いでくれる。玩具もあるし、腹が減れば甘えて擦り寄るだけで美味しい餌がごまんと貰える。人間のせこせことした生活よりは、ずっと恵まれていると思うがな。
――学校で苛められ、自宅では汚物のように扱われ。そんな生活に執着する必要がどこにある。自由気ままに暮らしてみたいとは思わんのか? 愛情を貰いたいとは思わんのか? その全て、この私が叶えてやろう。
――さあ、アオイ。入れ替わろうじゃないか。新しく生をやり直すのだ。
にい、と猫の口が弧を描いたような気がした。ぬるりと出した舌は艶かしいほどに赤い。くらりと眩暈がした。揺れる尻尾がわたしを誘う。きちんとした判断力が、薄れていくのを感じた。
駄目だ、駄目だ、駄目だ。この誘いに乗ったら駄目だ。人間としての生活を捨てるなんて嫌だ。猫になるなんて絶対に御免だ。心で強く思うのに、身体は依然としてその思いに応えてくれなかった。猫が笑う。嫌だ。死んだって、猫になるなんて、絶対嫌だ。わたしは人間だ、人間なんだ。
――たったの一言でいい。否、頷きさえすればいいんだぞ、アオイ。楽になれ。私が、お前を、救ってやろう。
トルコブルーの眸が、妖しく細められていた。
猫はわたしになりたがる。
やめて、わたしはわたしなのよって。(言いたいのに口が開かないの)
[mokuji]
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