nostalgia

ShortShort

とくべつだとおもいたいだけなの


 ナイフとフォークで食べ易いよう切り分けて口に運ぶ。しっかりと咀嚼すれば味は後から後からじゅわりと溢れる。口の中いっぱいに広がる風味。愉悦に緩む頬を隠さないまま、僕は粉々になった口の中のものをごくりと飲み込む。ぬるりと喉を滑る感触でさえも心地良い。ほう、と感嘆の息を吐く。一口食べる毎の満足と充足感。

 僕はそうして、自分の身に降りかかる僅かな不幸せを、大袈裟なまでに口いっぱいまで頬張って、大切に大切に、味わっていた。

 不幸とは、美味しいものだ。人生を劇的に彩る究極のスパイス。受けた不幸が大きければ大きいほど、人は物語の主人公になる権利を得られるのだ。だからこそ、僕は不幸を求めた。

 もっと欲しい。もっと、もっと、僕に不幸を、悲劇を、与えてください。僕の人生を人に語るとき、相手が必ず衝撃を受けて、「大変だったね」「頑張ったね」「君はすごい人だね」と思わず口にしてしまうような、ドラマティックな展開が欲しいのです。



「ばっかじゃないの。そうして大袈裟に不幸を語って、アンタは自分に酔ってるだけじゃない。そんな薄っぺらい話どうだっていい」


 ……それなのに。凛と伸びた背筋と、そよ風に靡く黒髪が印象的なあの少女は、僕の人生を耳にした途端、不愉快そうに、吐き捨てたのだ。これまでの人たちとは百八十度異なった反応に、僕は一瞬何も言えなくなる。人間の中に紛れた猿になったように、言葉が一つも出てこない。

 え、だの、あの、だの、場持たせにしかならない曖昧な音をくるくると繰り返し、びっしょりと服の下におかしな汗を掻きながら、僕は引き攣った笑顔を浮かべる。ひくひくと頬の筋肉が奇妙に痙攣していることが判る。笑いたくもないのに自然と出てきた笑みが心の底から憎かった。


「……何その変てこで媚びた笑顔。きっもちわる。あたしのこと見ないでくれる?」


 大量に蝿が集る腐臭の酷い生ごみを、見たときのようだった。彼女はそんな風に顔を歪め、辛辣な言葉を僕に放ってからふいと顔を反らす。胸の前でしっかりと組んだ腕が彼女の心情を如実に表していた。

 頭に瓦礫が落ちてきたような衝撃に襲われる。冷え始めた指先はかたかたと細かく震え、顔や首筋には炎に炙られたかの如く熱が走った。人生でこれほどまでに恥ずかしかったことはない。そう思うくらいの羞恥で立っていることさえも困難だった。

 しかし、彼女はそんな僕のことは放っておいて、退屈そうに爪の甘皮を弄くっている。眠そうに脱力した視線は真っ直ぐ自分の爪へと注がれて、無関心を体現したようなその態度に僕は怒りさえ憶えた。

 つんとお高く澄ましたあの憎々しい横顔に、僕の拳を思い切りめり込ませてやりたい。きっとそうすれば、アイツは簡単に倒れるだろう。そうしたら、その胴体に馬乗りになって、ボコボコに殴ってやるんだ。顔の骨が滅茶苦茶に砕けて、原型を留めなくなるくらいにまで壊してやりたい。僕の手が傷だらけになろうが構わない。鼻血に塗れ、涙を溢れさせ、無様に懇願して僕に許しを請うたって、決してやめてなんかやるものか。殴る、殴りたい、僕にこの女を殴らせろ!

 ……きっと、彼女がため息を零すのがあと数秒遅ければ、僕はその衝動のまま、自分が喧嘩慣れしていないひ弱な体躯であることさえ忘れ、彼女に飛び掛かっていたことだろう。しかし幸いなことに彼女が深く息を吐いたことにより僕は何とか正気を取り戻し、暴行を振るわずに済んだのだった。


「…………そんなに楽しい? 悲劇のヒーロー気取るのってさ」


 びくりと肩が跳ねる。僕はそんなことしていないと内心で吠え立てるが、本当は自分でも判っていた。自分がやっていることはただの現実逃避であることも、僕の不幸など他の人が当たり前に経験するようなレベルであることも。

 そして何より、自分は特別でも物語の主人公でもない、ただの一般人でしかないということも、だ。


「よく判んないわ。アンタは当たり前に幸せになれるんだろうに、どうしてわざわざ不幸になりたいとか思うわけ?」

「……君になんて判らない!」


 重ねられる正論の一つひとつが、感情のリミッターを振り切らせた。甲高い悲鳴に似た大声を上げて、僕はきつく彼女を睨む。脳内で巡るのは彼女について囁かれる様々な噂だった。


 幼い頃両親が死に、ほぼ絶縁状態だった祖父母に引き取られたがそこで虐待され、結果的に施設にいたらしい。施設でもいじめられていたんだって。お金持ちの家に養子に行って、でもそこでは義兄に嫌がらせされてるみたいだよ。性的な悪戯されてるってまじかなあ? 少なくとも暴力は振るわれてるみたい。着替えるとき、あの子の身体に生傷いっぱいあるの、わたし見たもん。


 ありがちな、けれど壮絶と言える、大量に重ねられた彼女についての不幸な噂。低められた声で興奮気味に語られるそれらは、おそらく彼女の耳にも入っていたに違いない。しかし彼女はいつも強い目で前を向き、否定も肯定もしなかった。

 そんな姿は痛々しいまでに健気だった。そして同時に、しなやかな美しさをも感じさせた。彼女こそが主役としてスポットライトを浴びるに相応しい人物だと、誰もが思ったことだろう。だから僕はずっと彼女に憧れていたし、酷く嫉妬もしていたのだ。


「君みたいに……特別な人には、判らないよ! どんな意味でも注目を集められる人に、僕みたいな地味な奴の気持ちは判らない!」


 叫んでから思う。――嗚呼、僕は今どれだけ惨めでみっともないんだろう。

 彼女の顔が見られなくて、僕は深く俯いた。視界が滲み、とうとう涙が雫となって眼鏡のレンズにぱたりと落ちる。はたはたと次から次へ雫は落ちる。止める術は判らなかった。


「――そうだね。あたしは、特別かもしれないね。でもそれって、絶対にいい意味じゃない」


 ぽつりと彼女は独白する。その声は先程までの強さをすっかり失っていた。感情を全て無くしたみたいにまっさらな声。


「噂は全部本当。両親はいないし、祖父母からはご飯も洋服も貰えなかったし、施設ではざんばらに髪を切られたし、三つ年上の義兄からは気分次第で殴られるか触られる。――そんであたしは、そういう人の言う『不幸』が、ちゃんと不幸と受け止められないの」


 背筋がうっすらと寒くなった。あまりにも彼女が淡々と話すせいだ。全く淀みなく語られる内容は間違いなく異常なのに、彼女は本気でそれらをどうということはないと思っている様子だった。自分の言ったことを省みて、すぐさまそれは後悔に変わる。

 君みたいに特別な人には判らないなんて、どうして言っちゃったんだろう。特別であることがどういうことなのかなんて、さっぱり判っていなかったくせに。


「だって、それがあたしにとっての普通だし。それ以外の人生なんて送ったことないから。こう言うとね、他の人は心の底から同情したって感じで、『可哀想だね』って言うの。……本当に、アンタ、こういう人生、羨ましいの?」


 短く切られた問い掛けが、重たく僕に圧し掛かる。頷くことも、首を振ることも出来なかった。彼女の持つ異様な雰囲気に圧倒され、それに呑まれていたのだろう。恐ろしいと、素直に思った。

 彼女のことが、恐ろしい。人をこんな風にしてしまう、そんな環境が恐ろしい。特別や不幸という、自分が焦がれ続けたそれらが、恐ろしい。羨んでいた気持ちは呆気なくぺちゃんと潰えていた。


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▼水島家キャラクター etc.……

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