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ほんもののあたしなんて愛せない
しんと静まり返る小さなワンルームの部屋の中、彼女は退屈そうに僕の隣で雑誌のページをめくっていた。テレビの音さえもない静寂の中で、ぺらりと紙がめくられる乾燥した音は、思っていた以上に大きく響く。携帯電話の画面をスクロールし、興味もないネット記事に目を通しながら、僕は最大限に五感を研ぎ澄ませ、隣にいる彼女の存在を拾おうとした。
しかし彼女は、そんな僕には一切の興味がないようだった。まるでここにいるのは自分一人だけだとでも言いたげに無表情を貫いて、こちらには一瞥の視線をも向けてくれない。愛している人からの無関心という、他人からは想像もつかないだろう壮絶な苦しみに苛まれ、僕は息も絶え絶えの状態だった。
こんな風になってしまったのはいつからだろう。少なくともほんの数日前までは、彼女の好意も関心も、ちゃんとこちらに向いていたはずなのだ。じんわりと焦燥が心のうちを侵食し、僕は親指の爪をきちりと噛んだ。するとどうやら、同時に爪の間の肉も一緒に噛んでしまったらしい。鋭い痛みが走り、ぱっと口から親指を離す。見れば白い爪を染めるように、淡い赤が破れた肉の隙間から染み出しているようだった。
「爪を噛む癖、いい加減に治したら?」
すると唐突に、彼女が僕に声を掛けた。瞠目し、思わず顔ごとそちらを見る。しかし、それでも彼女の視線は垢抜けた女性たちの写真にばかり釘付けだった。けれど、それで構わなかった。無視を貫かれるよりは、ずっと楽というものだ。
「……うん。みっとも、ないよね」
つっかえながら返事をし、噛んだ親指を握った拳の中に隠す。久方ぶりに交わす会話がこれかと多少の寂寥は憶えたものの、気付かない振りをした。整った横顔をじっと見詰め、彼女からの言葉を待つ。しかし、先に返ってきたのは声ではなくてため息だった。
「自覚あるならどうしていつまでも治さないの。あたし、その癖、ずっと嫌いだったのに」
「き、…………嫌い、なら、そうと言ってくれなくちゃ、」
判らないよ。
続けた声は重く沈む。はっきりと告げられた嫌悪の気持ちは僕の胸を鋭く突き刺し、嫌な痛みを残していた。口の中に苦いものが広がっていくようで、ぎゅっと眉根を寄せて表情を歪めると、やっと彼女は雑誌から顔を上げる。
どきりとするほど冷徹な表情だった。人を人とも思っていないような軽蔑の視線。これは本当に僕の恋人である女性のものなのかと疑ってしまうくらい、僕の記憶からはかけ離れていた。
「そうね。判らないでしょうね。だから黙ってたのよ。いつか自分で気付かないかしらって。あたしが貴方のことなんて全く好きじゃないことも、早く理解してくれないかしらって」
冷水をぶっ掛けられたように、僕の心が冷えてゆく。辛くて、苦しくて、それなのに何故だろう。僕の顔に浮かぶのは間の抜けた笑顔だった。
「……好きじゃ、ない?」
「ええ、好きじゃない、わ。これっぽっちも、好きじゃ、ない。好きだなんて思ったことは、一度だって、なかったわ」
一拍遅れて聞き返すと、彼女は一音一音言葉を区切り、残酷なくらいにゆっくりとした口調で肯定をする。目の前が真っ暗になった。
ぐるぐると脳内を巡るのは、ここ数ヶ月の出来事ばかり。それはずっと好きだった女の子が恋人になった、とても愛おしく甘美な記憶だった。色々な場所へ出掛けたり、キスをしたりした。好きだと言えば、あたしも好きよと蕩けた笑顔で返してくれた。
……それなのに、それが全て嘘だったのか。僕は、彼女に騙されていたというのか。どうして? 一体、何のために。
「試してたのよ。今度の人は、ちゃんとあたしの本性を見抜いてくれるかどうか。でも駄目ね。貴方はあたしの演技に躍らされるばっかりで、全然あたしを見てくれなかった」
いつの間にやら彼女は雑誌を閉じていた。淡々と連ねられる言葉は的確に僕の胸を抉る。時折挟む息の音に似た笑みは僕を嘲笑う。
「本当、みんな、ばっかみたい。あたしの演技なんかに惚れちゃって、ぽーっとしてるんだもの。誰も気付かないし、つまらないったらないわ。こっちは素直でも、可愛げのある子でも、何でもないっていうのにね。……あー、煙草吸いたい…………」
不満げに、彼女が自分の唇に人差し指で触れる。彼女が煙草を吸うことさえ知らなかった僕は愕然とした。そういえば、こんなに低い彼女の声を聞くことだって初めてだ。全部全部、嘘だったのか。
す、と彼女の大きな眸が細められた。その瞬間見え隠れした彼女の残酷さにぞくりと背筋が粟立つ。唇を舐めて湿らせる彼女の舌は、まるで蛇のようだった。
「貴方たちの好きだった『あたし』はどこにもいないのよ。全部まやかし。ぜぇんぶ、ね。ね、どう? 傷付くかしら?」
あくまでも楽しげに彼女が笑う。僕は何も言えなかった。がらりと変わった彼女の雰囲気がただ恐ろしく、このまま殺されるのではないかという本能的な恐怖をさえ掻き立てられて、ずるずると尻を引き摺って、少しでも彼女から距離を取る。するとそんな僕を見て、ふっと彼女の顔から笑みが消えた。一瞬だけ寂しさのようなものが過ぎった気がするが、すぐにそれも僕を侮る表情に変わる。屈辱的だという感情も湧いてこなかった。
「……ここで怒ってあたしに掴み掛かってくる奴さえいないんだもの。本当男って無様よね。つっまんないの」
最後の一言を乱暴に吐き捨てて、彼女はぞんざいに立ち上がる。そして持っていた雑誌を僕の顔に投げつけた。見事にクリーンヒットしたそれは鼻面を直撃してじんじん痛む。ふんと鼻を鳴らすと、彼女は一度だけ、花のように可憐な笑みを浮かべた。それは紛れもなく、僕が惹かれた笑顔、そのものだった。
「それじゃ、さようなら。もう二度と、会うこともないでしょうね」
颯爽とした足取りで、彼女は部屋から出て行った。ばたん、と玄関の扉が閉まる音がする。僕は冷たいフローリングに座り込み、呆然とそれを聞いていた。
――誰も本物のあたしなんて愛せないわ。
彼女が出て行く間際、ぼそりと聞こえた気がする小さな声は、果たして本音なのか、嘘なのか。
ほんもののあたしなんて愛せない
いつだって、偽者しか愛されないの。
[mokuji]
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