nostalgia

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春なんて待たない、きみ。


 白い花弁が、散っている。ふわりと舞い落ちたそれは僕の服の袖に柔らかく着地する。僕はそれを摘み上げようと、出来る限りの注意を払って人差し指と親指で挟むように触れてみる。でも、駄目だった。それは僕を嘲笑うように、すうと溶け消えてしまったのだ。

 嗚呼、駄目だった。唇の隙間からため息が洩れる。しかし、白い花弁……空から舞い散る雪は、いつまでも降り続ける。吐き出した二酸化炭素が白濁に曇るのを、僕は空虚な気持ちで見詰めていた。


――今日は雪が降るんだって! すっごく寒いと思ってたら、そりゃ、雪が降るんだもん、寒くもなるわよね。それでね、いつ降るんだろう、いつ降るんだろうって楽しみにしてずっと窓から見ていたんだけど、駄目なの。まだ降らないのよね。早く降ってこないかなあ。


 庭を駆け回る子犬のように、無邪気にはしゃいだ彼女の声を反芻する。同時に僕の脳裏には、心から待ち遠しそうにベッドから身を乗り出して窓をじいと見詰める彼女の綺麗な横顔も、まるで映画のように流れていった。


――はいはい、判った判った。だから大人しくして。ちゃんと暖かくしてなよね、子供じゃないんだから。

――もう、アンタはそういうところが可愛げないわ。


 結局その日、雪はちらほらと慰め程度に降っただけだった。それでも彼女は充分に満足だったらしく、外に出て雪に触れたいと騒いでは、お医者さんや看護師さんを困らせていたっけか。外に出てはいけませんと宣告されて不貞腐れた彼女を宥めるのは僕の役目だった。

 どうして僕が、とか、あんな状態になった姉さんを宥めるのは本当に大変なんだからね、とか。文句をぶつぶつ並べつつ、何だかんだでそんな役目を誇りにさえ思っていた。……それなのに、僕はもう、お役御免らしかった。勝手だ。本当に、どこまで人を振り回すんだろうか、あの人は。一応僕より年上だろうに。

 ふ、と口元が吐息に緩む。笑みのようなものが浮かびかけ――その直前、僕の喉元に熱い何かが込み上げた。釣り上がり掛けた口角はぴしりと固まり、緩みそうになった唇は堅く一文字に結ばれる。

 シンちゃん、と僕の名前を呼ぶ、風鈴の音みたいに軽やかで清涼感のある、それでいてキャラメルみたいな甘さを隠した声が耳元で聞こえ…………限界だった。

 嘔吐するときのようにくぐもった声が洩れ、僕はぐっと背を丸めた。指先まで冷え切った手で顔を全て覆い、熱く滲む目元を隠す。はらはらと降る雪が、僕の身体に留まるのが感ぜられた。雪の冷たさは僕には辛すぎて身体が凍える。それでもそこから動くことは出来なかった。


――ねえシンちゃん、私、外に出たいわ……。雪、今日も、降っているんでしょ? きっと冷たいんでしょうね……。いいな、触れたいな。積もった雪を、口の中に入れて溶かしてみたいわ。清らかで、甘くて、優しい味がするでしょうに……。


 一ヶ月前、彼女はもう、ベッドから起き上がることでさえ困難だった。窓側に顔を向け、今にも途切れてしまいそうにか弱い声で、祈るように言っていた。


――雪の気配も感じられないくらい暖かくなったら……うん、やっぱり外に出たいわ。大きな桜の木を仰いでみたいの。花びらを集めて、乾燥させて、小瓶に詰めておきたいわ。

――桜が咲く、前の季節だっていいわ。こじんまりした可愛い梅の花、もう一度、見たいわねえ……。甘くてとってもいい匂いがするのよ、シンちゃんは知ってる? 嗚呼、冬が終わって春が来るんだなって……そう思える、匂いなの。

――私ね、春って大好きよ。勿論、それ以外の季節だって……今の時期だって、どれも、好き。だけどね、春が一番好きなの……。ねえ、シンちゃん。早く、春に、ならないかしらね。雪が降るのは嬉しいけど、冬は少し、今の私には、寒すぎるんだもの……。


 そう言うなり、彼女が身体をくの字に折って激しく咳き込み始めたのを、僕はまるで昨日のことのように思い出せる。喀血し、白いシーツは色鮮やかな赤で染められていた。それまでにも彼女が発作を起こすのは何度か見たことがあったけれど、そこまで激しいものは初めてだった。

 混乱した僕はナースコールを押し、ただ彼女の枕元でおろおろとしながら、ひたすら無事を祈ることしか出来なかった。そして結局、祈りは聞き届けられなかった。次の日の朝、彼女は驚くほどに安らかな顔で眠りに就いたのだ。

 雪に触れたいと言ったくせに。春の訪れを心待ちにしていたくせに。僕を散々振り回してくれたくせに。お別れは、あまりにもあっさりだった。


「…………ッ、勝手だ、姉さんは、本当に、どこからどこまでも、勝手な人だ……っ」


 恨み言を吐き出しながら、冬の冷たい風に吹かれる。感じたいと彼女が願っていた冷たい空気は、あまりにも痛かった。


春なんて待たない、きみ。
君自身は待っていたのに、君の身体は待つことをさえ、許さなかった。

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▼水島家キャラクター etc.……

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