nostalgia

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カラコロ鳴る声


 薄墨に似た闇の中、真紅の花が咲いていた。それはくるくると悪戯に回ってはこちらへおいでと人を誘う。幻想的なその光景に、わたしは思わず魅入ってしまう。ほんの少し先を歩けば、人工的な光の眩しい喧騒溢れるネオン街である。そんな当然の事実さえも一瞬忘れてしまうほど、その真紅は別世界めいたものに映った。

 ふらり。蜜に吸い寄せられた蝶のように、わたしは一歩を踏み出した。身体が別の何かに操られているみたいだ。どうしても意識がそちらに向かってしまう。強制力は決して持たず、しかし意識を別方向へ持ってゆくことが不可能になる。まるで呪い(まじない)だ。

 近付くにつれ、真紅の輪郭を明瞭に捉えられるようになる。花と見紛うほど色鮮やかなそれは、いまどきあまり見掛けない、それでも見事な和傘であった。その細い柄を持つ手の白さが明るい夜の中で浮かび上がる。わけの判らない緊張がわたしの心臓を騒がせて、ごくりと思わず生唾を飲んだ。

 そこにいたのは、和服を纏った女性であった。暗い紺地が背景に異様なまでに溶け込んでいた。お情け程度にあしらわれた柄は大人しい。あまり和服について詳しいわけではないものの、若い人が着るにはあまりに素っ気無いデザインだと思った。

 けれど、和服の女性は決しておばさんだったわけではない。一目で見てそれと判ったのは、胸元が大きくはだけていたせいである。モノクロのせいでより一層肌は白さが際立っており、ちゃんと見つめると肌がまだ瑞々しさを失っていないことは見て取れた。

 ……だが、それにしたってこれはちょっとやりすぎじゃなかろうか。着物をこんな風にはしたなく着る人は見たことがない。同性のわたしだって目のやり場に困るような有様だ。


「……おンや、まあ。これはアタシとしたことが、釣り上げる獲物を間違っちまったみたいだねェ」


 失敗した、こんな人にほいほい近付くんじゃなかった……。自分の軽率な行動を後悔しかけたそのときに、乾いた声がカラコロ響く。それは妙な婀娜っぽさを孕む、それでいて生々しさを感じさせない、とても不思議な声だった。落ち着いた抑揚と、女性にしてはだいぶ低めなその響き。それが鼓膜を叩く度、何故だか肩の力が抜けてゆく。さらさらと滑らかな細かい砂のようだ。


「こんばんは、可愛らしいお嬢ちゃん」


 こんばんは、と言葉を返す。彼女はだいぶ背が高かった。顎を上げてまじまじ彼女を見詰める。女性は表情一つ変えなかった。何を思っているのか判らない、朴訥とした顔でじっとわたしを見下ろしている。すう、と細められた双眸はどろりと血の溶けたような色をしていた。

 特別おかしなところがあるわけではない。確かにそこそこ整った顔をしているとは思うけれど、とびきりの美人というわけでもなかった。それなのに、何故だろう。彼女周辺の雰囲気は、妙に現実離れしている。気だるげな指の動き一つでさえも、人をどきりとさせるのだ。


「……アタシの顔に、何か付いているのかい? さっきから、やたらと視線が熱心だ。そんな目で見ちゃァいけないね。お姉さんがそそられちまったらアンタ、責任取ってくれるのかい?」


 軽く吐息を交え、彼女は静かに囁いた。媚びてくるわけでも、甘さを潜ませるわけでもない。本気なのか冗談なのか、本人が真顔を崩さないものだから、さっぱりその真意が見抜けなかった。わたしは一言無理ですと答え、再び彼女の顔を眸に捉える。つれないねェ、と呟く女性は然して残念そうにするわけでもない。


「ま、いいさね。お姉さんも、今はちっと手が離せないんだ。例えアンタが一晩相手になってくれるって言ったとしても、今晩は無理そうだしねェ」


 言う割には大して大変そうでもないのに。喉元まで出掛かった言葉を寸前で堪えて呑み込んだ。彼女には今出会ったばかりなのだ。無遠慮に言葉を投げて、それが許される間柄にはない。そんな当然のことを、わたしは今更思い出す。

 たった数分立ち話をしただけなのに、何故だろう。彼女の前だと気が緩む。それは彼女に対して心を許しているわけではない。なのにいつの間にか、心の扉の蝶番が緩められてしまうのだ。今までに感じたことのない心地にわたしは唇を噛み締めた。

 すると女性の手がするりとわたしの頬をなぞり上げ、優しく親指できつく噛み締めた下唇に触れた。驚いて思わず力を抜くと、彼女は満足げに小さく頷く。


「癖なのかは知らないが、それはあまりやるべきじゃないね。アンタの可愛らしい唇が台無しだ。ここは大事にしておやり、女の武器の一つになるよ」


 それじゃ、もうお行きな。ここはあまり安全な場所じゃァないよ。

 とん、と背中を軽く押され、わたしはその衝撃で思わず一歩を踏み出した。振り返ると、女性はひらひら軽く手を振っている。お行き。カラコロ、鳴る下駄を連想させる声に再び言われ、わたしは何も言えずにそのまま前を向くしかなかった。

 ふふ、と小さく笑う声が聞こえる。


「さようなら、お嬢ちゃん。もうアタシみたいなのに惑わされちゃァいけないよ……」



カラコロ鳴る声


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▼水島家キャラクター etc.……

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