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なら今夜、駆け落ちしよう


「わたし、この学校を卒業したくない。……この寮から出たくないわ」


 怒りを込めて、普段より幾分乱暴な手付きで瑠璃子は制服を脱ぎ捨てる。床に落とされた衣服はぱさりと乾いた音を立てた。それを見下ろす彼女の横顔は不機嫌なことが丸出しで、淑女という言葉が似合う瑠璃子には似合わない表情である。

 くすり。その様子を近くで眺めていた奈々枝は思わず笑う。そして腰を屈めると、ルームメイトが放り投げた制服を一枚ずつ拾い上げた。それを丁寧にハンガーに掛け直し、皺の寄った生地をぴんと伸ばす。そして横目で不貞腐れた瑠璃子を見つめ、その子供のような態度に再び笑う。『笑わない麗人』として学園内で名を馳せる彼女にしては、随分と機嫌が良さそうだった。


「そんなこと、言ったって無駄でしょう。あたしたちはもう高校三年生で、今はもう一月なんだし。卒業の三月まではあっという間よ」


 年齢にそぐわぬ落ち着いた声で瑠璃子を諭し、床の上に置かれたクッションへと腰掛ける。兎を模した形をしていたそれは、長年椅子として使われてきたせいだろうか、ぺしゃんと潰れてしまっていた。しかしそんなことは気にかけず、彼女はテーブルの上で湯気を立てる青いマグカップへと手を伸ばす。色香を滲ませた薄い唇には、しっかりと笑みの形が刻まれていた。


「……だって、ここはわたしが唯一自由を得られた場所なんだもの。出て行きたくないわ。ここを卒業したら、又わたしは両親に決められたレールの上で生活するのよ。いまどきそんなこと有り得ると思う?」

「仕方ないでしょ、貴女はいいところのお嬢様なんだから。宿命だと思って諦めたら? 案外と楽しい人生送れるかもよ」


 しれっと言葉を返す友人に対し、瑠璃子はむっと不満を込めて彼女を睨む。しかし奈々枝は全く堪えてはいないようで、飄々と紅茶を啜っていた。酷いわ、と独り言を洩らしながらも、瑠璃子はいつも奈々枝に勝てない。諦めた彼女はがくりと肩を落とし、もたもたと鈍間に部屋着を着込んでいった。

 着替え終えた瑠璃子は自分の黄色いマグカップへと手を伸ばす。それは奈々枝のそれと色違いのものだった。しかし意外なことに、わざとそうして揃えたというわけではなかった。二人とも、寮に入る前に家から持ってきたものである。とはいえその偶然が、二人の仲を親密にするきっかけとなったのは言うまでもない。

 比較的おっとりとして人の良い瑠璃子と、美人で切れ者ではあるが愛想がなく一匹狼を気取る奈々枝。性格こそは正反対であるものの、二人は唯一無二の親友同士であった。


「……ま、でも貴女の気持ちは判るけど。決まった型に押し込められるなんて堪ったモンじゃない」


 ぽつり、と奈々枝がひとりごちる。瑠璃子はその声に素早く反応した。我が意を得たとばかりに眸をきらきらと輝かせ、少し前のめりになりながら「そうでしょう!?」と声を上げる。奈々枝は一瞬鬱陶しそうに手を振ったものの、一度だけ頷いて見せた。


「あたしだったら気が狂うわ、そんなの。自分を産んでくれたからって、子供の人生何もかも好きにしようなんて横暴にも程がある」

「でしょう、でしょう!? それよ、本当にそれ! 確かにこの歳まで育ててくれたことには感謝してるけど、だからってわたしの全てを決める権利なんて二人にはないんだもの!」


 興奮からか、瑠璃子の声が大きくなった。奈々枝が整った眉を顰める。そして身を乗り出す彼女の額をぴんと強く弾いた。


「落ち着きなさいよ鬱陶しい。苛々するくらいマイペースな普段の貴女はどこに行ったの」

「う…………今日はいつにも増して辛辣ね、奈々枝……」


 弾かれて赤くなった額を擦り、大人しく瑠璃子は浮かせていた腰を降ろした。それから抱えるようにマグカップを持ち、ふうふうと湯気を吹き散らかす。猫舌な彼女にとって、熱々な紅茶は凶器にも相当する。

 見慣れたその光景に、奈々枝はふと口元を緩ませた。そして彼女の言葉を脳内で反芻する。この学校を卒業したくない。この寮から出たくない。……そんなこと、

(考えているのが自分だけなんて、……思っているんでしょうね、お馬鹿さんで鈍感な貴女は)

 ゆるりと首を横に振り、音を立てずに紅茶を啜る。ようやく自分の舌に合う温度になったのか、嬉しそうに紅茶を飲んでいた瑠璃子は目敏く奈々枝の動きに気付いた。僅かに左へと首を傾げ、ただでさえ丸い眸を更に丸くし、何も判っていない風情で彼女は問う。


「どうかしたの、奈々枝。何かあった? わたし、何かしたかしら」


 人の心には鈍感なくせに、どうしてこんなところだけは敏いのだろう。内心で苦笑しながら、素っ気無く別にと奈々枝は返す。そう、と不思議そうに頷きながらも、瑠璃子はそれ以上何も突っ込んでくることはない。それが彼女の良いところであり悪いところでもあると、以前からぼんやりと奈々枝は考えていた。

 いつからだったか、もうはっきりとは憶えていない。けれど奈々枝は同性の友人に向けるに相応しい感情以上のものを、ずっと親友に対して抱え続けていた。勿論それを匂わせる言葉は一言たりとも発したことはないし、態度に出した憶えもない。彼女には親が決めた許婚がいるのだということも随分と前に聞いたような憶えがあるし、この気持ちを伝えて友人の関係をぶち壊すだなんてまっぴら御免だとも思っていた。だからどうか気付いてくれるなと願いながら大切に気持ちを温め続け――。しかし。

 何故だろう、最近奈々枝はいつまで経っても気が付かない瑠璃子に対し、淡い苛立ちを憶えるようになっていた。自分でそう仕向けたというのに、と何度内心で自嘲したかも知れないが、どうしても苛立ちが消えてくれることはなかった。

 そして、その苛立ちを抱えるようになってから早半年の年月が過ぎている。――奈々枝はもう、限界だったのだ。


「……瑠璃子、貴女本当に自由が欲しい? 誰にも縛られない生活が?」

「え? ……まあ、そうね。欲しいわ、とっても。得られないものほど焦がれるなんて、昔の人が残した言葉は偉大だわ」


 軽く目を伏せ、瑠璃子が小さくため息を吐く。諦めたように儚く笑う彼女の表情(かお)は、今までに奈々枝が見てきたどんな人より可憐であった。奈々枝は思わず息を呑む。そして緩く長く息を吐き、肺に溜まった空気を全て出し切った。それからじっと瑠璃子を見つめ、まろい曲線を描く彼女の頬へと手を伸ばす。ひやりと冷たい手に触れられた瑠璃子は驚いたのか目を瞬いた。


「ねえ、瑠璃子。自由を望む貴女に一つ、提案があるの」


 泣き出しそうに微笑んで、奈々枝はゆっくりと口唇を開いた。出てきた言葉に瑠璃子の動きはぴたりと固まる。

――なら今夜、駆け落ちしましょう?

 きっと手を取って貰えることはないだろうと思いながら、奈々枝は友情という脆い絆が壊れる音を、目を瞑って聞いていた。



なら今夜、駆け落ちしよう
あたしが男だったら良かったのか、なんて、考えたくはないものね。(だってそうだったら貴女に会えていないもの)

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