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雨よどうか、雪になれ


 その日は非常に暗かった。分厚く立ち込めた雲が夜空の悉くを覆い尽くし、月の光が地上に届くのを阻んでしまっていたためである。おまけに惨劇の舞台となった町は灯りの少ない田舎の土地だった。通り過ぎる人の顔でさえ、はっきりとは判らない。そんな冬の夜だったのだ。

 そんな中、寒さに凍える年端も行かない一人の少女が闇に紛れて佇んでいた。彼女は鼻先を赤く染め、冷える指先に温い息を吹き掛けながら、ひたすらじっと相手を待った。その顔には、寒さに対する不満も、闇夜に対する不安も、どちらも浮かんではいなかった。むしろ彼女の顔には晴れやかと言っても差し支えのない笑みが浮かんでいた。その表情からは興奮や高揚といった類の感情が読み取れる。

彼女は中身を確認するようにコートの右ポケットを軽くぽんと手のひらで叩いた。その中に入っている『それ』は布越しに固い感触を彼女に伝える。彼女は更に嬉しそうに表情をゆるゆると緩ませた。あーぁ、……ようやく、ですねぇ。囁く言葉は同時に吐き出した靄と共に溶け消えた。


 男は覚束ない足取りで、しかし上機嫌に夜道をふらふらと歩いていた。たっぷりと飲んだ酒のせいなのだろうか、どうにも身体が火照って仕方がない。彼は脱いだスーツの上着を右肩へと引っ掛けて、ひっくと大きなしゃっくりをした。顎の辺りがだらしなく弛んだ赤ら顔は、顔の造りと合わせてとても醜悪なものと化していた。しかし勿論本人がそれを知る由もない。彼は呑気に調子っ外れな鼻歌を口ずさんだ。

 角を一つ曲がる。真っ直ぐ行けば家はもうすぐそこだ。もう零時をとうに回っている時刻だし、女房はもしかしたら酷く怒っているかもしれない。まあ別にどうでもいいか――。そんなことを考えた刹那、彼は後ろからひゅっと脇腹を掠める風を感じた。ぐっと呼吸が一瞬止まる。火でも押し当てられたのだろうか、脇腹が妙に、熱い…………。

 彼の鈍った思考では、物事を正しく理解することが難しかった。しかし燃えるように熱いそこへと手のひらを押し当てた瞬間に全てを悟る。ずき、と今まで感じたこともない激痛が彼を襲った。ぬるりとした生温い液体が手のひらを汚す。ひぃ、と喉の奥で引き攣れた情けない悲鳴が口から洩れた。刺された――刺されたのだ、自分は。どうして。足音も聞こえなかった、人がいる気配だってなかったのに、どうしてこんな。

 恐怖に顔を歪めた彼は、ふと自分の目の前にいる人物に気が付いた。何か黒いものを羽織っているらしい。顔がよく見えなかった。しかし男より随分と小さいことだけは確かだ。その手には銀色のものが握られていた。十中八九、男を刺した刃物であろう。性別さえも曖昧だったその人が、ふと俯いていた顔を上げる。にい、とその口元が大きく歪んだ。ぎらぎらと、赤い――血のように赤い異質な眸が輝いている。男の膝が、がくがくと大きく笑い始めた。


「あはぁ……結構深く切り裂いたつもりだったんですけどぉ、キュウショは外れちゃいましたかぁ? 外れちゃったみたいですねぇ…………。やっぱりつむぎぃ、おシゴトするの初めてなのでぇ、まだまだショージンする必要がぁ、あるみたいですぅ」


 甲高い声は明らかに幼い少女のものだった。頭の悪そうな間延びした敬語口調が男の恐怖を更に煽る。仕事? 仕事って何だ? 俺を刺したことが仕事だっていうのか? キュウショ……急所? もしかしてコイツは、俺を殺しにきたのか?

 すっかり酔いの醒めた頭で男はぐるぐる考える。早く逃げなければと思うのに、身体は一向にその意思に従う様子がなかった。奥歯がかちかちと鳴る。まだ五十代前半であった男にとって、死とはまだ御伽噺のような存在であった。しかし今は違う。それは明確な姿を伴い、有り得ないほどの速度で彼へと迫りつつあった。


「むぅ…………おじさぁん、つむぎと遊んでるのにぃ、ほかのこと考えてませんかぁ? やーですよぅ。つむぎと遊ぶときにはぁ、ちゃんとつむぎに集中してくださぁい」


 拗ねたように言うと、少女は男の腹部へぶすりと刃物を突き立てた。あまりの痛みに声も出ない。目の前が眩み、男は開いた口からだらりと涎を垂らした。死にたくない、と生への執着がこれまでにないほど強くなる。ぽつりと空は涙を零す。それは徐々に勢いを増し彼らを濡らし始めたが、男はそれに気付けないほど必死であった。

 少女が刺した刃物を一気に引き抜く。ぶしゃっ、と血液が噴き出した。血生臭いその匂いは氷雨のそれと混ざり始める。少女はいかにも楽しそうにきゃはっと声を上げた。


「そうそう、そうやってぇ、必死になってくださいよぉ! じゃないとつむぎ、つまんないじゃないですかぁ!」

「やめ……たのむ、たのむぅうぅ……ころ、殺さないでくれぇ…………」


 男が弱々しく少女に縋り付く。しかし彼女はあっさりとそれを払い退けた。地面に這い蹲る男を見下ろし、尚も笑みを絶やさない。


「だぁめ、ですぅ。言ったじゃないですかぁ、これ、つむぎのおシゴトだ、って。おじさん、知らないんですかぁ? おシゴトってぇ、大切なことなんですぅ。おじさんを殺さないとぉ、つむぎ、にぃにからオシオキされちゃいますぅ」


 少女が両手で刃物を握り、それを頭上に振り翳す。男は彼女の意図を悟り、何とか逃げ出そうと必死にもがいた。しかしその努力も虚しく、彼女はがっと足の裏で男の背中を踏み締める。彼女はくいと首を傾げると、終焉の言葉を口にした。


「もう少し楽しみたかったんですけどぉ……ざぁんねん。そろそろ、お楽しみはぁ、終わりの時間、なんですよぅ」


 さようならですぅ、負け犬の、汚いおじさん。



   ***



「……おーおー、派手にやらかしたじゃねエか」


 どこからか現れたその男は、背中から刃物の柄が飛び出た中年男性の骸を見ると、そう言って愉しげにくつくつ笑う。そんな彼を見て、今まで顔に浴びた返り血を服の裾で拭っていた少女は、嬉しそうに彼へと飛びついた。おっと、と男の姿勢が一瞬揺らぎ、しかしすぐに立て直して少女の身体を抱き締める。少女はすりすりと男の胸に顔をすり寄せた。


「あーこら、血ィ擦り付けんじゃねエよ、馬鹿紡。服が汚れンだろ」

「えへへぇ、にぃに、にぃに。つむぎねぇ、ほらぁ、がんばりましたよぉ。この人ぉ、殺しましたよぉ。つむぎ、えらいですかぁ? つむぎ、いい子ですかぁ?」

「はいはい、いい子いい子。その歳でよくやったよ。ったく、お前には天性の才能があるなア? 尤も、殺しの才能なんてろくなモンじゃねエがよォ」


 甘える少女の頭を撫でて、男は小さくため息を吐いた。そして彼女の小さな身体を引っぺがし、その手をきゅっと強く握る。あっちに車停めてあっから、と言われ、少女は小さく頷いた。しかし彼女は手を引かれても暫くは動かず、じいと今殺したばかりの男を無言で見つめている。

 苦しみもがいた腕。じわじわと面積を広げる血痕。ぴくりとも動かないその身体は、やはり彼女の目には肉の塊にしか映らない。その姿は両親の死に様を彷彿とさせたが、胸に湧いてくる感慨は何もなかった。


「……紡? どうした、行くぞ。誰か通り掛かったらやべーンだぞ」

「はぁい…………判ってますぅ。ただぁ、キレイだなぁって、思っただけでぇ」

「綺麗? あの男の死体がか?」

「はぁい。血でまっかっかに染まってぇ、とってもキレイですぅ。きっとぉ、この雨が雪に変わったら、もっともっと、キレイですよぉ」

「どうしてそう思うんだ?」

「だってそうじゃないですかぁ。血の赤と雪の白はぁ、きっとすっごく、似合うと思うんですよねぇ」


 その言葉を残し、少女はゆっくり歩き始める。それを急かすように、男は大股で歩みを進めた。その夜、降りしきる氷雨は彼女の思いを汲むように、淑やかな粉雪に変わったのであった。


雨よどうか、雪になれ
美しいこの血(アカ)を、もっともっと、映えさせて。

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