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与太話はお好きでしょうか?
広がるのは一面、赤だった。
しん、と肌に突き刺さるような静寂が耳についたせいだった。普段ならば当然静かだからと起きることなどないというのに、その日ばかりは、少女の目はぱっちりと冴えてしまったのである。
暫くのうち、眠らなければ、眠らなければと大きなベッドの上で寝返りを打っていたのだが、次第に焼け付くような喉の乾きを憶え、少女は近くにあった大きなうさぎのぬいぐるみを抱えてそっとベッドを抜け出したのだった。
毛の長いスリッパに素足を滑り込ませ、起きたことが両親に知られないように息を殺して暗闇の中を壁伝いに歩く。そしてふと、両親の部屋のドアが開いているのが見え、そこから僅かに灯りが洩れていることに気が付いたのだった。
こんなよなかに、どうしたんだろう。
不思議に思い、少女は灯りに惹かれる羽虫のように、ふらりふらりとそちらへ向かった。そしてふと、空気が妙に鉄臭いことに気が付く。まるで鉄釘みたいだと、彼女は疑問を抱えながら首を傾げた。
近寄って行くと、両親の部屋のドアの隙間から、赤色が顔を覗かせていた。きょとんとして更に近寄ると、更に赤の面積が広くなっている。彼女の目には、それは真っ赤な絨毯のように映った。
おとうさまとおかあさま、こんなじかんに、じゅうたんをしかれたのかな。
鉄の匂いが、更に強まってゆく。噎せ返るようだった。何かが変だ、と少女は眉を寄せた。
「おとうさま……おかあさま……?」
小さい声で両親を呼ばわって、少女は赤の中へ足を踏み入れた。そしてその瞬間に愕然とする。クリームイエローだったはずのスリッパが、どんどん床と同じ赤色に染め変えられていったためだ。
そう、それは絨毯などではなく、大理石の床をひたひたに満たし覆い尽くした、夥しい血液の海なのだった。
「……血……」
嗚呼、先程から香るこの香りは鉄釘などではない。紛れもない、血の匂いなのだと、少女は気付く。そして気付いた瞬間にその匂いは、甘美で芳醇なものへと変わった。こくり、痩せ細った青白い喉が上下に動く。床に溢れる血を飲みたいと、彼女は強く思った。
しかし少女はその場にしゃがみ込むことなく、ゆっくりと慎重に歩を進めていった。そして部屋の中で信じられない光景を目の当たりにする。そこに在ったのは、大きな肉塊が四つ。
ーー人間の、死体であった。
だがそれらはもう、生きていた頃を想像する方が難しいほどの惨状となっていた。肉は抉られ、頭部は飛んでころころと転がっており、傷口からは白い砂糖菓子のような骨が飛び出ている。
辛うじて身体に纏っていた服から、それらが自分の両親、そして住み込みで働いていた二人のメイドであることを、少女は察した。
そしてすぐ近くには、死神のように真っ黒な姿をした長身の男が一人。凶器であろう大きな刃物をその手で弄び、にやにやと口元を半月型に緩ませていた。
「んー……仕事終了ってとこ、かなー……。呆気ねーなー……。ガキが一人いるんだっけか……そいつも殺しに行かねェとなァ」
聞き取りにくいほど低い声で男が呟く。幸いなことに、少女がそこにいることには、未だ気が付いていない様子だった。しかし、少女が逃げ出す様子はない。酷く胡乱げな目で惨状となっている部屋を見渡すと、そっとその場にしゃがんだ。
大切そうに抱えていた白うさぎを床へと乱暴に放る。新雪のように真っ白なそれはすぐに赤へと染まっていった。しかし少女はそんなことには気を留めず、小さな白い手を血液に浸すと、それをゆっくりと自分の口元へと持ってゆく。そして指から滴る血を一滴ずつ舐め取っていった。
高級な生地のパジャマが汚れることも厭わずに、彼女は血液に優るとも劣らない色をした眸を恍惚に歪め、ちろりと出した舌で赤い雫を大切そうに舐めてゆく。滴るものがなくなると、指に舌先を伝わせて、指と指の谷間まで夢中で味わうのだった。
「……あァ?」
そして殺人鬼が、とうとう少女の存在に気が付いた。まずしゃがみ込んでいる少女を一瞥し、転がっている赤へと変色したうさぎのぬいぐるみを見、再び視線を少女に戻す。彼はぎょっとしたように顔をしかめた。
しかし少女は悲鳴を上げるでもなくじっと彼を見据え、赤く染まった口元を乱雑に服の袖で拭う。男はそんな彼女の対応に動揺したのか、一瞬言葉を失った。
人、しかも両親が死んでいるこの部屋で、犯人と思しき男を目の前に、……齢十程の少女が何もせずに蹲って血を飲み、口元を赤く染めているその図は、彼の目から見てもあまりにも異様な光景だった。
「……つむぎのおとうさまとおかあさま、ころしたのは、あなたですか?」
この年にしてはおかしいくらいに舌っ足らずに発されたその言葉に、彼はつられて頷いた。そうですか、と少女は激するでもなく静かに言う。それが余計に不気味に思えてならず、思わず男は笑みを崩した。
「……お前、音無紡、だよな? 音無家の、一人娘の」
「はい。つむぎは、おとなしのいえの、あととりむすめです。そういわれて、そだてられました」
「……親父さんとお袋さん、死んでるの、判るか? 俺が、殺したんだぜ? 恐くねえの?」
「……? こわい? なんでですか? ヒトは、いつかしぬものだって、つむぎ、おそわりました。なのに、どうして、ヒトがころされているのが、こわいんですか?」
こてん、と首を傾げ、少女は真っ直ぐな視線を殺人鬼へと向けた。そこに在るのは純粋な疑問ばかりであり、恐怖はこれっぽっちも見受けられない。男はそんな少女を見て、背筋にぞっとするものを感じた。
彼は仕事柄、子供のいる家を襲ったことは初めてではない。だが今までの子供たちは皆親が殺されて怯えるだの、発狂するだの、何らかの反応があったのである。しかし目の前の赤い猫目の少女はしれっとした顔で、なんと床に流れている血を幸福そうに舐めているのだ。
(……こりゃァすげェバケモンに出会っちまったぜ)
興奮から肌が粟立つのを感じ、男は黒いパーカーの上から自分の腕を擦る。心臓が激しく打ち付けていた。刃物を握る手に力を込める。目の前の少女を殺してしまうには、聊か惜しいような気がしたのだ。
「……そういえば、あなた。おとうさまと、おかあさまと、……メイドさんたちをころしたってことは、つむぎのことも、ころすんですか?」
「てめーのこと、今から殺すんだよっつったら、てめーはどうすンだよ?」
「つむぎ、しにたくありません。だから、あなたをころします」
本日の天気でも訊いているかのような、あっさりとした口調で少女は宣った。その答えに、男は我慢しきれずにくつり、くつりと笑いを洩らす。今までにないほど、愉快な気持ちだった。
「そーかい、お嬢サマよォ……俺を、殺すってかァ。そーんなちっぽけな身体で、武器も持たずにィ? どーやって、俺を殺すってンだよォ」
「……それは、かんがえて、いませんでした。でも、ころされるまえに、ころします。つむぎ、しにたくありません」
「はっ……ははは、あっはっは! こりゃァいいなァ! 俺はいーいモンを見付けたらしい!」
唾を飛ばし、男は下品に笑い転げた。少女はその様子を特に感情の篭もらない目でただ見つめるだけだ。そして再び手を血の中にさらし、また丁寧に舐めてゆく。
一頻り笑ったらしい男は血を飲んでいる少女においと声を掛けた。少女は興味なさ気に、しかし律儀にはいと返事をする。その返事はまるで、そうするようにプログラミングされたロボットのもののようであった。
「俺ァお前が気に入ったぜ、お嬢サマよ。お前、死にたくないんだろ?」
「はい。つむぎは、しにたくありません」
「なら決まりだな。殺さないでおいてやるから、お前は俺と一緒に来い。お前はどうやら生まれつき俺らの世界の住人みたいだからなァ。表世界じゃァさぞかし生きづらかろう。生きる術を教えてやるよ」
「いきる、すべ?」
少女は素直に男が差し出したその手を取った。男はそのまま少女を自分の方へと引き寄せて、黄ばんだ歯を見せつけてにやりと笑う。
「嗚呼。てめーはこれから、俺の……そうだな、養子にゃちと俺が若すぎっから、妹だ」
「いもうと、ですか? でもつむぎには、にぃにもねぇねもいませんよ」
「だァから、これから俺がお前の『にぃに』だ。これからは音無姓を名乗るんじゃねェぞ、藍染だ。藍染紡と名乗れ」
「あいぞめ、ですか」
「そーだ、藍染だ。判ったか、紡」
ナイフを持たない方の手が、少女の頭を乱暴に撫でる。すると初めて、少女はその顔に、表情らしき表情を浮かべたのだった。
頬を紅潮させ、目を細め、口元は緩やかに弧を描いている。心から嬉しそうな、歳相応に幼い顔であった。
「……はいっ、にぃに! つむぎはこれから、あいぞめつむぎです!」
***
語り終えると、目の前の少女はこちらの反応を窺うように、チェシャ猫のようなにやにやとした厭らしい笑みを浮かべていた。彼女のショッキングピンクの毛髪が目にチカチカと意地悪く、私は思わず瞬きをする。
それを見ると愉快そうに笑みを洩らし、再び彼女は口を開いた。
「こぉんなことがねぇ、あったんですよぉ、過去にはねぇ」
「え? にぃにですかぁ? あー、殺しちゃいましたよぉ、紡がねぇ」
「殺人の仕方も仕事の取り方も、ぜぇんぶ教えてくれて。藍染の名前もくれたんでぇ、もう用済みじゃないですかぁ?」
「だからこう、頸動脈をすっぱりと。……色々お世話になったんでぇ、苦しまないように一瞬で殺してあげましたぁ」
「あははっ、びっくりした顔してますねぇ! あーっ、面白いですぅ!」
「…………さぁて、ではぁ、ここまでご静聴ありがとうございましたぁ。そしてあなたにぃ、訊いてみますねぇ?」
今までの話に含まれていた『真実』はぁ、一体何パーセントの割合で、しょー、かぁ。
嗚呼、それは全て、与太話。
与太話はお好きでしょうか?
彼女はにんまりと笑うだけ。
[mokuji]
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