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まだ見ぬ君の影を追う


 彼女が跳ねれば、空気は変わる。夕焼けを纏った踊り子は、まるで蝶のようだった。


「美しい……」


 惚れ惚れと、客の口から感嘆の吐息が洩れた。それと共に、たった一言、それだけの言葉が吐き出される。そう、彼女を表現するためには、『美しい』以外の言葉など、まるで不必要なものなのだ。

 しなやかに伸ばされた腕が、優美なステップを踏む脚が、くるりくるりと空気を混ぜる。その様は如何にも楽しげで、彼女が誰より舞が好きであるということを知らしめた。

 これだけ美しい舞を魅せるのだ、彼女自身もきっと絶世の美女であるに違いない――。周囲の男共の期待が漣のように広がってゆく。しかし生憎と、彼女は淡い紫の色をした薄布を被ってしまっており、どう頑張ってもその顔(かんばせ)を拝むことは叶わない。

 しかし、僕は何故か、彼女がどういう顔立ちをしているのかということを知っていた。
彼女の頬は滑らかで、清純で高潔な雪の色をしている。琥珀の眸は挑発的で、気位の高い猫を連想させるのだ。

 一瞬、踊り子がこちらを向いた。その瞬間薄布越しに、僕と彼女の視線が絡み合った――ように思える。どきりと胸は高鳴った。

 嗚呼、愛しき君よ。どうか早く、舞台を降りてはくれないか。そして邪魔な布を取り払い、その眸で僕を見て欲しい。そして願わくば、君の名前を教えて欲しい。

 願望で心の中は溢れ返るようだった。思わず僕は手を伸ばす。触れることは出来ないと知っていた。そんな僕を翻弄するように、踊り子は舞を舞う、舞う、舞う――。



 機械的なアラーム音が、半ば暴力的に、眠りの淵から僕を呼び戻す。もう少し眠りたいと足掻いて無理矢理目を瞑るも、アラームは止まらない。アラームを設定した過去の自分を殴り飛ばしてやりたい思いに駆られつつ、僕はのそのそとベッドから這い出した。

 重い瞼を擦りながらアラームを止める。唐突に音は鳴り止んだ。一気に部屋は静まり返る。しかしよく耳を澄ましてみれば、朝を告げる小鳥の声がした。


「眠い……」


 まだもう少し眠っていたいと強く願うも、もう起床の時間だ。諦めて、僕は朝の支度を始めた。髪を梳き、そこらに放っていた服に着替え、トーストを焼いて食し、歯を磨いて顔を洗う。酷く機械的な作業の流れ。

 一応見落としたことはないか確認をしてから、僕は一人暮らしのアパートから外に出る。太陽は今日も活動的だ。

 ため息を吐き、僕はバイト先に向かうため、黙々と足を動かした。耳に着けた白いイヤフォンから流れる音楽を聴くとも無しに聴きながら、今日見た夢にぼんやりと思いを馳せる。


 あの夢を、見るようになったのはいつからだろう。


 僕があの踊り子を夢に見たのは、何も今回が初めてのことではない。昔から、幾度も繰り返して同じ夢を見るのだった。何せもう、彼女の踊りを完全に憶えてしまったほどだ。

 もしかして、あれは何か特別なものなのだろうか。予知夢だとか、又は前世のことだとか。夢には色々な意味合いがあるものだという。もしかしたら、あの夢も、その類のものなのかもしれない。

 普段はスピリチュアルなことなど頭から信じてはいないのだが、この夢に関してだけは、どうもそんなことを考えてしまう。馬鹿馬鹿しいと一蹴するには、あまりにも生々しい映像であるからだろうか。

 脳裏に踊り子の姿が浮かぶ。しなやかで、程よく筋肉がついているのだろう、すらりとした四肢。腰ほどまであっただろうか、触り心地がよさそうで艶やかな黒髪。まるでファンタジーのようだとも思える、肌を存分に露出させた、それでいて品を失わない美麗な衣装。

 普通、夢で見ただけでここまでくっきりと思い出せることはないだろう。けれど自分は彼女の姿を、今見たばかりのように思い出すことが出来る。但し夢の中の自分は知っているらしいその顔を、思い出すことは出来ないが。


「勿体ないよなあ……どうせ夢なら、あの薄布、剥がすことが出来たらいいのに」


 思わず独り言を呟いた。正直な感想だ。顔も知らぬ美女、というのも中々に心惹かれるけれど、美女と聞いたらその顔を拝んでみたくなるのが男というものだろう。

 そんなことを悶々と考えつつ、僕は小さな喫茶店へと入ってゆく。ドアについていた小さな金色のベルが、からんからんと控えめに主張する。

 営業時間前ということもあってか、その店の席はそっくりそのままがらんと空いていた。店の中にいるのは、髭面で強面の男が一人。この喫茶店の店主であり、血が繋がった叔父でもある人物だった。

 彼はベルの音で僕が入ってきたことに気が付いたのか、顔を上げると強面を人のよさそうな笑みに歪ませて、ひょいと軽く片手を挙げた。


「早いな、おはよう」

「言うほど早くはないと思うよ」

「や、充分だろうさ。まあ、来たならしっかり働いて貰うぞ。ほらほら、さっさとエプロンを着けて来い」

「はいはい」


 軽く頷きながら、僕は荷物の中から赤いエプロンを引っ張り出した。腰の辺りできゅっと紐を結ぶと、気分がしゃんとする。無意識に背筋が伸びた。制服というものは、人の気持ちを奮い立たせる効果があるらしい。

 今回は学校が夏休みということで、叔父の家で短期のバイトをすることになっていたのである。だが以前からちょくちょく手伝いには来ていたので、仕事自体は慣れたものだった。

 叔父から指示を受けるまでもなく、てきぱきと手を動かしてゆく。身体を動かしているうちに、今日あの夢を見ていたことも忘れていった。

 全ての準備を終えて、ドアにかけていた『CLOSE』の札をひっくり返す。『OPEN』という文字が顕になった。店内に戻れば、珈琲の良い香りが充満している。どうやら珈琲豆を挽き始めたらしい。

 程なくして、ベルの音が客の来店を告げる。いらっしゃいませ、と愛想よく声を掛けながら顔を上げた。客の顔は逆光になっていてはっきり見えないが、どうやら女性のようだった。人の少ない店内を、慣れた様子で彼女は進む。

 一番奥の席へと座った彼女のもとへ水を運ぶ。彼女は本か何かを読んでいるのか俯いていた。触れてみたくなる黒髪が印象的だ。

 ご注文は、と遠慮がちに声を掛けた。ゆっくりと、彼女が顔を上げる。気の強そうな美女である。ラッキー、と軽く思い、しかし琥珀の眸と視線が絡んで呆然とした。

 ――名前も知らぬ相手だ。顔も知らないし、一体どんな声をしているのかすら、僕は知らなかった。

 頭の中で、顔を隠した踊り子が、音楽に合わせて美麗に舞っていた。顔を隠す紫色の薄布が、ひらり、ひらりと危なっかしげに揺れる。

 相手は何を思っているのか、僕をその眸に映すと元から大きなそれを見開いた。表情は驚愕に染まっている。暫くの間黙ったまま、ただ互いに見つめ合う。微笑んだのは、彼女が先だった。血統書付きの高級な猫を連想させる琥珀の眸が嬉しげに細まる。形の良い唇は、緩やかに弧を描いた。
 そっと彼女が口を開く。空気を震わせたソプラノは、想定していたよりもずっと柔らかくその場に響いた。


「――ようやく、会えた。やっぱり、あれは唯の夢じゃなかったんだ」


 どう答えたらいいのか判らなくなる。夢、という単語が僕の脳みそを揺さぶって、的確な判断能力を根こそぎ奪っていったようだった。震える唇の隙間から、情けなく掠れた声で言葉を紡ぐ。


「貴女の、名前は?」


まだ見ぬ君の影を追う
夢で見ただけのはずなのに、こんなにも懐かしいのは何故なのだろう。

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▼水島家キャラクター etc.……

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