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涙色の空の下
涙色。幼馴染であり、同時にわたしの恋人でもあった彼は、雨が止んで晴れ間を見せた空を見上げる度にそう呟いた。何故『涙色』だと思うのか、その理由は決して教えてはくれなかったけれど、その癖はどうやらわたしに染み付いてしまったらしい。
おかげで今日もわたしは、ふと空を見上げては、その単語を口にしてしまうのだ。嗚呼、君はどこまで深く、わたしに自分のことを刻んでいってしまったのだろう。
彼は柔らかな人だった。別に触れたときの感触を言っているわけではない。唯印象がそれなのだ。柔らかい人。穏やかな人。とても、優しい、人だった。
そしてそれと引き換えに、とてもずるくて残酷な人だった。いつも自分の心の内は見せないまま、わたしの心を見透かしてしまうのだ。わたしを翻弄しては楽しむように彼が笑っていたのを思い出す。
「……会いたいよ」
思わず気持ちが溢れ出た。ぽつり、呟いた言葉は、雨に濡れた町の雑踏にかき消されては消えてゆく。思いを踏みつけられているようだと思い、わたしは緩やかな寂しさを吐き出すようにそっと吐息を口にした。
家庭の都合で彼は遠くへと引っ越していった。それはもう、およそ一年も前のことである。そしてそのときに彼は、わたしに別れを告げたのだ。
近くにいてあげられない自分が、君の自由を縛りたくは無いのだと。寂しがりの君には、ずっと近くにいてくれて、ずっと優しくしてくれる人が似合うだろうと。そんな勝手なことを言って、わたしとの関係を放棄した。
嫌だよ、別れたくないよと泣き縋ったわたしの頭を、彼は何度も優しく撫ぜた。その手の優しさが憎らしくて、突き放せない自分が悔しくて、余計に涙が溢れたことを、君はどうせ知ってしまっていたのでしょう?
そして彼はわたしに言った。もしどうしても君が別れたくないのなら、一年間待っていてくれと。一年経ったら会いに行くから、それまで自分を忘れないでいてくれと。幼子に言い含めるかのような調子で、そうわたしに言った。
「……もう、一年、経っちゃうよ」
ずっとわたしは待っていた。ずっと君を信じて待っていた。この一年、魅力的な男の子に出会わなかったわけではない。けれどどうしたって、君以上に心を揺らす人はいなかったのだ。だからずっと、ずっと待っていた。――でもどうせ、君はそんな約束ですら、憶えていないのだろうけれど。
ぐるぐるとそんなことを考えて、わたしはため息を落とす。こんなことを考えていたって、もう仕方ないのだ。早く家に帰ろう。家に帰って、シャワーを浴びて、ぐっすり眠ってしまうのだ。涙色の空の下、わたしは意識して力強く一歩を踏み出した。
……そのときである。
「京子」
呼吸を、忘れた。慈しむような響きを孕み、わたしの名前を呼んだその声は、自分が今心に思い描いたその人の声と、そっくり同じものであったから。半ば反射的に振り向いた。そこには一人の男の人が立っていたけれど、水溜りに太陽の光が反射してきらきら光り眩しくて、どうにもしっかりと姿を見ることが出来ないのだ。
目を細めながら、ふらりと一歩そちらに近付いてゆく。そんなわたしを導くように、その人はまた「京子」とわたしの名を呼んだ。
「何で、ここに」
「一年経ったら会いに来るって、言っただろう?」
呆然と呟いたわたしの言葉に、彼はおかしそうに笑いながら言葉を返した。耐え切れなくなり、わたしは彼への元へと駆け寄っていく。浅い水溜りを踏んだのか、水の粒がぴしゃんと跳ねて、まるで宝石か何かのように煌いた。
彼の胸に飛び込むようにすれば、少し驚いたのか彼はわたしの身体を受け止めながらも目を丸くする。たった一年会っていない間にまた少し背が伸びたみたいだ。また一歩彼が大人へと近付いていることにほんのりとした寂しさを抱えたが、それも再会の喜びに押し潰される。わたしの眸には涙が溜まり、彼の顔が揺らいで見えづらかった。
「馬鹿……馬鹿、どれだけわたしが待っていたと思っているのよっ! あんな、あんな曖昧な約束だけ残して、本当にずるい……!!」
「ごめんね。……会っていない間に気持ちが冷めました、近くにいてくれた人を好きになっちゃいました、なんて言葉聞きたくなくて。だから、あんなことしか言えなかったんだよ」
「臆病者! ……わたしは、ずっと、待っていたんだから。ずっと、ずっと大好きだったんだから」
「うん。俺も、ずっとずっと、京子のことが好きだった。今も好きだよ。大好きだ」
宥めるように髪を撫ぜられ、堪えきれず涙が零れ落ちた。一気に彼が慌て始める。ざまあみろと思った。ざまあみなさい、どれだけ君に別れを告げられてわたしが悲しかったのか、これで少しは思い知ったことでしょう。
ぎゅっと彼の身体に抱き着いて、自分の泣き顔を隠す。おずおずとわたしの身体に彼が腕を回した。その遠慮加減が寂しくて、抱き締める腕に力を込める。すると彼は遠慮を振り切ったのか、前のように迷いのない力で抱き締め返してくれた。
「……京子、待たせてごめん」
「うん」
「泣かせてごめん」
「うん」
「……こんな俺のこと、まだ好きでいてくれるのなら、さ」
「うん」
「俺と、もう一度付き合って、くれませんか」
「むしろこの流れでそう言わなかったら殴ってやろうかと思った」
笑われるかと思いきや、彼はわたしの強気な発言に安堵のため息を洩らす。ぴったりと彼の胸に頭をくっつけてみれば、心臓が早鐘を打っていた。どれだけ彼が緊張していたのか、そのことでようやくわたしは知った。
「――今日は、涙色の空をしているね」
誤魔化すように囁いた懐かしい彼の言葉に、わたしは小さく頷いた。
涙色の空の下
『涙色』、それは優しい色でした。
(フォロワーさんのイメージss。ひい。さんをイメージして書かせて頂きました)
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