- ナノ -

「いつ、お戻りに」

「つい今し方だよ いやぁ、思ったより時間がかかったし、雨にも降られて災難だった」


前髪がぐっしょりと濡れている鴇が苦笑して服の裾を絞れば、滲み出た水滴がまた牢へと落ちる

さきほど床に放られたのは鴇の蓑傘だったのだろう、水を含んで随分重そうだ


「学園長先生への報告を上げて、夕飯でも食べようかと思っていたら、仙蔵たちに呼び出されてね」

「……そう、でしたか」


鴇の後ろにいるだろう仙蔵たちを見るのが嫌だった

恐らくソレに気付いている鴇は、三郎を自分の腕の届く範囲からだそうとしなかった

しばらくは三郎と雑談をして落ち着かせていた鴇であったが、やはり事情を知りたいのだろう

三郎の両肩をそっと掴んで静かに問うた


「何をしたの、鉢屋」


言葉の端々は柔らかいが、鴇の目は笑ってなんかいない

驚くに決まっている、後輩が突然人に斬りかかったとなれば


「私は、」


自分の正当性を主張しようと思った三郎であったが、不意に不安が込み上げてきた

三郎の身を守るものは何も無い

皆が白と言っているものを、黒と言うどこが正当なのか

そしてそれを、鴇が正当と認めてくれる保証はどこにもないし、何と言葉にするのが正しいのか


「私、は」


不安に思うのはそれだけではない

ずっと考えないようにしてきたある考えが、ここで嫌が応でももたげてくる


(委員長は、どちらなのだろう)


皆と同じように、鴇が葛葉を昔からの学園の人間だと言った時点で、三郎の希望は断たれる

鴇が白、と認めているものを三郎が黒だと主張したところで、それは白には断じてならない

今鴇にまであの存在を肯定されてしまえば三郎はどうしようもなくなってしまう


他の人間であれば、まだ諦めもついたが鴇にも見放されてしまえば三郎は自身を守る術が消えるのだ

開いた口が、パクパクと空気だけを空回る


一言問えばいいだけだ


『葛葉なんて者は、学園にいませんでしたよね』と


だが、その一言で決まってしまう

三郎は学園の"仇なす者"と

じっと目を見つめれば、鴇も静かに見つめ返してくる


優しい、優しい眼差しだ

この人さえいれば、自分は前を向いていられると思った

この人さえ自分を信じてくれれば、何も恐れるものはなかった

しかし、それはこの人が自分を肯定してくれたら、の話だ


この人は、自分の一言にどう返してくるのか

カラカラと、喉が異様に渇く

たったの一言が、どうしても紡げない

今、自分を否定されてしまえば、


(私は、)

「葛葉さんを、知らぬというのだ」


痺れをきらしたのだろう、鴇の後ろに立っていた仙蔵が口を開く

心の準備が整わなかった三郎の肩が、葛葉という名にビクリと跳ねる


「葛葉なんて女は存在しなかった、と突然言い出したのが3日前 それから彼女に会う度に突っかかっていたようでな」

「初めは何かの悪戯かと思っていたが、どうもそうではなかったらしくてな」

「昨夜、お前に予算案と今月の経費を出そうとしていた葛葉さんに苦無を突きつけた だから此処に放り込む羽目になった」


仙蔵と文次郎の話を黙って聞く鴇の様子を、恐ろしくて三郎は見ることができなかった

次に鴇の口から出る言葉が、今後全てを決めると言っても過言ではない

まるで死刑宣告を待つ囚人のような心境であった

仙蔵の言葉が止まり、頭上の鴇の口が開く 


そして


「それで、彼女に怪我は?」

「不破や竹谷が防いだから、怪我はない」

「そう、良かった」


耳に入ってきた会話に、三郎は目の前が真っ暗になった気分であった

鴇は彼女を知っており、彼女の安否を気遣っている

無事であることに安堵の息を吐いた鴇は、三郎にとっては「知らぬ者」になろうとしていた


ジクジクと、胸のなかの膿が広がる

触れられた箇所が、急激に冷めてくる

この人もまた、三郎の世界から消えるのだ


(おわりだ、)

喉の奥から叫びたいほどの衝動が込み上げてくる

裏切られたような怒りと、言葉に表せない悲しみ

狂っているのは自分だったのか、全部を投げ出してしまいたかった


「な、せ」

「……………」

「はなっ…!!」

「すまん 少し、気が立ってるみたいだ」


離せ、と鴇を拒絶しようとしていた三郎の言葉を遮って、鴇が鉢屋の両腕をしっかりと掴んだ

嬉しいはずの体温が、急激に振り払いたくなるくらいに嫌になる


「体調が悪いとは聞いていたんだがね、鉢屋、お前また保健室に行かなかったのだろう」

「ちが、私は」

「気が立っていた、だけだよな?」


鴇の手を振り払おうとした鉢屋だったが、鴇の手はビクともしなかった

それに驚いて、鴇を見つめれば鴇は柔らかい言葉とは全く異なる真剣な目である

鉢屋の目をまっすぐ見つめる、その目には偽りは感じられない

念を押すように強く言われた言葉に三郎の動きがピタリと止まる


鴇は自分を否定しようとしているのか、自分を黙らせようとする鴇にどう接したらいいかわからない

泣き出しそうな顔をしている三郎の頬を優しく撫でて、鴇が仙蔵に問う


「仙蔵、鉢屋の処遇は?」

「…今までのお前達の活動の賜物だな 私達で判断してよいと言われている」


とりあえずは厳重処罰もないと知り、鴇がまた安堵の息を吐く

そうか、と呟き仙蔵たちの前に正座をし、こう言った


「少し時間をくれ この件、私が預かる」

「お前は鉢屋には甘い 贔屓目は?」

「ある が、そこまで甘やかせたつもりもない」


仙蔵が文次郎をちらりと見る

どうするかと考えあぐねている証拠だ

鴇は確かに鉢屋に甘いが、物事の分別が付かぬような人間ではない


学級委員長委員会委員長、という責任ある立場の人間で、今まで鴇が行ってきた行動は理にかない、道徳的にも模範とできるものばかりだ

鉢屋が委員会の後輩だから、といった単純な理由で無闇に庇うような真似はしないだろう

そういった規律や道徳面では鴇は自身にも他人にも妥協を許さないのだから


「……どうするつもりだ?」

「後輩の不祥事は、上の監督不行届だ 私が責任もって鉢屋を監視する」

「先生方には、何と説明を?」

「軽率な説明はできん 今はただ、時間をくれとしか」


真剣な声色と、鉢屋を見つめ続ける鴇に仙蔵もふむ、と小さく息をつく

鴇が帰ってきて、鉢屋もだんまりは出来ぬだろう、鉢屋は鴇に絶対の信頼をおいているのだから

このまま鉢屋を座敷牢に軟禁し続けても、拉致はあかぬし、後輩達も不在の鉢屋を不思議がるだけだろう

それならば鴇に手綱を握らせておき、除々に解決していく方が何かと自然だ


鴇が責任もって、と言ったからにはそこは必ず守られる

それほど、嘉神鴇という忍たまに対しての仙蔵の信頼は厚かった


「…いいだろう 私から、上手く説明しておく」

「よろしく頼む」

「おい、仙蔵」

「構わん 行くぞ、文次郎」


座敷牢を去っていく仙蔵達を見届けて、三郎は鴇を睨みつけた

先程から強い視線と口調で反論を封じられているが、鴇が葛葉を知る"あちら側"の人間であることに変わりはない

こうやって、2人になったところで、彼は三郎の待っていた嘉神鴇ではないのだ


「………………」


突きつけられた現実は、重くて辛い

睨みつけてみたものの、どちらかというと失望感の方が強い

鴇に怒鳴る元気も怒りも静かに沈下していく

諦めに近い感情で、俯いて黙秘を続けようとした三郎であったのだが、


「馬鹿鉢屋 忍のくせに、そんなに簡単に顔に出すんじゃないよ」


ぐしゃぐしゃと、前髪を荒く撫でた鴇にわっ、と慌てども、聞こえた言葉に三郎は動きを止めた

恐る恐る上げた視線の向こうで、困った顔で鴇が笑っている

まさか、と思う気持ちと戸惑いが鉢屋の中でグルグルと廻る


「報告を、鉢屋」

一体何が起きている、


そう問うた鴇は自分が待ち焦がれていた鴇であった

まだカラカラと渇く喉から出る掠れた声で三郎は問うた


「いいん、ちょ」

「何、」

「葛葉という、」

「それが誰かが、まずわからない」


だから報告、そう言った鴇に、もう一度三郎は飛びついたのであった








(あー、もう、いつもの冷静なお前はどうした)

(帰ってくるの、遅いっ……!)

(仕方ないだろ 忍務は聞いてたよりも厄介だったし、天気も悪かったし、お前達へのお土産も悩んだし)

(人がどれだけ待ってたと……………!)

(だから悪かったってば 鉢屋)


06_ただしいあなた



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