- ナノ -

初めに"ソレ"に気付いたのは鉢屋三郎であった


「………暇だ、」


屋根の上でふわぁ、っと大きな口を開けて欠伸をする

いつもは忙しい委員会だが、この3日休みが続いている

学級委員長委員会委員長である嘉神鴇が学園長からお使いを言い渡されて留守のためだ


「あーあ、私も付いて行きたかったなぁ」


ごろりと屋根上で寝転がって空を見上げる

ポカポカと陽気な天気であり、少しくらいの遠出も楽しそうだ

一昨日まで、五年生は実技訓練の期間であった

いつもは連れて行ってくれとねだれば連れて行ってくれる鴇も、優先すべきは学生の本分なり、と一蹴

ふてくされる三郎の髪を苦笑しながら撫でてお土産買ってくるからと出て行ってしまった

大人しく訓練も終えてみたが、やはり待っていたのは退屈な日々


(本当なら今頃は委員長と2人で楽しく…)


ついていけさえしていれば、長い道中を鴇とゆっくり過ごせていたのに、と訓練を言い渡した担任の木下を三郎は逆恨みしていた

ゴロゴロと屋根に寝転がり、空をぼんやりと見つめる

学年が進むにつれて、鴇の周りには人が集まるようになった

穏やかな気質と柔らかい笑みが魅力で、人を惹きつける要素はいくらでもあるのだから当然だ

こうなってくると、学園長先生のお使いか、いっそ忍務で2人きりにでもならないと最近は甘えることもままならない


(………やっぱり、無理矢理でもついていくべきだった)


深いため息をどうも止められそうにない

委員会も休み、悪戯も今日は気乗りがしない、雷蔵だって委員会で蔵書の買い付けに町に出て不在

三拍子で退屈な要素がそろってしまい、三郎は時間を持てあましていた

もうこうなれば後の楽しみは、早ければ今日帰ってくるだろうと聞いた鴇を待つことだけ

そう思っての正門が見える屋根での待機だ

眠たい目を擦りながら屋根上でゴロゴロしていれば、聞こえてきたのは門を叩く音


「は〜い、どちら様ですかぁ〜?」

(!帰ってきた!)


間延びした声で事務員の小松田秀作が門へと近寄る

寝転んでいた姿勢を正して三郎も門戸を凝視した

本当ならすっとんで行きたいが、鴇でなかった場合の体裁を考えると恥ずかしいというか気まずいというか

聞こえる音と声にそっと耳を傾ける


「あ、不破くん おかえりなさーい」

(…なんだ、雷蔵だったか)


何だ、と落胆するような相手では断じてないが、待ち焦がれていた相手でもなかったため小さく溜め息をつく

それでも構ってはもらえるはずだと思って屋根から降りようとした三郎であったが、その時何か三郎のなかで大きく脈打った


(………何だ?)


それは悪寒のような、はたまた動悸のような

どちらにしてもあまり心地のよいものではなく、何か背筋を駆け抜けるような嫌な感覚であった

一瞬走ったソレに三郎は動揺したが、何も感じていないように呑気な小松田秀作の声が続く


「あれ、一緒だったんですねぇ」

「さっき町で一緒になって、最近は山道も物騒だから一緒に戻ってきました」


聞こえたのは女性らしい少し高い声

どうやら雷蔵は誰かと一緒に帰ってきたらしい、屋根の上からでは姿が確認できず、三郎は急いで屋根を伝い降りた

先程の嫌な気配の正体も知りたかったし、何か妙な不安が心の中で込み上げているからだ


「あ、三郎」


ストン、と着地した三郎をいち早く雷蔵が見つけいつものように笑う


「お、おかえり 雷蔵」

「ただいま、何?待っててくれたの?」

「え、あ、うん」


本当は鴇を待っていたのだが、そんなことを言う必要はない

そう思って適当に顔を取り繕って笑えば、雷蔵も深く追求せずににこりと笑う


「はーい、たしかに入門票、サインいただきました〜」


チリン、と雷蔵の背後から鈴の音が鳴る

それと同時に、三郎の背筋を何かが駆け上る

コツン、コツンと下駄が石畳の上を鳴り、現れた人影に視線を奪われる


「……雷蔵、その人は」

「ああ、さっき町で会ったから一緒に戻ってきたんだ」


その人が笑う

とても、穏やかな静かな笑みを浮かべて

長い黒髪、白い肌

絶世の美女といっても過言ではないくらい、美しい娘が雷蔵の横で佇んでいる


「……誰だ?」

「え、何言ってるの三郎 葛葉さんだよ?」


見覚えのない女を訝しげに三郎が問えば、雷蔵が怪訝そうに三郎を見つめて名を告げる

これほど見目の良い女であれば、1度会えば忘れるはずがない

そもそも三郎は変装のために人の顔と名、仕草は1度見ただけで大方記憶できる人間である

それなのに三郎にはこの女の記憶はない

入学してずっと苦楽を共にした雷蔵にはあると言うのに

もう1度女に視線を向ければ、女と視線が交わる


「ただいま 鉢屋くん」


とても親しげに、とても自然にその女が笑った

自分は口にしていない自分の姓を当たり前のように口にだして

彼女がにこりと笑う


それがこの物語の始まりであった







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優しく、静かに穏やかに

あの人と同じように笑うというのに、

どうしてこんなにも

(嫌な感じがするのだろう)

始まりの始まりは、誰が知るというのか


01_始まりのはじまり



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