- ナノ -

疲れた身体を引きずって、部屋を一歩出る

ヒヤリと冷たい空気を感じると同時に、鴇は突然腕を掴まれ、そのまま壁に押しやられた

トン、と背に壁が当たり、それを感じる間もなく距離を一気に詰められる

特に抵抗することもなく、じっとしていればつまらなさそうに相手が鴇の前で溜め息をついた

動じたら相手のペースに引き込まれることを、鴇はよく知っていた


「帰ったなら、連絡ぐらいよこしたっていいだろう 鴇」

「大分遅かったからな 明日にしようかと思って」

「私がそんなことを気にしないの、知ってるのに?」

「そう責めないでくれ それなりに疲れてるんだ」


部屋の外にいたのは小平太であった

自分の帰りを聞きつけたらしい相棒は、挨拶もせずに寝ようとしたのが気に食わなかったのだろう

少し不貞腐れた小平太の様子にくすりと笑えば、久しぶりに鴇の顔を見た小平太もまあいいかと小さく笑った

大きく骨ばった手がそっと鴇の頬に触れる

少し温まった身体が外気に晒された小平太の冷たい身体の間で緩やかに融けそうだ


「怪我、してないか?」

「大丈夫だよ 長次は?」

「古書の修復作業中 もう終わるって言ってたな」

「そう あ、美味しい茶菓子、買ってきたから明日食べよう」

「それは嬉しいんだけどな、鴇」

「ん?」


帰還の挨拶もそこそこに、何か言いづらそうに鴇をちらりと見た小平太に、鴇も見つめ返す

カサついた小平太の指先が迷うように鴇の頬を数度撫でて

どうしたものかというようにガリガリと髪をかいて小平太が呟くように問う

恐らくここからが本番だ


「鉢屋の、ことなんだが」

「?うん?」


小平太が部屋の外で鴇を待っていたこと

こうして久しぶりの再会に押し倒すこともじゃれてくることもせずに口火を切ったことが全てだろう

小平太は鴇の部屋の中に三郎がいることを知っている

いつもであれば有無を言わさず部屋から三郎なり喜八郎なりを追い出すのにそれをしない


(つまり、そこは今日は触れてはならぬところだと、小平太も理解している)


そこまで悟っておいて、鴇は全てを知らぬと言わぬばかりの態度をとることにした

鉢屋の目線、伊作の目線は理解した

だが、まだまだ多角的に物事を見る必要があり、今欲しいのは小平太の目線だからだ

視線をそらさずに正面から受ければ、小平太もそれなりに整ったのであろう

小さく息をついて口を開いた


「話は、聞いてるのか?」

「概要はね」

「鴇は、どうするつもりなんだ?」


思っていたよりもストレートな問いに鴇は小さく笑った

実に小平太らしい率直さは相変わらずである

本来であれば、これに鴇も率直に答えればいいのだが、伊作は「6年は全滅だ」と言った

その言葉を鵜呑みにするなら、小平太は葛葉を知っているという"あちら側"の人間ということになる

そこまで鴇も理解して、小平太を見る

じっ、と見つめてくる小平太の目には迷いはない

鴇が好きな、ただ真っ直ぐ見る視線だ


「正直、考えあぐねている」

「……そうか、」

「お前は、どう思う 小平太」


言葉を慎重に選んで、鴇が小平太に問う

白か黒か、明確にはしたいと思っているが、小平太を敵とみなしたいわけでは断じてない

あくまで小平太の考えることを知りたい、それだけだ


「鉢屋は?」

「混乱していたからね、今日はもう休ませてる」

「…ふーん、」


考えこむように相槌を打った小平太に心臓がドクリと嫌な音をたてる

嘘を言ってはいない

いや、嘘を混ぜてはいけない

嘘を混ぜれば、小平太は簡単に見破る

それは長年培った鴇と小平太との間の信頼と絆であり、そこには誤魔化しはきかない

"全て正しく、嘘のない回答を"これから鴇は切っていく必要がある


「葛葉にというか、一般人に手を挙げたのは駄目だな 緘口令は引いたが、五年生も動揺してる」

「先生方は何か言っていたか?」

「厚着先生や木下先生は、鉢屋を新野先生に診せようかって」

「新野先生?何で?」

「一時的な記憶障害じゃないかって考えてるみたいだったなぁ」

「…そういうことか」

「………鴇、大丈夫か?」


その言葉にゆっくりと鴇が顔をあげる

じっと、小平太が鴇を見つめる

大丈夫か、その言葉の意味はどこにあるのか

ドクンと鳴った心臓を悟られまいと、鴇は静かに口を開いた


「何が?」

「難しい立場じゃないのか?」


問いを問いで返された

押し通すには微妙なところであり、下手な誤魔化しは疑惑を生む

そう思い、鴇も本音をぶつけてみることにした


「お前は、私がどちらにつくと思ってる?」

「鉢屋」

「即答か」

「気にくわんがな」


本当につまらないと思っているらしい

何となく手持ち無沙汰な小平太が鴇の肩口に顎をおく

温かい鴇の身体が、小平太の熱と混ざる

壁と小平太の身体に挟まれた鴇は、いろんな意味で逃がしてもらえそうになかった

ただ、会話の内容としては大分、気を遣った回答であったことに鴇は小さく安堵の息を吐いた

ここで鉢屋になど構うなとでも言われれば、きっと鴇は小平太に厳しい言葉を投げるはめになっていた


「鴇は鉢屋に甘いからな」

「それ、竹谷にも言われたよ」

「見られてるということを意識するんだな」

「まあ、別に見られて困るようなこともしてないがね」


ふん、と小平太がまたつまらなさそうに息を吐いた

それに小さく声をあげて笑えば、笑うなと小平太が抱きすくめてくる

しかし、今回も小平太はまだ一歩譲ってくれるらしい

それ以上何も言わないところをみると、鴇は三郎としばらく共にいていいという了解を得たも同然だ

ただそれが、少々すんなり出過ぎた気がしなくもなく、鴇は迷ったが口を開いた


「一つ、聞いても?」

「ん?」

「誰かに、聞いてこいと言われた?」

「なんだそれは、」


鴇の静かな問いに、小平太が心外だと首を振る

今度は気分を損ねてしまったらしい

少し低くなった声にしまったと思いつつ、鴇は小平太の言葉に耳を傾ける


「使いっ走りのような真似はしない 私がお前を心配してるんだ」

「大丈夫 上手いこと、するさ」


心配無用というのは、小平太にとっては小さな拒絶に聞こえたのかもしれない

鴇を腕を張って逃れられなくした小平太が、ゆっくりと鴇の目を覗き込む


「鴇、わかっているんだろ 鉢屋を庇い続けたら、お前まで妙な目で、」

「それでも、私は鉢屋と共にいるよ」


断言した鴇に、小平太の太い眉がぎゅっと寄る

好ましくないことだとはっきりとわかるその様子に鴇もまっすぐと見返した

小平太の杞憂も理解している

孤立した三郎を庇おうとする鴇が、同じような境遇に立つのではないかと案じていてくれているのだ

三郎に続く場合、さほど孤独ではないだろうが、小平太は鴇が奇異な視線に晒されるのは我慢ならないらしい

心配と、少しばかりの苛立ちが見えた小平太に鴇が心配するなと笑う


「小平太、まだ私の目は曇ってないつもりだよ」

「そんなの、知ってる だが」

「ならば小平太、信じていてよ」


ぎゅうっと小平太を抱きしめて、念じるように呟けば小平太は鴇を抱きしめ返したまま天を仰いだ

小平太だってわかっていた、鴇が絶対に後輩を切り捨てないことを

別に鉢屋でなくても同じであっただろう

それが鴇の今までの生き方だからだ


「私は、鴇が馬鹿なことをするだなんて思ってない」

「うん」

「…困ったことがあれば、相談しろ 私だって、お前の力になりたい」

「ありがとう 小平太」


優しく小平太を抱きしめる反面、鴇の目は据わっていた


(ああ、腹が立つ)


沸々と上るような怒りではない、深々と積もるような静かな遺憾が鴇の中で渦巻いていた

小平太には偽りも策もない

あるのはただ鴇を想う真っ直ぐな気持ちだけであった

だから鴇には余計にこの状態が腹立たしかった


(許してくれ、小平太)


どうして小平太をはぐらかすような真似を自分がしなくてはならぬのか

どうして小平太に此処まで言わせなくてはならぬのか

何故、私はこんな真っ直ぐな小平太の腹のうちを探らなければならぬような状態に陥っているのか

その意味のわからぬ現状が、鴇を苛立たせていた


「鴇?」

「…冷えてきたな そろそろ部屋に戻った方がいい」

「…………そうだな」


どこかまだ心配そうに、それでもこれ以上の干渉をやんわりと断ろうとしている鴇を悟って、小平太が困った顔で笑った

きっと何か勘づかれている 

そこまでわかっているのに、問わなかった小平太には感謝の意しかない


「ゆっくり、休むんだぞ 鴇」

「ああ、ありがとう 小平太」


空回るような笑顔で部屋に小平太が戻っていくのを見届けて鴇も自室へと入った

障子を閉めると同時に、どっと疲れが出てズルズルとその場に座り込む

今更ながらに嫌な汗が背を撫でる


(気分は、よくないな)


折角風呂に入ってさっぱりしたはずなのに、気分は最悪だ

小さく溜め息をついてぼんやりと考え事をしていれば、三郎の寝息が聞こえてきた

すうすうと、思っていたよりも深く休めていそうなその姿にそっと笑う


「これか、お前が藻掻いていた状況は」


柔らかい三郎の髪を何度か撫でて、鴇は呟いた

ようやく自身も布団に潜り、隣で眠る三郎へと向き合う

布団からはみ出た三郎の肩に布団を掛けなおせば、鴇の気配を無意識に感じ取ったのか鴇を求めて三郎が手を伸ばす

それに応えて手を握ってやれば、冷たい三郎の手がほのりと温かくなった


「妙に、腹が立つな この状態」


知らぬ存在が入り込んでいる

得体の知れぬ、異物がこの箱庭に

大好きな友の心に潜り込み、何知れぬ顔で私たちのなかに入り込んできている

鉢屋が悟ったのはきっと、この酷い違和感とざわめく危機感だ

どの方向に向ければよいかわからないこの不安は、自身だけで処理するには確かに難しい


「ごめんな 鉢屋」


どう捉えたらよいかなんて悠長な話をしている場合じゃなかった

自分がしなければならなかったのは傷ついた三郎を理解してやることであった

孤独と動揺、それから解放してやらねばならなかったのだ


(他にも、同じ思いをしている子がいるかもしれない)


明日はその子達を見つけてやらねばならない

そう強く決意しながら、長かった一日を鴇もようやく終えたのであった






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(酷く滑稽だ)


私も、お前も、何も非があるわけではないのに

私も、お前も、何も秘することがあるわけではないのに

どうしてこんなに遠いのか、

どうして踏み入ることができぬのか

見えない線、それでも確かに存在する境界線を

私はあと、何本お前に引かねばならぬのか


(小平太、小平太 許してくれ)
(今はまだ、お前に頼るわけにはいかぬのだ)


私はお前が差し伸べてくれた手を、

ただ静かに押し返すことしかできしか、今はできぬのだ


11_あとは擦り減るだけの言葉



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