- ナノ -

「ほら、寝る前に」

「?」


風呂からあがってようやく戻ってきた2人は鴇の部屋に居た

もともと2人部屋なのを1人で使っている鴇の部屋は三郎がやってきたところで充分余裕のある広さである

しばらく三郎がこの部屋で過ごせる分にはいろいろと整っていて何も問題はない

布団も敷いて、あとは寝るだけだと思っていれば、鴇が湯気の立った湯呑みを三郎へと手渡してきた

乳白色と甘い香りに驚いて三郎が鴇を見上げれば、鴇が苦笑して正面へと座る


「これ、」

「甘酒は飲めるだろ?」


酒はほとんど嗜まない三郎に甘酒を渡してきた鴇が同じものを自身の口に含みゆっくりと呑む

鴇の言うとおり、酒は苦手だが、これはまた別だ

倣うようにゆっくりと口に含めば、食道を通って温かい液体が胃のなかへと流れ込む

ほう、と小さく息をつけば鴇が小さく笑う


「食堂にあったから、失敬した 偶にはいいだろ?」

「…そうですね」

「少し湯冷めしたしな 温かいもん、腹に入れておきなよ よく寝れるさ」


小さく笑った鴇に、三郎もそっと笑った

静かな長屋の空気と、ゆっくりと流れる時間が身に染みる

ここでは何もかもが安心できた

無粋な視線も、妙な緊張感もいらない

そっと鴇を盗み見れば、長旅で疲れているのだろう、珍しく姿勢を崩して小さく欠伸をしていた

視線に気付いたのか、どうかしたか?と優しく問われれば、いえ、と慌てて二口目に三郎は口をつけた

チビチビと甘酒に喉を潤せば身体がポカポカと温まってくる

この数日、気を張り続けていたせいか、このゆったりと流れる空気が酷く心地よい


(……ねむ、い)


そのせいだろうか、急激に襲ってきた睡魔に三郎の身体がぐらりと揺れる

頭がぼうっと霞みがかり、手足も重い

身体の奥から感じる緩やかな熱と、掌からじわじわと温まる感覚に抵抗できない


「鉢屋、もう寝なさい」


睡魔から目を擦りだした三郎に、いち早く鴇が気付いて声をかける

そっと三郎のなかの湯呑を回収して、鴇が三郎に布団に潜るよう促す


「し、かし 委員長は」

「私はもう少しだけ片付けをしてから寝るよ」

「な、ら 私、待って…」

「そんな眠そうな目をして、待つも何もないだろうに」

「…………で、も」

「いろいろ話したいこともあると思うが、今日は寝ろ」

「委員、長」


しつこく待とうとする三郎の目を鴇が覗けば、そこにはまだ色があった

ゆらゆらと揺れる不安と、寂しさ

それは、三郎が低学年の時に見せた色によく似たものだ

あまりよくない傾向だと思いながら鴇が、粘ろうとする三郎にそっと問う


「何を、恐れる 鉢屋」


グラグラ揺れる三郎に静かに問えば、ぼんやりと三郎が自分の目を見る

恐れている?自分が?何を?

脳内で繰り返される問いに答えるべく、三郎は鴇をじっと見つめた


「私、は」

「…いいや、すまん やっぱり寝た方がいい」


見つめたまま黙ってしまった三郎に、鴇が無理に答えを出さなくていいと取り消すように笑った

それを不安気に見上げた三郎に、鴇が小さく笑う


「委員、ちょ…」

「深く、深く眠るといい 深淵の底まで潜って、不安を全ておいておいで」


優しく頬を撫で、そのまま三郎の髪を結わえていた髪紐を鴇がバサリとほどく

トン、と肩を押されれば三郎は重力に逆らうことなく布団へと倒れこんだ

柔らかい布団と温かい身体、そして何より鴇が自分を見ていてくれる

これ以上、求めるものなんてないはずだ


「…っ…………」


毛布をかけるため離れようとした鴇の寝着の裾を三郎が掴んだ

それに一瞬目を丸めた鴇であったが、そんな三郎を小さく笑い、静かに髪を撫でた

それが何度か繰り返されれば、ウトウトと三郎の目蓋が降り始める


「甘えたがりだな 鉢屋」

「…………すみま、せん」

「謝るなよ お前に甘えられるのは、嬉しいものさ」


ここ数年、いくら大人びた態度をとるようになったって三郎は可愛い後輩であることに違いはない

たまにベッタリと甘えてくれば、それを許容するだけの気持ちが鴇には十二分にある


「何も心配することなんてないさ お前のそばにいるよ」

「………ほんと、に?」

「私が、お前との約束を違えたことがあったか?」


その言葉に三郎がふっ、と笑い、どこか納得したように首を横に振る

そう、鴇が言う通り、何も心配することはないのだ

これ以上の安心が、どこにあるというのか


「おやすみ 鉢屋、よい夢を」


その声が引き金を引いたかのように、すっと三郎は深い眠りについたのであった















すうすうと、鉢屋が小さな寝息を立て始めたのを確認して鴇は髪を撫でるのを止めた

普段から眠りが浅い三郎は警戒心からか丸まって眠ることが多いが、今日は仰向けだし、深い眠りについたようだ


「腹立つくらい、よく効く薬だ」


伊作に昔処方してもらった導眠剤を片手で遊ばせながら、鴇は三郎を見下ろした

忍務で使うものではないため、ほのかに甘みのあるコレは、三郎が本調子であれば口に含んだ時点で気付いただろう

しかし、味が濃く、温かい甘酒に混ぜてしまえばこちらのもので、三郎は躊躇なくそれを飲み干した

とにかく睡眠をとらせてやりたいと考えていた鴇の思惑どおりとなったが、正直あまり好ましいともいえない


(…可哀そうに 疲れきってるな)


青白い顔、疑心に満ちた目

座敷牢で自分を掴んだ三郎の手は驚くほど冷たくて、声に潜む焦りと戸惑いは痛いほど感じ取れた

何が正しくて、誰が正しいのか、そんな根本的な思想から押し出されてしまった彼は酷く憔悴していた

あれほどプライドの高いこの後輩が、仙蔵と文次郎が居るにもかかわらず抱きついてきた時点で、事情を知らずとも鴇には大きな衝撃があった

物事の全体を把握したわけではないが、三郎自身から聞いた話を元にするならば、自分が戻るまでの一週間近く、三郎は気を張り続けていたことになる

忍務のように重い現実のなかでの切迫した状況とはまた違い、まるで夢の世界に迷い込んだかのように自身の知る現実とは捻れた状態であることは想像より遙かに理解に苦しんだだろう

受け止められない現実に加え、安らげるはずのこの箱庭で三郎に向けられたのは奇異の視線と先程の竹谷のような痛烈な言葉と想い

気持ちの切替なんて、出来なかったはずだ


(土産なんかに悩んでる場合じゃなかった さっさと帰ってきたらよかった)


自分に叱咤しながら、鴇は小さく溜め息をついた

いくら知らないところで起きてた話といえど、自分の不出来さには呆れるばかりだ

三郎の適応力の高さを鴇はよく知っているつもりであった

どんな過酷な忍務であっても、どんな急な展開でも、三郎はしれっとした表情で臨機応変に対応し、乗り越えてきた強者である

それなのに、刃を人に、しかも武器も扱えなさそうな女性に向けたという

考えもなしに、この子が斬りかかったとは思っていないが、堪えきれずの衝動であったのもまた事実であろう


(さて、どう見たらよいのか)


そんな三郎への懺悔は後に、鴇は少しこれからについて思案してみることにした

風呂に入る前にまみえた葛葉という女

見目が良く、気性も穏やかで健気にさえ思えたのは鴇が現を抜かしているからか

正直な話、あれに危険性を見出せるかと問われれば、現時点では限りなく否、だ

そもそも、彼女への態度があれで正しかったのか、鴇には何とも言えない

初対面か、昔から慣れ親しんだ相手への態度をとるべきか、そこに迷いも生じ、中途半端な距離を置いてしまった気もする

これが古参の、たとえば仙蔵達の前での態度であれば疑われたかもしれない

そう考えると今更ながらに冷や汗をかいた


(これは、なかなか身動きがとれない)


慣れ親しんだ箱庭で、どうしてこんな余所余所しい想いをせねばならぬのか

恐らくこの数日三郎が味わったであろう窮屈さを身近に感じて鴇も思わず苦笑した

当面の目的は、風呂でも決めた通り学園内への影響調査と現状の把握、そして葛葉の取り扱いだ

鴇が下げる必要もない頭を下げ、彼女の要望を聞く姿勢をとったのも此処にある

この学園へ踏みいった理由、何かしらの目的を探る必要があると感じたためだ


(先に懐に入られた分、居心地が悪いな)


鴇は三郎が彼女に一切気を許さなかったことを忘れてはいない

いくら三郎に人見知りの気があるとはいっても、そこは長い付き合いだ

この子が何かを直感で掴み、それが防衛本能に火をつけたのだというくらいには鴇も三郎を理解している

見た目に害がないからといって、それを鵜呑みにするなんてのは、忍としても有り得ない

そして、


「………やっぱり、簡単には寝かしてくれないか」


いい加減疲れた身体を休めたいが、もう一踏ん張り必要なようだ

小さく溜め息をついて部屋の外へと続く障子を見つめる

音はない、けれども放っておくわけにもいくまい

ゆっくりと立ち上がって戸口に進み、後ろを振り返る

三郎が起きないことをもう一度確認して、鴇は静かに部屋を出るのであった







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深く、深く意識が沈んでいく

この数日、訪れる度に振り払ってきた宵闇だ

落ちていく身体に力を一切入れず、ただ流れに身を任せる


『何を、恐れているの?』


あの人の問いの答えはただひとつ

口にすれば、そこで覚めるかもしれないと怖くて口に出せなかった答え


(貴方さえも、夢になるのではと)


いなくならないで、と縋る私にあの人が笑った

あの手の温もりと、あの綺麗な笑みが私を掬い上げる


『お前のそばにいるよ』


それだけがただただ嬉しくて、

私はこの深淵にさえ何の疑問も抱かずに飛び込めるのだ



(たとえ現実と夢が入り交じったとしても、貴方の言葉さえあれば生きてゆける)



続きはまた、覚めた現実のなかで対峙すればいいと、言い訳のように結論づけて今はただ深く沈むのだ

10_残るのは貴方のやさしさばかり



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