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エメラルド幻想(野村雄三)


遅めの昼食をとりに来た鴇が発見したのは、保健医の新野と誰かが食べかけた昼食一膳であった

この食堂でお残しなんてあり得るのか、鴇は咄嗟に洗い場にいるおばちゃんを盗み見た


「あら 嘉神君 今日は何にする?」

「焼魚定食、時間かかりますかね」

「さっき焼いたのがあるから大丈夫よぉ」

「ではそれで」


にこりと朗らかに笑われて、鴇もにっこりと笑い返した

お残し厳禁の食堂のおばちゃんが怒り狂っていないのを見ると、ここにある膳は誰かが許可を得て中断しているのだろう

鴇は新野に同席の許可をとって、昼食をとることにした

これは一体誰の膳なのかと、この食堂では珍しい光景を話題にしながら


「ストレス…ですか?」

「ええ、野村先生が大木先生のことでストレスが溜まっているらしくてねぇ」


話を聞いてみたところ、ここに残る膳は教師の野村雄三が置いていったものらしい

火急の用事でもあったのか、気になった鴇が新野に尋ねれば、上記の回答が返ってきた

どうも野村雄三がストレスを溜めこんでいるらしい

食事こそ喉を通るが、食べてはため息を繰りかえすため新野はストレスを溜めてない人間の意見を参考にすればと助言をしたとのこと

誰のところに行ったのかは知らないが、一のはトリオの後を追ったと聞いて鴇は溜め息をついた


(野村先生は、追い詰められるとよくわからない方向に助けを求めるな)


確かに猪名寺達はストレスとは無縁そうであるが、大の大人が参考にできるようなものではなかろうに

そう思いつつ、何となく聞き捨てておけないのは雄三のストレスの原因のせいだと思う

雄三のストレスになっているのは、自分の親代わりである大木雅之助だというからだ

ただ、どうこうできるものでもない

どうしたものですかね、と尋ねる新野に鴇はどうしようもないと返した


「今に始まったことではないでしょう 雄ぞ…野村先生と雅之助の不仲なんて」


雄三先生と昔の呼び方が出かかったのを鴇が飲み込んだのを見て、新野がああ、と相槌を打つ


「そうでした そうでした 君はこの件に関してはもう慣れっこでしたね」

「ええ 野村先生には申し訳ありませんがね」


ひょいひょいと魚の身を上手く骨から取り分けていく鴇は少し眉間に皺を寄せた

ここ最近静かだと思っていたが、どうもそういうわけではないようだと思いながら


「氷炭相容れず、もともと思考回路の作りが違うのです 野村先生は理知的で論理を重んじられる それに対して雅之助は衝動的で感性でモノを言わす 合うわけがないのですよ」

「それでも、君は大木先生と上手くやっているようですけれど」

「私も衝動的な人間ですからね 最も、雅之介に育てられたから似るのは当然でしょうか」

「嘉神君が衝動的の分類に入るのであれば、大半の人間を衝動的と言わざるをえませんよ」

「お手本にしてきたのは雄三先生だったはずなのですがね」

「まあ、しかし 私達も大木先生が子育てできるのか心配しましたね いや、懐かしい」

「…私も、どうしようもなく融通が利きませんでしたからね」

「幼子に、そんなものは求めていませんでしたよ」


お恥ずかしい、と苦笑した鴇に新野もまた小さく笑った

元・忍術学園教師 大木雅之助が嘉神鴇の親代わりであるというのは知れた話であるが、当初一騒動あったことを新野は知っている

孤児となった鴇を独り身の雅之助が引き取ると学園長に申し出たというのは当時酷く揉めた

まだ幼く、親を失ったばかりの鴇の面倒を子育も未経験の、自炊もろくにしない雅之助がみるといえば、そりゃあ引き止めたくもなるものだ

ただ、当時の雅之助の意志も固く、連れてこられた鴇も雅之助に縋るようについて回っていたこともあったのだろう

結局、鴇が落ち着くまでの1ヶ月、様子を見てから決めると学園長が言った

そして、いざ忍術学園の離れの同室で生活を始めた鴇と大木雅之助の性格は、それは見事に合わなかった


『おお、鴇 どうした』

『…布団 畳んだ方がよいと、昨日も言いました』

『?どうせ今夜も使うんだ 構わんだろうが』

『少し、部屋を片付けた方が』

『ああ、変に動かすと場所がわからんくなる 置いておいてくれ』

『………………』


この会話を聞いただけで、鴇が可哀相だと言った野村雄三の言葉は頷けるものである

1人暮らしが長く、元々無精なところもある大木は布団をあげる必要性を感じておらず、武家の子で躾が行き届いていた鴇にとっては布団を敷きっぱなしで生活するというのは考えられない状態であった

鴇の所作を見ていれば、几帳面できっちりしていることは明白であった

陽が昇るとともに起床し、部屋の空気を入れ替えて

真っ直ぐ背筋を伸ばして食事をとるその姿は、絵にかいたように模範的であった

知らぬ土地に来て、背伸びしているのかとも初めは思ったがそうではない

これが鴇にとっての当たり前だったのだ

一方で、朝はギリギリまで寝る雅之助は早くから起きていた鴇と朝食を共にとることもままならず、昼は授業

雅之助が授業をしている間、入学前であった鴇は1人でやることもなく、部屋に溜まっていた大木の大量の洗濯物や散らかした書類を当たり前のように片付けていた

小さな身体で大量の洗濯物を干しては畳む、そんな姿は健気というか気の毒で、1人ポツンと時間を持て余す鴇に当時はヘムヘムがよく寄り添ったものである

そんな日が何日も続いたある日である


『…昨日の夜は、どこに行っていたの?』

『ん?ああ、便所だ便所 ちと腹をくだした』

『……だから、食べ過ぎはよくないって言ったのに それに、もっとよく噛んで食べたほうがいいと思う 消化によくない』

『ああ、わかっとるってぇの 口煩いのぉ』

『貴方の体調管理は貴方がしないといけない』


久しぶりに時間がとれた雅之助が食堂で鴇と食事をとっていた時である

大の大人が10に満たない子どもに言い負かされる姿を何度も見た

当時、またか、と周囲がよく笑っていたのを覚えている

どれもこれも、大雑把な雅之助らしい話であり、それを諫める几帳面な鴇の説教もとても"らしい"話であった

ただこの日は、話の流れがあまりよくなかった

言い負かされっぱなしの雅之助が、鴇の一言に噛みついたのだ


『貴方とは何だ 他人みたいな呼び方をするな』

『?だって、私と貴方は他人だ』


笑って見ていた職員達の間に、ひやりとした空気が流れた

この2人、確かに性格は合わない

ただ、雅之助も遊びで鴇を引き取ったわけではない

仮初めでも親子になろうと不器用ながら歩み寄る気持ちは確かにあったのだ


『…………………』

『…?何?』


弁明をするわけではないが、鴇には全く悪気がなかった

別に売り言葉に買い言葉で返したわけではない

それがまた問題であった

数日前までは実の両親がいて、充分に愛されてきた鴇にとって、家族はもう確立したものだったのだろう

鴇にとっての父は、嘉神鳶であり、雅之助は第三者であった

そんなことは、周知の事実であった

そんなことははっきりと言い直さなくとも雅之助も重々承知していたはずであった

それでも、

それでもその言葉は、何か鋭く彼の心を抉った

ギシリ、と彼の身体は歯止めが掛かったようにぎこちなくなり、表情は強張っている

そんな雅之助と、首を傾げた鴇はしばらく互いを見つめていた

雅之助の表情が少し歪み、何かを発しようとした時である

この張り詰めた空気を壊したのが野村雄三であった


『鴇 食べ終わってすぐにで悪いのだが、ヘムヘムと図書室でこの本を借りてきてくれないか』

『…え、っと』

『ああ、食器は下げてからゆきなさい』

『はい、雄三先生』


鴇の肩をポン、と叩き、ヘムヘムに鴇を図書室に連れて行くように合図を送れば、ヘムヘムが鴇へと寄り添った

鴇は変な空気になったことは気づいたのだろう、ただそれが何故かまではわからなかったようで

雄三がにこりと笑ってお使いを頼めば、少しほっとしたような表情でその場を後にした


「…今思えば、何て薄情な言葉を吐いたのだろうと、自分が嫌になります」

「あまり気に病むような話ではありませんよ 昔の話なのだから」

「無垢で無知だった そう言い訳するのは、随分卑怯です」


懐かしそうに思い出を語った新野に鴇が困ったように呟いて茶を啜った

もうあれから6年も経ったが、時折教師の皆が語る思い出話は鴇にとっては恥ずかしいものばかりである


「どうやって仲直りしたか、覚えてますか?」

「…それが、お恥ずかしい話で、覚えていないのです」


鴇の記憶が確かであれば、次に雅之助に会った時、何もなかった

雅之助が怒っていた覚えもないし、よそよそしい態度をとられた覚えもない

都合よく記憶を改ざんしてしまったのかもしれない

薄情でしょう、と苦笑する鴇に、新野も曖昧に笑った

鴇は罪悪感があるからこのような物言いをしているが、鴇は知る由もないのだ

その場から離れ、戻ってきた時には普段通り振る舞うよう周囲が認識を合わせたのだから

一部始終を見ていた新野は、この続きを覚えている

鴇がヘムヘムに連れられて場を去った後、野村は動揺していた大木にこう言ったのだ


『その引き攣った顔を、鴇が戻るまでに直せ できないのであれば、私があの子を引き取る』

『な、にを』

『貴様は何を鴇に期待した 子は、親を簡単に忘れたりせん』

『そんなこと、わかって―』

『わかってないだろう この阿呆が』


動揺していたところに、普段から相性の悪い雄三が入ってきたことで雅之助の頭にさらに血がのぼった

ずばりと指摘されたそれが無性に腹がたち、腕を振り上げた雅之助の腕が掴まれ、綺麗な一本背負いが決まる

どれだけ動揺していたのか、簡単に投げられた大木の胸ぐらを掴んで、野村が口を開いた


『鴇に貴様を家族だと認識させようとするな それはあの子が決めることであって、強制するものではない』

『だからわかって、』

『だったら、あの子に甘えてばかりいるな』

『甘えてなど、』

『向こうから歩み寄ってくるのを待つことの、どこが甘えではないのか』


野村の言葉に、大木が目を開いた

自覚がなかったのだろう、それが余計に野村を苛立たせた


『貴様は何もわかっていない 子を育てるということが、どういうことか』

『教師年数はお前と変わらん』

『生徒と子は違う そんなこともわからんのか』

『…お前はわかっているとでもいうのか』

『そんな驕りは私にはない ただ、貴様よりは幾分かマシだと思う』

『はっ、何を好き勝手、』

『お前、あの子が此処に来てから、笑ったところを見たことがあるのか?』


説教は勘弁しろと話を断ち切ろうとした雅之助が、雄三の言葉に思わず動きを止めた

引き取ってからの数週間、雄三が言うとおり雅之助は鴇の笑顔をまだ拝んでいない

鴇は愛嬌という言葉からは縁の遠そうな子どもであった

ピンと背筋を張って、きゅっと口元を結んで、

規則正しい生活と所作の乱れぬ武士の子であった


『……あれが、鴇だ 簡単には変わらん』

『だからお前は阿呆だというのだ』


やれやれ、と溜め息をついて、野村が大木の胸ぐらを掴んでいた手を放した

やるか、と苛立つ大木を一瞥し、ふん、と鼻を鳴らす


『それ以上知ろうとしないのであれば、尚更お前にあの子は渡せんよ』

『…さっきから、言わせておけば好き放題…』

『ヘムヘムに聞いてみろ どうやったら鴇が笑うか』

『は?』

『今のところ、あの子を1番笑わせるのはヘムヘムだ』


固まった雅之助に雄三がちっ、と舌を打った

どこから整理していいかわからないこの馬鹿に、何から伝えたものだろうと

雅之助は視野が狭い

教育者としてはその懐の広さと熱血漢は優秀なのだろう

慕う生徒が多いのも別に可笑しくも何ともない

ただ、親になるというのはまた違うのだ

これ以上は言い過ぎか、それでも言っておくべきだと雄三は判断した

だって、このままでは鴇があまりにも不憫だ


『貴様は満足だろう あの子を引き取って、あの子を救った気でいる』

『ふざけるな そんな傲慢な考えはしておらん』

『では、何故鴇がお前の身の回りを世話している』

『儂は、やれだなんて、』

『言ってないだろう、それでもあの子はあの年でそれをしている 武家の名家の長男が、だ』


本来、身の回りのことは家人なり女中なりがいてやっていただろう

鴇はあの家の跡取り息子であった

躾がよかったということもあるのかもしれないが、それでも習慣としてはもっていなかったはずだ


『いい加減気付け あの子は寂しいのだ』

『…甘える素振りもないのにか』

『あの子は人の機微に敏い お前が忙しいことも知っている、自分が我儘を言えばお前が困るであろうことも理解している』

『別に儂は困らん』

『それを鴇に悟れというのは無理だろう 今、お前にまで見放されたらと、鴇は恐れていやしないのか』

『あの年の子どもが、そんな気遣いする必要…』

『それを言ってやったのか?』


口をとがらす雅之助に、雄三が正面から問うた

それに雅之助が息を呑む


『触れてやれ 鴇がすることを見て、お前は正しいと背を押してやれ』

『………………』

『拳骨を落とすほどの過ちをあの子がするかは知らんが、悪いことをしたら叱れ』

『………………』

『それだけで、鴇は安心する 自分の歩く道が正しいか、間違わずに進めているか眠れぬような不安はあの夜に置いていける』


うっすらと、目の下に隈を作ることもなくなるだろう

眠れぬことを隠し、真昼にゆらゆらと居眠りをすることもなくなるだろう

ヘムヘムといると落ち着くのもそのせいだ

鴇はあの夜から、確かな熱を求めている

ヘムヘムを膝の上に乗せ、ぎゅっと抱きしめるその表情が、泣きそうなそれだということにこの男は気づかない

それが酷く腹立たしい


『時間が癒してくれるなんて思うなよ 想像以上に、あの子は傷ついているぞ』

『それは、』

『子どもと侮るな あの子は、とても賢い 自分に向けられる全てに反応するぞ』

『それ、は』

『お前が鴇を引き取ると腹を括った一方で、鴇は家族を失ったことを再認識させられたのだ』


呟くように落とされた雄三の言葉を、ただ雅之助は黙って聞いているのであった







「覚えているのは、あれから雅之介がやたらと私の生活に時間を合わせてきたということくらいでしょうか」

「おや、やはり気づいていた」

「…あの頃は、やることがなくて時間を持て余してましたからね」


思い出したのか、小さく笑って鴇が漬物を口に運んだ

パリ、と食感のよいソレを口にして、鴇は小さく笑った


「初めはそれにビクビクしてました どういう気持ちの変化だったのかがわからなくて、雅之助が誰かに強要されてるのではと思って」

「君もなかなか、素直に受け取れないものですねぇ」

「此処の暮らしは、何もかもが違ってましたからね」


生活習慣と、流れる時間に大きな違いがあるのは仕方のないことだった

鴇は学生でもなくてすることはなく、時間を持て余していたのに対して雅之介は教師で教え子もたくさんいて

鴇だけを見てくれる人ではなかったのは当時の鴇だって理解していた

そもそも、雅之助は命の恩人であったが、全くの赤の他人であったのだ

それは鴇なりの遠慮だった

自分を引き取ってくれたあの人に、迷惑をかけまいと

雅之助はどう思っていたか知らないが、当時の鴇にとって、雅之助は世界の全てであった

あの頼れる大きな背中も、力強い声も何もかも

グラグラと不安定な気持ちは、雅之助さえ隣にいてくれればまだ耐えられると思っていた 

思わないと生きていけそうになかった

我儘を言えば、愛想を尽かされると子ども心に思っていて

慣れぬ家事もしたし、雅之助の体調を気にしていた


「下手でした 感謝の言葉も上手く紡げず、距離の取り方を考えあぐねていた」

「それは大木先生も同じでしたよ だからライバルの野村先生に何を言われてもキミに関することであれば黙って耳を傾けていた」


箸をおき、茶を啜って鴇は静かに目を伏せた


「本当に、救われたのです 雅之助にも、雄三先生にも」


雅之介の気が回らないところを雄三が補填していたのははっきりわかることであった

それまで、鴇がやることがなく手持ち無沙汰であったり、寂しいと思った時によく相手をしてくれたのが野村雄三であった

図書室から鴇でも読めるような本を見繕ってくれたり、一緒に食事をとらないかと声をかけてくれたのも雄三が初めである

眠れないと縁側でぼんやりと座りこけていた自分を抱き上げて、ゆっくりと背を擦ってくれたのも雄三である

雅之助の力強さとはまた別の、落ち着いた声が亡くなった父の声によく似ていた

もう二度と会えぬ父を想って静かに泣いた

鴇が泣けば、雅之助は酷く狼狽えたが、雄三は逆であった

大丈夫だと何度も何度も言い聞かせるように呟いて、鴇が泣き疲れて眠るまであやしてくれたものである


「彼は大木先生をよく見てましたからね 君のこともよく目についたのでしょう」

「…野村先生には、頭があがりません」


その時、廊下から誰かの足音が聞こえ、鴇ははたと我に返った

少々昔話に浸りすぎた


「さて、と」


ご馳走さまでした、と手を合わせて盆を持ち上げた鴇に新野は尋ねた


「おや、もう行くのですか」

「野村先生の愚痴をうかがおうかと」

「大変ですねぇ」

「まあ、親のかけた迷惑は子が何とかしなくては」


それに、と鴇が笑う

あの頃には想像もできなかった、大人びた表情で


「野村先生も私にとっては大事な育て親ですからね 親孝行の一環です」


そう言って立ち去る鴇の背中は、新野の記憶から随分大きくなっていた

それが何だか嬉しくて、新野も温かい茶をゆっくりと啜るのであった









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『第21シリーズ 野村先生のストレスの段より』派生させた過去話です

野村先生好きです

大木先生も大好きです




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