- ナノ -


不毛を形にしてみたい(兵助)


春は多忙である

特に進級というのが大きく関わってくる

3週ほど前から春休みをもらってはいるが、上級生達は次の学年に向けての準備を暗に仰せつかっている

兵助もその中の一人である

火薬委員会のなかでいつの間にか最上級生となってしまった今年、兵助は火薬委員会委員長代理の命を受けた


(昨年度の使用量と出費の整理はできた、あとは在庫との照らし合わせをやって)


ペラリと日誌を捲りつつ、まだまだ残っているやることに思わずため息がでる

顧問である土井先生との認識合わせもしなければいけないし、火薬を仕入れている店とだって継続する旨を伝える必要がある

あと、


「あり?兵助、まだ引っ越ししてないの?」


ガラリと空いた戸から同室の勘右衛門が驚いたように声をあげる

振り返ってみれば、いつの間にか部屋の移動を終えたらしい勘右衛門の私物は何も残っていなかった


「あ―… あとでやる」

「駄目駄目 次の四年生たちがもう廊下まで来てたよ すぐ移動ー」

「えっ… うーん、仕方ないか」


色々と考えをまとめている中、割って入られるのは好ましくなかったが、後続が来てるのであれば仕方ない

どこから手をつけようかと思っていれば勘右衛門がひょいひょいと兵助の荷物を束ねていく


「布団はさっきまとめて持ってっといたからさぁ、あとは私物だけ持っていきなよ」

「え!?ごめん、気付かなかったっ…ありがと、勘ちゃん」

「いいっていいって、忙しいもんね 火薬委員会委員長代理!」


にぱっと屈託のない笑みを浮かべた勘右衛門に対して、兵助は力なく笑う

「火薬委員会委員長代理」

この言葉は最近兵助の胃をキリキリと痛める言葉である


「…ん?俺、マズイこと言っちゃった?」

「いや…俺が、気にしすぎてるだけ 気にしないで…」


全く他意はなかったのであろう自身の発言に何か兵助が反応したことを悟った勘右衛門が慌てて問うが、兵助も軽く流すしかない

別に勘右衛門が悪いことを言ったわけでもなんでもないのだ

ただ、何となく気が重いのは確かで、心から笑えないというのはある


「わかった、兵助 これも持っていきな」

「は?」


何がわかったのかはわからないが、うんうんと勝手に頷いた勘右衛門が何故か隠し戸棚にいれていた饅頭を取り出して兵助の引っ越し荷物の上に置く

箱が酷く上品なところを見ると、勘右衛門のとっておきらしい


「いいよ これ、勘ちゃんのおやつだろ?」

「いいから、これもって、さっさと次の長屋部屋に移って」

「だから、」

「グズグズしない!早く行く!」


くわっ!と夜叉のように睨みを突如きかせた勘右衛門の態度に驚きながら、急かされるように兵助は部屋を追い出されたのであった














(何なんだ 一体)


首を傾げながら兵助は荷物を抱えて廊下を歩いていた

四年長屋と五年長屋は少し離れている

一番校舎から近いのが下級生達の過ごす長屋

四年生の長屋はその近くに位置しており、五年・六年の長屋はもっと奥まったところにある

機密を扱うことも増えてくるのと、夜間訓練や忍務が多いことも関係しているのだろう

校舎の喧噪も生徒達の笑い声も届かぬそこはどこか別の静けさがある

この独特の静けさに慣れるのも大変であるが、今年も勘右衛門と同室であるからきっと大丈夫だろう

あの明るい親友は、こういった不安とは無縁な男であるのだから


(えっと、この先か)


もらった移動先の部屋を確かめて、兵助は戸に手をかけた

室内は少し暗く、静まり返っている

そろりと開けた戸の先の光景に、兵助は思わず声をあげそうになった

驚いた表紙にぐらりと荷物の一番上に置いていた硯が傾いて落ちそうになったが、慌てて全身で押さえつけて落下を防ぐ

何も落ちず、何の音も立たせずに済んだことに安堵の息を吐いて、兵助はもう1度そっと視線をあげた


(なんで、)


引っ越し先の部屋のなかには1人の忍たまがいた

嘉神鴇

今年最上級生となった彼が何故か部屋の文机に突っ伏して寝ていた

兵助は思わず部屋から後ずさり、部屋の表札を確認する

名札掛けには「尾浜勘右衛門」の名札がかかる一方で「嘉神鴇」の札もある

よくよく考えてみれば、ここはもともと鴇が使っていた部屋だ

ってことは、何か

自分は鴇が一年間過ごしたこの部屋を次使うということなのか


(うわぁ…っ…………うわぁっ!!)


声にならない声が兵助の中から込み上げてくる


「んっ…」


そんな中、小さく鴇が唸ってふるりと肩を震わせた

開けっ放しの戸からまだ少し冷たい空気が入り込んだことに気が付いて、慌てて戸を閉めたが兵助はそれどころではなかった

長屋の部屋は学年があがるにつれて引っ越すので誰かはそうなるし、何の拘りもなかったがこれはちょっと別だ

憧れの人の過ごす部屋、それはいつだって特別なのだ

取りこぼしそうになった荷物をとりあえず畳の上に置いて、ソロソロと兵助は眠る鴇の近くへと寄った

いつもは真剣な横顔とピンと張った背筋が印象的な鴇が無防備に寝ている

薄っすらと目の下に隈ができているが、それでも整った顔は崩れない

長い睫毛にキラキラと光る灰色の髪がそっと風に揺られている

穏やかな寝息が少しだけ開いた唇から零れて、それが兵助の頬に熱を宿す

肩から掛けられていた半纏は勘右衛門のものであることから、勘右衛門はこの状況を知った上で兵助を送り込んできたらしい

勘右衛門は自分が鴇に懸想に近い感情を持っていることを知っている

鴇がふわりと笑えば、それは憧憬なんて生易しいものではないことを突き付けられる

ドクドクと心臓が強く鳴って、兵助の頬を簡単に真っ赤に染め上げる

それに戸惑う兵助を勘右衛門は笑って背を叩いたものである


(でも、)


だからといって、この先をどうすればいいのか

それも確かな問題であった

この貴重な寝顔は勘右衛門に拝み足りないくらい感謝はしているが、ここから先をどうしたものか

ずっと見ていたいが、そういうわけにもいかないということを兵助は理解していた

その時、


『!伊作、前見ろ前っ!』

『え、うわっ!!?』


廊下の向こうで騒がしい声と軽い振動が響いてきた

おそらくは組の善法寺先輩と食満先輩の不運コンビが何かに巻き込まれたのだろう

何か手伝った方がいいかもしれないと立ち上がろうとした兵助の手を、何かが強く引いた


「え?」

「…何してんの、久々知」


まだ少し眠そうな目をぼんやりと開いた鴇とバチリと目が合った

立ち上がろうとしていた兵助の足から力が抜ける

掴まれた腕がビクンと跳ね、兵助の心臓がドクンと大きく鳴る


「――…あぁ………」


ゆっくりと髪をき上げた鴇であったが、まだ頭が回ってないのだろう

少し眉根を寄せて、視線が定まっていない

しばらくぼんやりと頬杖をついて固まっていたが、少し覚醒したらしい

深く溜め息に近い息を吐いて、ゆっくりと口を開く


「…悪い、寝てた」

「い、え あの、俺っ…」

「―… 何してるはそっちの台詞だね」


肩にかけられた半纏と部屋の荷物の状態を見て悟ったらしい鴇がしまったと呟いて手持ち無沙汰に髪紐をほどいた

はらりと落ちた少し癖のある髪が、寝起きの鴇をどこか色気を漂わせている

まだ身体に残る熱の余韻に浸っているのか、緩く髪を結わえ直した鴇は小さく欠伸をしてぼんやりと呟く


「ぁ―…、さっさと明け渡さないとな」

「やっ、俺もっ、今来たとこなんで、」

「そう?…なら、ゆっくりしてく?」


くすりと小さく笑った鴇が兵助の頬をそっと撫でた

まだどこか覚醒しきっていない鴇は普段の清廉な様子とはまた違って艶めかしい

まるで恋人のソレのような

ゆるりと撫で上げられた頬と、穏やかに自分を見つめる鴇に兵助の鼓動は痛いくらいに鳴っている


「うぇ、あ、のっ」

「ん―……?」


頬から鴇の指先が兵助の髪へと移る

鴇のソレよりも癖の強い髪をくるりと指先に巻き付けてはするりと抜いて、また何気なしに絡める鴇は頬杖をつきながらぼんやりとソレを見ている

鴇は寝ぼけているのかもしれないが、兵助としてはいっぱいいっぱいだ


「…顔、真っ赤だねぇ 久々知」

「!!」

「そんな顔してると、喰われるよ」


地蔵のように固まっていた兵助に投げられた言葉に、兵助はびくりと肩を震わせた

そして、


「っ!!!」


突然、何かに反応したように鴇がガバリと姿勢を正して兵助と距離をとった

何事かと兵助が口を開くよりも先に次の瞬間、鴇が勢いよく文机に自分の額を打ち付けた


ガンッ!!


それはもう、盛大に

大丈夫かと言いたくなるような音と勢いをつけて


「なっ…!」


いきなり何が起こったかわからない兵助は、どう声をかけたらいいのかわからずにいた

それはそうだろう、何かわからないが微睡んでたはずの鴇がいきなり自分の額を割りそうな勢いで机に頭突きをかましたのだから


「せ…、」

「………………」

「…鴇、先輩っ…?」

「待って、ごめん、今のなし」


恐る恐る声をかけた兵助に、近寄るなと鴇が右手をまっすぐこちらに向けて制止する

しばらくそのまま俯せていた鴇が、ゆっくりと上半身を起こすのを、兵助は見守るしかない

右手で待ったを、左手でやはり勢いをつけすぎたのだろう、額を押さえる鴇の表情は汲み取れない


「あ、の 大丈夫…ですか?」

「大…丈夫、ってか、ほんとすまん 寝ぼけてたにしてもタチが悪い」

「へ?」


何かよくわからないが、自身を貶しだした鴇に兵助は首を傾げた


「お、俺 何かやっちゃいましたか?」

「違う!やらかしたのはこっち、お前は何も悪くない」


普段の鴇ならば上げないような大声に兵助は思わず肩を竦めた

それを見た鴇が、またしまったと天を仰ぐ

どうしたものかとぎゅっと目を瞑って、小さく息を整えた鴇が小さく兵助を手招く

ソロソロと、滲みよった兵助の手を鴇がそっと握る


「…泣かす、つもりはなかった」

「へ?」

「………無自覚か、余計アウトだなぁ」


はっとした兵助が自分の目元に触れると、たしかに涙が零れ落ちていた

ボロン、と零れたソレを見た鴇は自分の言動が兵助を怖がらせたと思ったのだろう

慌てて距離をとったのも、額を力の限り打ち付けたのも我に返るがための行動だったらしい

自己嫌悪に陥って謝罪を繰り返す鴇の行動を理解した兵助は、鴇とは逆に急激に熱があがっていくのを感じた


「どうにも駄目だ ごめん、馬鹿なことした 驚いただろ、ちょっと顔洗って…」

「これはっ!別にっ!!」


ふらふらと、部屋を去ろうと立ち上がった鴇の腕を、反射的に兵助は掴んだ

それは存外強い力だったらしく、鴇が驚いた表情で兵助を見下ろした


「………久々知?」

「違っ……俺は、別にっ」

「違わんよ 悪い、お前がこういうの怖いの知ってるくせに、何やってんだろうな 私は」

「違いますってば!!」


今度は明確に座らせようと、兵助は鴇の両腕を掴んで自分の前へと無理やり座らせた

普段の兵助とは様子が違うのもあったのだろう、鴇は為されるがままに腰を降ろした


『こういうの』


鴇が口にしたそれは、昔からの積み重ねのことなのだろう

なまじ自身の容姿が整っているらしいことから、同級生達には言えないような巻き込まれ方を兵助は何度か体験している

何の好意も抱いていない同性からの一方的な接触、それは確かにぞっとするような経験である

欲だけが突き刺さる暴力のようなソレは、兵助が毛嫌いするソレだ

この手の相談は暗黙のルールというか三年の時から鴇がずっと乗ってくれていた

鴇もまた似たような経験が多かったが故である

鴇は自分がソレと同じものを兵助に向けたと感じたのだろう

鴇が自己嫌悪したのはそのあたりの背景を全て繋げたからだというのを兵助は理解して、

そしてそれにゾッとした

鴇が大きな勘違いをした、そのことについてである


「俺、嫌じゃなかった」

「…久々知、無理しなくて」

「だから、違いますってばっ…!」


兵助が取り繕うとしていると思ったらしい鴇が、兵助の言い分を聞かずに悪かったと謝り続ける

それを必死に撤回しようとしながら、兵助は考えていた

鴇は何でそういう結論に至ったのだろうか、と

何で、誰よりも憧れて止まないこの人が、あんなどうしようもない連中と同列と同じことをしたと後悔しているのか

答えは簡単だ、自分が泣いてしまったからだ

これは、全然そんなものと同列ではないというのに


「俺、次の部屋が鴇先輩の使ってた部屋だ、ってのにまず浮かれててっ…」

「……うん?」

「そんで、先輩が寝てんの見て、すんごいドキドキしてっ…」

「……?」

「寝ぼけた鴇先輩、なん…ていうか、キラキラしててっ…!」

「…………ん、うん?」

「お、俺のなかの許容量振り切っただけなんですっ!!」

「待った待った、久々知 何の話だ」


顔を真っ赤にしながら懸命に話したところで、鴇はピンとこないらしい

それもそうだろう、この人のソレは作為的なものではなく自然な振舞いなのだから

それでも、はっきりと違うことは伝えたい

別に自分は鴇のそんな振舞いに嫌悪なんて抱いてないし、どちらかというとずっと見ていたいのだから


「ぜん…」

「?」

「全然、嫌なんかじゃなくって、俺、鴇先輩とこうやって2人で話せるの、すごい嬉しくてっ」

「…………」

「いつも、三郎とか勘ちゃんが先輩のこと話してるの、いいなって思ってて、」

「…………」

「さっきも、起こさないでずっと寝顔見てたいって思ってたくらいだから、そのっ」

「ちょっとストップ」


ぎゅっと鴇の手を握りながら、精いっぱいの言い訳をしていた兵助は、その言葉にハッとした

嫌じゃなかったことを伝えたかったつもりが、支離滅裂な会話になっている

鴇には聞くに堪えなかっただろう自分の戯言は、なんとも自分勝手な言葉であったに違いない

しまった、と思って兵助は顔をあげた、鴇はさぞ呆れているだろう

これ以上の取り繕い方は正直もうわからないと思っていた、のだが


「…………お前なぁ…」


兵助が想像していたのは、いつもの凛とした、背筋の張った鴇であった

少しだけ困ったように眉根を寄せて、仕方のない子を見るような静かな眼差しが待っていると思っていた

それなのに、


「……鴇先輩、」


そこにいたのは、顔を真っ赤にした鴇であった

空いた左手で口元を覆ってはいるものの、隠しきれてはおらず何とも居心地が悪そうである

状況がわからず、兵助が名を呼べど、鴇はぐしゃりと髪を乱して、視線を逸らす


「あ、の」

「あのさぁ、久々知」

「…は、い」

「勘違いなら申し訳ないんだけど、すっごい告白のように聞こえるわけ」

「?」

「だから、お前が私のこと好いてるように聞こえるの 言い方気をつけないと、勘違いす」

「?俺、先輩のこと大好きですよ?」

「なっ…!」


きょとんと首を傾げる兵助と、想定外のことを言われたらしい鴇の視線がばちりと重なる

その時、兵助はふっと身体の力が抜けたのを感じた

まだ熱のひかない鴇と違って、兵助の方が余裕があるのは確かであった

いつもより少しだけ、もう少しだけ近寄りたいと衝動に駆られる

ずい、と鴇の方に身を寄せれば、反射的に一歩身体を仰け反った鴇の背が、壁にトンとあたる


「勘違いじゃないです 俺、貴方とこうして2人でいれるのすごく嬉しい」

「…久々知っ、だから、」

「もっと触れてほしいし、鴇先輩が喰ってくれるならお願いしたいくらいだし」

「…っ、どこでそんな口説き方覚えてきた」

「俺も、それなりに成長したってことで」

「…………そうか」

「?先輩…、わっ!」


壁際に鴇を追い詰めるような形になっていた兵助だが、突然自分の腰に回された腕に驚いて声をあげた

そのまま力任せにひかれて、腰を落ち着けたのは鴇の膝の上であった

完全に跨ってしまっており、兵助の胸元には鴇が上目遣いでじっと兵助を見上げている


(…近っ…!)

「そんなこと言ってると、ほんとに喰われるぞ」


ぐんと胸元を引かれて兵助の体制が崩れる

そのままあっという間に形勢逆転されて兵助は天井を見上げる形に振り落とされた

頭を打たなかったのは鴇が気遣って後頭部に掌を添えてくれたおかげか、

そんなことを考えるよりも前に自分の首元に鴇の顔がうずめられて、そして


「んっ…!」

「………ごちそうさん」


ビクリと跳ねた兵助があげた声と入れ替えに、胸の上に置かれていた鴇の掌の熱があっという間に去っていく

さっと文机の資料をまとめた鴇がそれらを小脇に抱え、入り口にかかった自分の名札を外して、そして


「今年は火薬委員会委員長代理だろう 久々知」

「は、はい」

「時間なら好きなだけとるから、気軽においで」


何事もなかったかのように、にっこりと笑って去っていくのであった















「あれ、鴇先輩起きたんですか?」

「…出たな 仕掛け人め」


部屋を出てすぐ、"偶然"遭遇した勘右衛門を鴇はじとりと睨んだ

勘右衛門の手には、忘れていったらしい兵助の名が記された木札があった


「はて、何のことです?」

「そういうとこだぞ、お前の悪い癖 焚きつけるだけ焚きつけて、あとは知らん顔」

「だって、後は本人の努力次第なところがあるじゃん」


へへ、とまた読めない笑顔を見せる勘右衛門に鴇が大きく溜め息を吐く

どこまで見ていたのかはわからないが、鴇としてはしてやられた感じがしてあまり気分のいいものではない

ましてや、先ほどのようなやり取りを知れば、今度は何故か三郎が不貞腐れるだろう

それを知っていてその両名の間に立つ勘右衛門が何をしたいのか、鴇はイマイチよくわからなかった


「もっと普通にできるだろう 別に久々知の相談くらい、いつでも乗るのに」

「えー、まだその程度なんですかぁ?」

「尾浜、人の感情を掌で転がそうとするのはやめろ」

「…鴇先輩って、時々肝心なところを端折っちゃうよね」

「曝け出すには重い題目だし、お前の筋書きに乗らされるのは気に食わん」


一体どこから読まれてしまったのか、ふむ、と思案に耽る勘右衛門を他所にヒラヒラと、躱すように手を振って鴇が自分の長屋へと歩を進める

それを見送りながら、ちぇー、と勘右衛門は宙を仰いだ

勘右衛門は何も鴇の心情を暴きたいわけではない

ずっと近くで見てきたのだ、彼を取り巻く環境も、人間関係もそれなりに押さえている

ただ、勘右衛門は兵助の味方でありたいのだ

あの真面目な学友は、そういった色恋沙汰には疎いけれど、ずっと温めてきたものが確かにある

あと1年、三郎はしっかりと意識している

何とかこの1年で鴇をしっかり捕まえておきたいという焦燥は目に見えて明らかだ

なら兵助は?

あれだけ熱のこもった視線を向けるのに、兵助は鴇の都合ばかりを考えて遠巻きに見ているのだ

鴇は鴇で、兵助のことをどう思っているのかは知らない

けれど、兵助がアピールしないのであれば鴇から寄っていくようなことはないし、放っておくだろう

だって、鴇は誰からの好意も躱してこれまでも過ごしてきたのだから

それが鴇の生き方で、鴇の言葉を借りるなら彼の悪い癖なのだ

あの人は、誰かと連れだって生きていこうとは考えようとしない

それが勘右衛門には理解ができない




新しい自室の入り口に、兵助の木札をかける

部屋のなかで顔を真っ赤にして座り込む兵助の肩をポンと叩けば、初めて勘右衛門に気付いたらしい兵助が慌てて振り返る


「ちゃんと言えたか?」

「…勘ちゃん、先に一言言っといてほしかった」

「言ったらまた動けなくなるだろ 突撃あるのみだって」


よしよし、と兵助の頭を撫でて、チラリと見やれば兵助の鎖骨にはっきりとついた歯型

新学期早々仕掛けた自分達の攻撃に対するささやかな鴇の反撃なのだろう

ただ、鴇にしては珍しく衝動的なものを残した

それだけ兵助の熱量が本物だったということか、鴇の不意をつけたということなのか


「頑張れよ、兵助」

「…簡単に言うよな 勘右衛門は」

「そうだよ 俺としてはさ、お茶くらいはできると思って俺のとっておき持たせたのに」

「……無理、そこまで余裕ない」

「首のソレ、ちゃんと隠しとかないと三郎が暴れるかんね」

「!!」


軽い気持ちで言ったソレに、兵助がまた顔を真っ赤にして歯型を掌で隠した

肌に残った熱、首元に過ぎった鴇の吐息

押し倒された時に正面から見据えられた熱のこもった視線

それらが一瞬でフラッシュバックして兵助の血がまたかっと熱くなる


「…勘ちゃん」

「んー?」

「ありがとう」

「はは、どういたしましてー」


改めて小さく呟かれた兵助の言葉に、勘右衛門はにこりと笑って返すのであった




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