- ナノ -


本編


ほうっ、と深く息を吐けば真っ白い息が出る

冷たい瓦に腰から冷えてきて、やはり座布団くらいはもってくるべきだったか、と思っていた時である


「こら、身体冷やすぞ」


耳元で聞こえた優しい声と包まれる温かさに、雷蔵は思わず身を固くしたのであった





ひんやりとした空気を少し揺らがせたその人は、音もなく突然現れた

驚いた雷蔵が振り返るより先に、グルグルと首回りに何かが巻かれて暖かい

ドサリとその人が雷蔵の背後に腰を下ろした

視界の端を泳いだ山吹色の襟巻きと、雷蔵を背後からすっぽりと覆うように座ったその人の長くスラリと伸びた手足


「ちょっと埃っぽいのは我慢しろよ」


小さく笑って呟くように声を出した人物は、雷蔵もよく知る人であった


(鴇せんぱ、)

「聞いてよ鉢屋 学園長先生ってば、またご自分のブロマイドを手土産に混ぜててさ」


名前を呼ぼうとした雷蔵の言葉を待つことなく、鴇が珍しく愚痴をこぼした

嘉神鴇

同室の鉢屋三郎が所属し、慕う学級委員長委員会の委員長である


「明光寺の和尚様にお使いものを渡したら、同封されてて 恥ずかしいったらありゃしない」


突っ込まれる前に破り捨ててやった、と呟く鴇に、雷蔵は何かを答えようと息を吸った

しかし、


「気を抜くとすぐこうだ お前も来年は気をつけろよ 要らん恥をかかされる」


珍しく大きな溜め息をついて、鴇が雷蔵の背にことりと額を寄せたのだ

背から雷蔵の腹に回された腕と、急に背に密着した鴇に雷蔵は思わず吐こうとした言葉を飲み込んでしまった

どうやら鴇は雷蔵と気づいていないようで、委員会の後輩である三郎だと思い込んでいるらしい

普段あまりこうやって2人きりで話をしたことがないのも手伝い、雷蔵は自分が三郎ではないことを切り出すタイミングを完全に逃してしまった

どうしようとバクバクと心臓が鳴っている雷蔵を他所に、鴇は気付かぬまま話を進める


「大体さ、夕方までには戻れるはずだったんだ 和尚様も今日はお忙しそうだったし、私も寄りたいところがあったし、それなのに」


それなのに、の後で鴇の腕の力がまた強くなる

普段雷蔵は、鴇が愚痴を言う姿というものを見たことがない

雷蔵の知っている鴇は冷静沈着、何があっても動じず、何を言っても穏やかに返すできた先輩である


「帰り道の選択をミスった 今福達がこの間気に入ってくれた団子あるだろ?あれを買いたくて寄り道したのがいけなかった」


何があったのかは知らないが、再度溜め息をつく鴇は珍しかった

いや、この鴇が一方的に喋る様子によると、これは三郎にとっては珍しくないのかもしれない

恐らく自分の知る鴇と三郎の知る鴇は大分異なるのだろう

そして今見ることが出来るのはきっと三郎の知る嘉神鴇のようである

そんなことを雷蔵が考えているとは露知らず、鴇の愚痴は続く


「山賊崩れが最近その道を仕切ってたらしくてさ、時間帯もあまり良くなかったから案の定絡まれて 絡まれたからには相手しないわけにもいかなくて」


少ししっくり来る体勢に直したらしい、背に額を寄せた状態から鴇が雷蔵の左肩に顎を乗せた

そして、自分の懐に雷蔵の身体を引き込む


(わわっ…!)

「大体、何だってああいう輩は自分と相手の力量の差がわからんのだろうね 脅したって何ら反応しない私に身ぐるみをどうやったら剥がせると思えるのやら」


はあ、と雷蔵の耳元で鴇が再度溜め息をつく

それがどこか艶めいていて、雷蔵の心臓がドクリと鳴った

鴇は恐らく疲れているのだろう、特に相槌を打っていないのに鴇の愚痴は止まりそうにないし、雷蔵は鴇に圧し掛かられたままだ


(そもそも、)


そもそも、これはまるで恋仲のような距離間ではないのだろうか

背後からすっぽりと抱きしめられ、鴇が甘えるように雷蔵の肩に顔を埋めている

この距離感の正しさが雷蔵にはよくわからない

6年生に身近な先輩がいる5年生は学級委員長委員会に所属する三郎と勘右衛門、そして図書委員会に所属する雷蔵の3名だけである

しかし雷蔵の先輩である中在家長次と、雷蔵はこんな戯れ方をしたことがない

長次も気遣いができ、優しい先輩であることは誰よりも雷蔵が知っているが、こういった身近さはない

他の6年生だって、こんな戯れかたをするのは鴇くらいだろう

大体、学級委員会委員長は6年生である鴇と5年生である三郎と勘右衛門で数年間回してきた委員会である

今年でこそ1年生の黒木庄左ェ門と今福彦四郎が入ったため、後輩重視の空気感が強くなったが、もともと5年生と6年生の距離感がかなり狭かったのだ

三郎も勘右衛門も鴇には兄を慕うように甘えていた

勘右衛門が鴇に抱きつく姿はよく見るし、それに対して三郎が拗ねている場面もよく見る

一方で鴇も勘右衛門の頭をよく撫でるし、三郎の頬に掌を寄せることを当たり前のようにしている

だが見慣れているのと実際に自身が体験するのは気恥ずかしさが何倍も違った


(顔が、熱い)

「さっさと片付けようと思ってたのに、途中から仲間が合流して人数増えるし、片付いたと思ったら団子屋はもう店仕舞いしてしまってたし」


1度大きく鳴った心臓が、それをきっかけにドクドクと五月蠅く鳴り続ける

別に雷蔵は三郎や兵助のように鴇に恋慕の感情を抱いたことはない

それでもずっと鳴り止まないこの音は何なのか

気恥ずかしいというべきか、腹のなかがこそばゆいようなこの感覚


「そんなこんなでこんな時間だよ あ、黒木達もう寝ちゃった?目当ての団子は無理だったから、学園長先生んとこに届いてた饅頭をくすねてきた」

(近い、近い近い!)


寒い中、包み込まれるような体温の温かさが心地良い反面、耳にすっと入る高くもなく低くもない声が妙に気恥ずかしい

そんな現状に羞恥の限界が訪れようとしていた時である


「聞いてんの?鉢屋…………あれ?」


流石に延々と沈黙が続く状態におかしいと思ったのか、ぐいと肩を引かれ、顔を覗き込まれる

そこでようやっと、鴇は人違いに気付いたらしい

目を丸くして動きも会話も止まった鴇に、雷蔵がまず正気に戻った


「す、す、すみませっ!!」

「悪い、鉢屋だと思い込んでた」


血相を変えて謝る雷蔵とは対照的に、あはは、と珍しく大声で笑って、鴇が雷蔵を開放した

そしてもう体裁も何も気にしないのだろう、そのまま屋根へと身体を倒した

雷蔵が慌てて姿勢を正して振り返ったが、鴇は特に取り繕う気はないらしい

ゴロリと屋根に寝転ぶ鴇の姿は1日の疲れが見てとれる

歩き潰した草履

泥の跳ねた着物

帰って来たばかりの荷物の多さ

部屋に戻らず直接此処まで来たのは一目でわかった


「あ、あのっ 三郎に用事ですよね ごめんなさい、さっさと違うって言わないといけなかったんですがっ!」

「ん?ああ、大丈夫大丈夫、そういうわけじゃないんだ」


疲れているのに三郎にわざわざ会いに来たのは用事があったからか、邪魔をしたことに気付き慌てて正座して謝ろうとする雷蔵に、鴇がヒラヒラと手を振る

その姿と表情から怒っているわけではないことだけははっきりしていて、雷蔵は小さく胸をなでおろした


「予定より大分遅くなったからさ、また屋根上で待ってたのかと思って 悪かったね、女々しい言い訳に長々と付き合わせてしまって」

「そ、そんなことないです」

「ここなら正門が見えるからな、鉢屋が私に話したいことがあって待ちきれない時はここにいるから、遅れた時はここを覗いてから部屋に行くようにしてるんだ」


それを聞いて、三郎はそんなことをしてるのかと雷蔵は小さく呆れた

確かに鴇の帰りが遅い時、三郎はいつもどこかソワソワして落ち着かなさそうにしている

ただでさえ、委員会で四六時中一緒にいるというのに、そんな様子では来年どうするのかと雷蔵でも思うくらいに

それでも、そんな何でも話せる関係の2人を、正確には甘えることのできる三郎を雷蔵は羨ましくも思う

自分だって長次を信頼し、悩み相談等もするが畏まりつつ、体裁を整えつつであってこんな気軽にはできないからだ


「話を聞く準備はいつでも出来てるんだけど、まずは遅かったことに不貞腐れてるかもと勘繰っちゃってさ 冷え性の鉢屋にしては温かいな、とは思ったんだけど、それよりも弁解に必死だった」


三郎め、どんだけ気を遣ってもらってるというか甘やかされてるんだ、と雷蔵の方が少し気恥ずかしくなる

そんなことを雷蔵は考えていたが、そういえば、と首を傾げて問うた


「鴇先輩が三郎と僕を間違えるなんて、初めてじゃないですか?」

「…そうだっけ?」

「ええ、僕の記憶の限りでは、今夜が初めてです」


三郎が雷蔵よりも雷蔵らしく演じた時も、雷蔵がより三郎らしく演じた時も、迷うことなく互いを言い当ててきた鴇


一体何故今夜はわからなかったのか、申し訳なさよりも興味の方が勝り、口からは疑問がそのまま零れ出る


「何でですか?」

「んー、秘密じゃ駄目か?」


三郎と雷蔵の見分け方、それは三郎が何度鴇に尋ねても鴇はいつも笑って答えなかった

これ以上区別がつかなくなったら困るだろ?

そう言って鴇は三郎を宥めていた覚えがある


(…今なら聞ける気がする)


三郎が知りたいと思うのと同様に、雷蔵だってずっと聞いてみたい話でもあった

大人数で挑むとするりと逃げてしまう鴇だが、こうやって1対1だとあまり逃げないのだと三郎が言っていたのをふと思いだして、雷蔵は勇気を出して口を開いてみた


「駄目です 間違えられて、僕ショックだったんです」

「うーん、そうは言ってもなぁ」


ショックだったと言う割にニコニコと笑っている雷蔵の意図に気付いた鴇が小さく笑う


「…お前もなかなかどうして意地悪だね 長次に気をつけるように言わなくちゃ」

「そんなことないですよ 三郎に比べたら、可愛いものだと思いますけど」

「鉢屋は意外と素直だよ きっとお前が思っているよりもずっと」

「鴇先輩」


はぐらかそうとする鴇を逃がすまいと、雷蔵ががっしりと鴇の腕を捕まえた

教えてくれ、と強い視線を送る雷蔵に鴇が思わず苦笑する

鴇は知っている

三郎と雷蔵、どちらが我が強いかと言われれば断然雷蔵だ

三郎はああ見えて結構気を遣うことに長けており、あまり我儘をいわない

そんな雷蔵のおねだりに鴇も抵抗することを諦めたのか、小さく息を吐いて、仕方がないと向き直る


「……鉢屋に言わない?」

「はい」

「本当に?お前と鉢屋の仲なのに?」

「約束はちゃんと守ります!」

(これまた、鉢屋とはまた違って押しが強い…)


やれやれと観念して、好奇心から身を乗り出した雷蔵の両頬を鴇が両手で突如包んだ

予想していなかったのか、ビクリと肩を振るわせた雷蔵を鴇が笑う


「目を見たら、すぐにわかる」

「目、ですか?」


首を傾げた雷蔵に鴇がまた小さく笑う

そう、いつだって三郎と雷蔵を見分けるのに、まず鴇は目を見る


「鉢屋はいつも、気付いてほしそうな目をしている」


不破は、まっすぐにこちらを見る

そこにはあまり強い意志はなく、受け入れるものの目である

一方で誤魔化しが下手で、悩んでいるのかもう決断しているのか、それも鴇にとってはわかりやすい


鉢屋は挑むようにこちらを見る

その目は凪のように静かで、迷いがなくて

逆に悩んでいれば一発で鴇は見破ることができると思っていた

落ち着いて見れば、不破と鉢屋の違いを他の者だって気づけるはずだ

しかし、そんなにじっくりと識別させるほどの猶予を鉢屋が与えるわけもなく、結局皆わからぬと言うのだろう

何十もの人の面を被り操る鉢屋、それでも鴇にはほんの数秒あればいい

もう少し正確に言えば、一瞬でも視線を交えれば、鉢屋かどうか判断できる自信が鴇にはあった

これは、もう何年も当たり前のように顔を突き合わせてきたからか


(いや、そうではない)


思案に耽って、鴇は静かに笑った

鴇は三郎に出会ったころから三郎と雷蔵の見分けが何故かつく


(あれは、不本意かもしれないが酷くわかりやすいのだ)


鉢屋は常に矛盾している

誰よりも上手く隠れるのに、誰よりもわかりやすい

鉢屋はいつだって鴇に叫んでいる

自分を見つけてくれと

私はここにいるのだと

虚勢を張るその裏側で、寂しいのだと声を殺して泣くものだから、私は鉢屋を探しにいくのだ


「…よくわからないですね」

「まあ、私の長年の勘ということで」

「うーん、」


ふふ、と穏やかに笑う鴇を雷蔵は盗み見た

普段から理論的に物事を考える鴇にしてみては、随分と感覚に訴える話だと思った

それでもそれは正しいのだろう

雷蔵でさえ見破れぬ三郎の変装を、鴇は容赦なく見破るのだ


『鉢屋、ふざけてないでさっさと座れ』

『…私の変装、どこかおかしいですか?』

『いや、別に?』

『…おかしい 何で見破られるのかわからない』

『私で試すだけ無駄だというのを、お前はいい加減学ぶべきなんじゃない?』

『……………』

『不貞腐れるなよ ほら、羊羹もらったから休憩しよう』


それは三郎の癖だとか、未熟さなんて中途半端なものではないのだろう

そして、それを見破られたことに対して三郎がどこかやはり嬉しそうだから、この2人の関係はこれできっと良いのだ

そんなことを雷蔵が静かに思っている最中、ところで、と鴇が思いだしたように口を開く


「誰かを待つわけでもなく、不破はこんなところで何をしてたんだ?」

「へ?あ、星を見に来たんです」

「星?」


本来の目的を思い出した雷蔵が、にこりと笑って空を指さす

釣られるように見上げた夜空に満天の星

それでもあまり珍しい景色ではなく、鴇が首を傾げれば雷蔵が懐から一冊の本を取り出した


「この本に星座の成り立ちとかが書いてあって、読んでいたら星が見たくなってしまって」

「そういうことか それで?上手く観測できたか?」

「それが、意外と難しくて」


あはは、と困ったように雷蔵が笑う

空気が澄み切った今日のような冬の空は星座観測には絶好であるのだが、星々がひしめく空はなかなかポイントが掴みづらい

寒いし撤退しようかと思ってたのだと呟けば、鴇がふむ、と唸って


「…っ、鴇先輩!?」

「ひときわ目立つ星、わかるか?」

「は、はい 丁度真上の」

「そう、それが狩人の星」


来てすぐの時と同じように、鴇が雷蔵を懐にすっぽりと収めて寄り掛からせるように自分の方へと引いた

それに慌てた雷蔵であったが、鴇は何とも思ってないらしい

雷蔵の腕をとって鴇がすっと空へと手を伸ばす

砂時計のような形を描写する鴇の指先と落ち着いた声が、雷蔵の耳の真横で融けるようにそっと落ちる


「海の神の血を引くその男は、優れた狩りの腕をもっていた 自由に野山を駆ける男に、月と狩りの女神が恋をしたそうだ」


恋という言葉に雷蔵の心臓がまた小さく跳ねた

睦言のように囁かれる鴇の声は落ち着いていて、それでもどこか甘くて雷蔵をドギマギとさせる

それに本人は気付いていないのだろう、鴇は特に何をするわけでもなく続きを語る


「想いが通じた2人は片時も離れず行動したらしい それを快く思わなかったのが月の女神の兄である太陽の神だった」


太陽の神は2人の恋は身分違いだと憤慨した

狩人の男は海の神の血こそ引けど、半身は人間の血が流れている 

純粋な神である女神にはふさわしくないと言うのだ


「太陽の神は言った」


"妹よ、人間と戯れていたお前は狩りの腕が落ちたのではあるまいか"と

そんなことはないと憤慨する妹に、兄は海の向こうの小さな"的"を指さした


「兄はこうも言った それならばアレを打ち落としてみせよ、と」


彼女の狩りの腕も、また見事であった

寸分も違わずに射落としてみせた彼女は、兄に胸を張る

彼女が射た"的"は、彼女の愛した狩人であったことには気付かずに

その手で終わらせてしまったことに気付かずに


「悲しみにくれる彼女を、神々の王は不憫に思った そして狩人は天にあげられ星へとされた」

「よく、ご存じですね」


まるで長次のように語ってくれた鴇に雷蔵が目を丸くすると鴇が小さく笑う


「それ、長次から借りたんだろう?私も昔、長次に教えてもらった」


驚く雷蔵に種明かし、と鴇が雷蔵の手元の本を指さす

そうでしたか、と雷蔵も笑えば、鴇が呟く


「本を読めば書いてるんだけど、長次の声が好きでね よくねだったものだよ」

「へー 聞いてみたいなぁ」

「長次も照れ屋だから2人きりの時にでも頼んでごらん」

「!はい」

「そういえば、長次もお前と鉢屋は間違ったことがないはずだけど」

「へ?」


よいしょ、と身体を起こして鴇が気付かなかったか?と首を傾げる

身体が埃っぽいなぁ、と呟きながら鴇がシュルリと髪紐を解けば、自由を得た髪がふわりと冷たい風に乗り、闇夜で煌めいた


「鉢屋が誰かに変装したらわからないみたいだけどね 少なくともお前達2人なら間違わないと思う」


鴇の言葉をきっかけに振り返ってみれば、長次も自分と三郎を間違ったことがなかったことに気付く

はっきりと呼ばれたわけではない

それでも雷蔵と断定しての話しかけであったのは確かだ


「そこは先輩としては押さえておきたいところだからな 侮ってもらっては困るよ」


余裕のある笑みを浮かべた鴇に雷蔵の頬が赤く染まる

これが1つ上なだけの先輩がみせる笑みだろうか、またドキドキと心臓を鳴らしていれば


「雷蔵」


背後から呼ばれて振り向いてみれば、同級生の竹谷八左ヱ門が屋根へと上ってきたところであった

少し強くなってきた風に、寒いのか身を縮こませている


「こんなとこにいたのか 三郎が捜してたぞ?」

「本当?あ、鴇先輩 僕はこれで」

「…戻ったらちゃんと身体暖めるんだよ」

「はい」


失礼します、と頭を下げて雷蔵が屋根を降りようと竹谷の方へと歩く

鴇はもう少し此処にいるのだろうか 空を眺めている姿を振り向いて確認してから雷蔵が八左ヱ門に声をかけた


「ハチはどうするの?」

「俺?ちょっと鴇先輩に用事があるから先行ってて」


ニコニコと笑う八左ヱ門を雷蔵はじっとみつめた

そして、溜め息をつく


「?どうした、雷蔵」

「僕別に、疚しいことなんて何もしてないからね」

「何の話だ 俺は別に、」

「そんな怖い目で睨まないでよ 三郎」


その一言に、八左ヱ門が思わず息を飲む

しばらくダンマリを決めた八左ヱ門であったが、気まずそうに唸って雷蔵に問う


「…何でわかった?」

「そりゃあ、そんなに鴇先輩に駆け寄りたくてウズウズしてたらバレるさ」


う、と竹谷が呻いて、ガシガシと荒れた髪を掻く

観念したのだろう、次の瞬間姿を戻した三郎に雷蔵がまた溜め息をついた


「ちょっと鴇先輩と話してただけだよ」

「…………じゃあ、何で顔まで赤いんだよ」

「それは、まあ 鴇先輩格好いいからね」


少し言葉を濁した雷蔵に、三郎の眉根が小さく寄る

口をへの字にした三郎の相手は面倒だ

これに関しては鴇に何とかしてもらおうと思って雷蔵は誤魔化すように屋根を降りた


三郎は普段から顔を借りているだけあって雷蔵とは特に親しい

他の級友よりも大事にしてもらっている自覚はあるし、雷蔵だって三郎は好きだ

しかし、それとはまた別に、三郎のなかでの鴇の位置づけはさらに高い

同じ天秤で測れない何かがあるのだって充分理解しているつもりだ



「………………」


5年長屋に戻る際、廊下から屋根の上へと視線を送れば、三郎が鴇の背中に抱きついている

恐らく鴇が懸念していた通り、帰りを待っていたのだろう

鴇も謝っているのか、三郎の髪を撫でている

その姿に苦笑こそ漏れど、心の痛みはない

多分、恋などといった激しい感情ではないのだ

雷蔵にとって鴇は自分が尊敬する中在家長次と同級生の忍たま

尊敬できて、穏やかで、信頼のできる大好きな先輩のひとり


(それ以上でも、以下でもないよ)


言うなれば父や兄のような存在なのだ

静かで、自分達を見守ってくれる


(でも、距離を測り間違えたらいけない人)


どれだけ近づこうと、恐らく鴇は何も気にしない

でも、雷蔵が気にしなければ、まず三郎と雷蔵との距離に狂いが出始めるだろう

あの人の回りには微妙な均衡を保って人が溢れているのだから


(…さて、どうしようかな)


少し中途半端に放り出されてしまった

持て余した時間にうーんと悩んで雷蔵はそうだと進行方向を変えた


(僕も中在家先輩に構ってもらおう)


迷い癖のある雷蔵にしては珍しく代替案が浮かんで、雷蔵も足取り軽く6年長屋へと向かうのであった




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