必要な手
いつか来る別れだと解っていたし、それなりに距離を置いて付き合ってきたつもりでいた。でもやっぱりわたしは臆病だったから、彼だけは、なんて思っていたのかもしれない。
帰って来ないわけじゃない。まして死んだりするかよ、と笑いながら言ったグリーンが、嫌がる素振りを見せたってわたしの頭を撫でるのを暫くやめなかった。背の高いわたしが誰かに頭を撫でられることはなく、それが嬉しくても天の邪鬼なわたしは気恥ずかしくて、いつもいつも逃げてばかりだったけど。
横でガーディが膨れて土を蹴っていた。グリーンのウインディがそれを慰めている。この二匹も当分会えなくなるのだ。そう思ったらとうとう涙が出て、ゆっくりと俯いた。
泣くなばか、そう言ったグリーンの顔がどんなだったか、わたしは知らない。
「……、ん」
誰かに頭を撫でられているな、と思い、そっと瞼を上げてみた。するとその手の主はぱちりと驚いたように目を見開いた。
知らない人。それに、男の人と来た。
見渡せばそこはチャペルで、シスターももう居なかった。女子大のチャペルだから学生ではない、だろう(まあ、この学校の専門課程を取るために何人か男子もいるようだが)。ステンドグラス越しに見える空は、すっかり藍色に染まっている。
…で。誰だ。
「晩も遅かったし、朝も早く起こされたもんな」
「……、はい?」
「何て呼んだら?」
細められた目。屈託のない笑顔。ダークブラウンの瞳には見覚えがある。くすんだオレンジの髪に混ざる、金色。
「……まっさかー、」
「"マスター"?"おや"?"ママ"?」
慌てて立ち上がったら、長椅子の前の跪き台に足を取られてバランスを崩した。瞬時に伸びる大きな腕。ぐ、と引っ張られて、暖かい体に触れた。
「…ガ、ガーディ?」
「○!」
ばっと効果音がつきそうな勢いでわたしを抱きすくめた彼の体温は高くて、それも相俟ってかわたしの顔が熱をもつ。名前を呼んで、いつもわたしが彼にやるようにぐりぐりと触られた。しばしされるがままになっていると、彼が大きく息を吸った。顔は見せてくれない。
「グリーンが帰って来るんだろ」
「…らしいです、ね」
「それでずっと浮かない顔してたのか?」
「…」
浮かない顔。解らない。
「……俺じゃダメ?」
髪を梳くように、あたたかな手のひらが移動する。
無意識に伸びたわたしの手が、ガーディの胸を押していた。
「何、が…」
「嫌いになればいいのに」
「ガーディ、解んない、」
「…ごめん」
「駄目、全部言って」
言いなさい、顔を覗き込んでそう言ったとき突然チャペルのドアが開いた。シスターが教会の鍵を胸の前で揺らした。
主の前で軽く一礼し、ふて腐れたガーディの手を引いた。シスターにさよならを告げて、家路につく。
路地を少し入ったところで、音もなく手が消えた。振り返ると、いつものガーディがそこにいた。
(謝らなきゃいけないのは、)
「ガーディ」
いつだって本心を隠してばかりのわたしを、この子は。
「好きだよ」
膝をついて抱き締めたら、ガーディが天を仰いで小さく嘆息するのがわかった。
遠くで慌ただしく過ぎていく時間が、わたしたちだけを遮蔽しているようだった。
(よくばりなけもの)
100815