5,虚々実々



Name Change

 多くはない街頭に照らされる夜道を、ベックさんに腕を引かれて歩く。私の家に向かっているのに、先導する彼の背中を見つめる。
 暖かくなって、出会った頃よりも服装は薄着に変化していて、うっすらと見える肉体のラインに圧倒される。
 背中にあった視線を、緩やかに下げていけば"逃がさない"とでも言うように掴まれている手首を見つめる。
 店前であんなに抱き締めておいて、何を遠慮しているのか。

 手を繋いでくれないベックさんに対して、少しだけ沸いた悪戯心と自身の欲望。
 掴まれている右手首をゆっくりと返すと、力をあまり入れずに握られていたのかベックさんの指が少しだけ浮いた。
 浮いていた親指を親指で、人差し指で人差し指をゆっくりと搦めとる。暗がりで手をじっくりと見れず、手探りで指をまさぐる。私の指にされるがままになっている彼の小指を捕まえると、自分の小指を絡める。
 手を繋ぎたいけど、自分から繋ぎに行くのはなんだか恥ずかしい。私ができる最大限の"ベックさんと手を繋ぎたい"のアピール。

 お互いに会話もなく指先だけのやり取り。なすがままになっていた彼の指先が、突然意志を持って動き始めた。小指を起点としてうごく指先が手の甲を緩やかに撫でる。擽ったさで跳ねる手の甲を押さえつけ、指先を丸め込まれる。
 絡めいた小指を抜き取られると、握った指先の手のひらの間にベックさんの指が差し込まれる。拳の鎧が解かれ、指と指の間に彼の指が入り込み、重なった手のひらに満足だといわんばかりにぎゅっと力を入れた。

 手首を掴まれている時よりも近づいた距離でしばらく歩くと、私のアパートの前へと辿り着いた。5階建てのアパート、なんとなくの防犯意識から、選んだ3階の部屋までエレベーターを使って昇っていく。稀に、運動を意識して階段で上がる時もあるけれど、人を連れている時には行わないのが定石だろう。
 内見の時にたまたま空いていた角部屋に滑り込んだことが懐かしい。エレベーターから降り、1番奥まで歩いていく。玄関の前に着いたが、まだ右手はベックさんの温もりを感じているため、片手で鞄の中からキーケースを探る。
 探し当てたキーケースを引っ張り出し鍵を開け、中に入る。

 「どうぞ、狭いですけど」

 そう言って、靴を脱ごうとするけど未だに離される気配がない手を見る。しかし、見ているだけでは手は離されず、ベックさんの顔と繋がれた手を視線が往復する。
 靴を脱げない。

 「あの、手、離して貰えませんか」
 「離したいのか?」
 「や、」
 「…俺は離したくないんだがな」

 恥ずかしげもなく放たれた言葉に「え、ぁ、」と戸惑いが溢れる。目に見えて動揺する私の反応をあらかた楽しんだのか、パッと手が離される。余裕な顔を崩せないことが悔しい。離された手に少しの寂しさを覚えつつ、靴に手をあてて脱ぐ。
 いつもなら脱ぎ捨てる靴も、ベックさんの前でちまちまと揃えながら脱ぐ。5時間の勤務を終えた足が臭くないことを祈るばかりである。
 三和土から廊下へと足を上げる。先に部屋に進みすぎるよりも待っていた方がいいのかなと、少しだけ進んで後ろを振り返る。
 大きな身体を曲げて靴を脱ぐベックさんは、見慣れた空間に違和感をもたらしている。靴を脱いだ彼は、ゆっくり振り返りこちらに歩いてくる。
 部屋に通すと、ベックさんは物珍しい物を見るように部屋を見回している。部屋の入口で立ちどまるベックさんを見ていると、1Kの部屋には見合わない大きな身体に笑みがこぼれる。
 私の笑った気配に気づいたのか、彼の視線がこちらに向けられる。

 「やっぱり、大きいですね、」
 「…身長がか?」
 「身長もですけど、なんて言うんですか全体的に?」
 「まァ、人並みよりかはデカいな」 

 身長は206cmあるしな、となんてことないかのように告げるベックさんに驚嘆の声が漏れる。
 これまで、深く考えずに見上げていた。思い返してみれば、いつも店のドアをくぐっていた。
 いつまでも立たせてはおけず、どこかに座ってもらおうと部屋全体に視線を向ける。女子大生の一人暮らしなんて、ベッドとローテーブルにテレビ、雑貨棚に小さな化粧台ぐらいしか置けていない。
 ローテーブルの下にはカーペットを引いてある。座ってもらうとしたらカーペットの上か、ベッドの上。
 ベッドから連想して、店前で囁かれた「俺の家なら身の保証はしない」のセリフが脳内をよぎる。
 ふるふると雑念を振り払うように頭を振り、ベックさんに声をかける。

 「座る場所ないので、床でも、ベッドでも、適当に腰かけてください」
 「…それは誘ってるのか?」
 「〜っ、なんでそうなるんですか!」

 思わず声を荒らげてしまう。確かに少しだけ、そういう風に捉えられるかなと考えたけど、違うのに。
 不貞腐れるようにベックさんの方を見れば、カーペットの上にあぐらをかいて座っている。私が繰り出す喜怒哀楽なリアクションが面白いのか、声を出さずに口角を上げて笑っている。

 座ったのを確認すると、肩にかけていた鞄を適当な床に置く。「ちょっと待っててください」と、一言声をかけてから、廊下に面しているキッチンへと足を運ぶ。
 何か飲み物を出そうと、流し台の横に鎮座する小さな冷蔵庫を開け中身を確認する。
 冷蔵庫の中には、2Lの水に作り置きの麦茶、そして大量の缶チューハイ。つまめるものも大してなく、女子大生としてなにか欠落しているものを自覚する。
 誰かが家に来るって分かってたなら何か買っておいたのに、と思う反面、さっきまでコンビニにいたのだから何か買ってくればよかったと項垂れる。しかし、あんなに熱烈な抱擁を受けているのを、目撃されている店には入れない。
 水かお茶かお酒か。自分ではどれか決める事は出来ず、ワンルームの入口から顔を覗かせて、ベックさんに問いかける。

 「飲み物、何がいいですか?」
 「何があるんだ?」
 「麦茶か、お水か、お酒ですね。」
 「麦茶で」

 顎に手を当てて、少し考えた後に発せられた言葉は予想外のものであった。
 これまでのコンビニでの購入品を見れば、ベックさんはお酒が苦手ではないと思う。なんなら、お酒に酔うことはなさそうなタイプだ。
 なので、お酒を飲むだろうなと思っていた私は拍子抜けしてしまった。
 そんな私を見ながらベックさんは言葉を続ける。

 「酒を飲みたくないわけじゃねェんだ。」
 「──ただ、2人で飲む酒は一緒の時のほうがいいだろうからな、今はまだお預けだ。」

 またずるいことを言う。
 ベックさんは狡い、いつまでも私より1枚上手だ。

 「じゃぁ、2人で飲める日、楽しみにしてますね。」

 狡いといった感情を悟らせないように、お淑やかに大人びて見えるように笑いを浮かべる。
 返事をし、またキッチン兼廊下へと頭を引っこめる。吊り戸棚から来客用のグラスを引っ張り出す。お茶なら湯呑み、とも考えたがベックさんが湯呑みを持って、私の部屋でお茶を飲む姿を想像するとシュールに見えたのでやめた。
 冷蔵庫から、麦茶のポットをだし、天板に乗せる。次に冷凍室から氷をグラスに一欠片ずつ入れ麦茶を注ぎ入れた。たまにしか使われない小さなトレーに、グラスを2つ乗せて彼の待つワンルームへと向かった。

 ローテーブルの奥の方の床に腰を落ち着けているベックさんに「どうぞ」と、声をかけながらグラスを差し出す。
 ベックさんから見て、斜めの位置に役目を終えたトレーを抱えながら座る。
 ふと、家に来るきっかけを思い出す。与えられそうで与えられなかった口付け。あの続きを求めて家に呼んだのだ。勢いだったとはいえ、求めてしまった事実に、血が頬に集まる。

 特に交わす会話もなく、1人で赤くなっていく私を見た彼は私の名前を呼んだ。
 耳を撫でる自分の名前に、俯きがちだった顔をゆっくりとあげる。私の名前を呼んだ彼は、見る人が見れば一瞬で溶けてしまいそうな甘い顔を浮かべ口を開いた。

 「隣に来ないのか?」
 「行ったら、狭くないですか」
 「狭い方がお前をもっと感じられるだろう。」

 やっぱりベックさんは狡い。そんなことを言われたら、私が引けないのを分かっている。
 しずしずと、彼の左側へと移動し、彼の隣に腰を下ろす。横から見あげた彼の顔は満足そうで笑みが漏れる。
 もっと、彼の中を私でいっぱいにしたくなって、床に置かれていた左手に自分の右手を重ねる。
 先程のように、小さなアピールじゃなくて今度は堂々と大胆に指を這わせる。私の指先とは違って、節くれだち、太い指の触感を楽しむ。
 触られる触感が擽ったいのか、ぴくりと震え、動く手を逃すまいと指を搦めとる。

 「…ベックさん、本当に私の事好きなんですか」
 「好きだな」
 「それは、付き合いたいとかそういう…?」
 「あァ、いずれはな」

 何回も確認のように、尋ねてしまうわたしは臆病者に見えるだろうか。気持ちに比例するように、強気で握っていた手の力が緩む。
 ベックさんを信用していない訳では無い。しかし、自分がベックさんに好かれるような人間ではない。
 誰もが振り返る容姿ではないし、特段優れた性格でもない。煙草を吸う女は一般的にはマイナスの印象だろう。つい、疑ってしまう自分に自己嫌悪する。
 
 私は彼と見合う人間であるのだろうか。自問自答を繰り返す。私は彼のことが好きなのだろうか。
 ベックさんはかっこいいしモテるだろう。それは自他共に認められる評価だろう。背は高いし、ガタイもいい、声も低くて私のような平凡な店員にも優しい。モテない訳がないのだ。
 実際私は彼を好意的に見ているのだろう。だから口付けを許したし、自身の領域への侵入を許している。
 ふと、搦めていた手が動き、ベックさんの方から指先を交わされ、手が繋がれた。その感触で、ぐるくると飲み込まれていた思考の渦から、意識が浮上する。
 くいっと手を引かれ、彼を見上げれば心配そうにこちらを見ていて申し訳なさが募る。
 
 「お前を、急かせるつもりはない。」
 「待つのは得意だ。忍耐力には自信がある。なんせ、落とすために数日置きに店に通ってるんだからな。」
 「お言葉に甘えて…、もう少しだけ待っててください。」

 この場は彼に甘えることにした。もう少しだけベックさんには我慢してもらうことになるが、待たせるのも悪くないだろう。彼にはたくさん惑わされているのだ、少しぐらい私の行動一挙一動に惑わされてほしい。
 すっかり乾いてしまった口内を、グラスに注いだ麦茶で潤す。慣れない考え事をしてしまい、脳が紫煙を求めて始めていることに気づき、ベックさんに声をかける。彼もそろそろニコチン切れのはずだ。

 「ベックさん、煙草吸いませんか」
 「…この部屋で吸っていいのか?」
 「流石に、ベランダになりますけど」

 手を離し、立ち上がる。
 ベランダに出るためのサンダルが、ベックさんの分は無いことに気づき、パタパタと備え付けの靴箱へと向かった。
 確か父親が置いていった大きいサンダルがあったはず、と靴箱を見渡すと記憶違いではなかったようで、1番上の段の端っこに押し込まれているサンダルを出してくる。
 突然逆方向へと向かっていった私を不思議に思ったのか、振り返ると立っていたベックさんに驚く。

 「サンダル必要だなって思って」

 そう言って、眼前にサンダルを掲げれば彼は納得が言ったように口角を上げている。

 「あァ、ありがとうな。」
 「…一応聞くんだが、このサンダルは誰のなんだ?」
 「残念ながら、父親のものですね。」
 「そりゃァ、良かった。」

 明らかに男物のサイズと色のサンダルを見て、ベックさんから尋ねられる。もし、元彼の物だったらどうするつもりだったのだろうか。
 ベランダへの短い道のりを歩きながら、疑問を口に出す。

 「元彼のって言ったら、どうしたんですか?」
 「今すぐ棄てて、今からは自分の靴を履いたな。」

 笑いながら、そう返され「物が無駄にならなくて良かったです。」と言い返す。
 途中でカバンの中から煙草を回収し、ベランダの入口に着いた。冷えている金属の鍵を開け、引き戸を引く。
 雨ざらしになるのが嫌で、中に入れてある自分のサンダルを履いて先に外に出る。後ろに続く彼のためにサンダルを地面に置く。
 室外機の上に置いてある灰皿を、手すり壁の上に移動させていると、サンダルを履いた彼が隣に立っていた。

 隣からジッポのいい音が鳴るのを聞きながら、セッターの箱から、1本煙草を取りだし口に咥える。1本130円程のオイルライターのネジを回転させながら火をつけるがなかなかつかない。
 "3ヶ月は持つ"の謳い文句とともに、ライターを購入した日はもう遥か遠い日のことである。オイルが切れてしまったライターをみて、予備のライターを取りに部屋に取りに戻ろうとすれば、横から声が掛けられた。

 「火ならここにもあるだろ」

 そう言って差し出されるジッポ。「今日は甘えてばかりですね」と返しながら受け取り、火をつけようとするが、ただの女子大生にはジッポはうまく扱えなかった。
 見兼ねたベックさんに「貸してみろ」と言われ、ジッポが彼の手へと戻っていく。
 すぐに付けられた火を受け取ろうとするけど、ベックさんは火を貸してはくれず、口元に咥えている煙草へと火を移した。火を使っているため、暴れることも叶わずされるがままに火を受け取った。点火した煙草を一吸いし、口から煙草を離す。

 「付けてくれるなら、一言言ってくれればいいじゃないですか。」

 紫煙とともに、文句を吐き出せば隣に立つ彼は喉を震わせる。

 「散々してやられてるからな、仕返しだ」

 散々してやられているのは私なのではという、疑問を浮かべながら、灰皿に灰を落としていく。
 壁に肘をつきながらお互いに煙を揺らす。隣を見ると、一足先に吸い始めた彼の煙草はすっかり短くなっていて、灰皿で火を擦り潰している。
 いくら、季節が春先に向かっていても吸い終わる頃には冷えてきていて、腕を抱き擦りながら灰皿を室外機の上へと戻しおく。
 部屋に戻ろうと、ベックさんに声をかけると手招きをされる。なにかゴミでも落ちてたかと、思い近寄れば、ふいに腕引っ張られる。
 引き寄せられて、ベックさんの鍛えられた胸に頬があたった。逞しい腕が背中へと回り、力強く抱きしめられる。頬に、布越しの彼の体温と鼓動が伝わる。
 驚きの声は厚い胸板に吸われ、くぐもった声へと変化している。

 「今日の目的がまだだったなと思ってな、」

 抱きしめられながら耳元で囁かれた言葉に、弾かれたように顔を上げれば、近づいてきた唇によってお預けにされていた口付けをそっと落とされた。




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