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外から差し込む光を瞼の外に感じもぞりとシーツの上で丸まるように体を動かすと頭上から静かに声が掛けられた。
「…起きたのか」
夢うつつに、低く耳を撫でる声に意識が緩やかに浮上する。ベッドの窓側で起き上がり手にカーテンを握る彼、ミホークさんが私の瞼に光を差し込ませた犯人らしい。
直ぐに閉じようとする瞼に力を入れながら「おはようございます、」と掠れた声を吐く。油断すると違う世界に飛んでいきそうな私を見て、ミホークさんは緩やかに口角を上げ微笑んでいる。
「随分と眠そうだな。昨晩は俺より早く眠りについただろう」
少し含みを帯びた言い方をする彼に、昨晩の甘い情事が頭をよぎる。早く眠りについたと言っても、気絶するまで寝かしてくれなかったのはミホークさんなのに。
恨みを込めた目で彼を見つめるが「睨んでも愛らしいだけだな」と軽く躱されてしまう。
小さく息をついて、辛うじて着せられている布を整えベッドから立ち上がる。サイドテーブルに置いてあるピッチャーの水をコップに注ぎ飲み喉を潤していると、いつの間にかベッドから立ち上がったのか、寝室から出ようとドアに向かう彼に声をかけられる。
「それよりも今日は出かけるぞ」
「買い出しは一昨日しましたよね。買い忘れですか? 」
何か買い忘れただろうかと思考をめぐらすと、振り返った金色の瞳が訝しげな目でこちらを見つめる。
「今日はお前の誕生日だろう」
そうであった。壁にかけられているカレンダー見ると今日は2月14日。私の誕生日であった。ミホークさんと2人でクライガナ島に暮らしていると、イベント事に囚われていないと日付感覚がすっかり狂ってしまう
「…確かに私の誕生日ですね」
ワンテンポ遅れた返事にミホークさんは呆れたように笑う。「すっかり忘れてました」と伝えると「お前がこの世に生まれ落ちた日だ。忘れるな」と真剣な目で伝えられる。ミホークさんが私のことを覚えててくれることに心が暖かくなりながら、来年はちゃんと覚えておくを胸に刻む。
「今日は珈琲か、紅茶どっちだ」
その日の気分によって変わる朝食の1杯。どうやら今日はミホークさんが入れてくれるようで、ドアの方へと動きながら問いかけられる。朝に紅茶は良くないだとか、カフェインがだとか言うけれど、毎日少量なら問題ないと思っている。
「今日は、アッサムでお願いします」
そう伝えると、静かに頷き先にキッチンへと向かう彼を見送り、身なりを整える。洗面台に向かい、顔を洗い髪の毛を整える。下着も新しいものに付け替え、服は部屋着へと着替える。
朝食の準備を手伝いたいので、早々に身なりを整え彼の待つキッチンへと足を動かした。
キッチンに入ると、香ばしい様々な香りが混ざりあっていてお腹の虫が騒ぎ出す。彼が作ってくれた食餌をお皿に盛り付け、テーブルに運び、椅子に腰をかける。
揃って手を合わせ、食事を取り始める。基本的にあれこれ無駄なお話をしない彼が今日、自分の誕生日に何をしてくれるのか、気になってしまった。それとなくどこに行くのか、何をするのかをそれとなく聞き出そうとした。しかし、彼はそれらの質問を見事に切り捨て、私に告げられたのは「準備が整い次第出かけるぞ」ということだけ。
その返答に少しだけ不満を募らせるが、彼が祝ってくれるならどんな些細な事でも嬉しい。密かに上がる口角を押しとどめようと表情筋と格闘していると、ミホークさんは食べ終えた様で、コーヒーを飲みながらテーブルの端に置いてあった新聞を眺め始める。
待たせてしまっていると、ちょっとだけスピードアップして食事を口に運び入れる。そのまま飲み込んでしまっては喉に詰まらせタイムロスに繋がる。噛むことは忘れずに、咀嚼を続けた。
ようやく食べ終え、空になった食器類をまとめて流し台へと運んだ。よし洗うぞ、と水を出そうとすると後ろから低い声が耳を撫でる。
「俺が洗っておくから準備を進めろ」
「ゃ、作って頂いたので片付けぐらいは…」
「いい。支度をしてこい」
ここまで言われてしまえば、逆らうことはミホークさんに対して申し訳ない。大人しく「お願いします」と引き下がり彼に片付けもお願いする。
パタパタと自室へと駆け込み、今日のコーディネートを組んでいく。何をするのか、どこに行くのか伝えられていないため、着るものがなかなか定まらない。
しばらく悩んだ末に、選びとったのは高い高級店に連れていかれても、街歩きでも浮かないような綺麗めなワンピース。髪の毛は少しだけアレンジを施し、メイクはしっかりと。
あれこれと準備に動き、時計の針が1周しようとした頃、部屋の扉ががちゃりと音を立てて開いた。
「準備できたか」
「あと少しで終わるところです。」
そうか、とだけ言いその場に立ち、最後の仕上げを眺める彼はいつも通りの服装。ミホークさんの知名度ならどこに何を着ていこうかあまり関係なさそうである。それに、彼のシャツは露出が多いだけで、エレガント風だから高級店でもその服装で通るのか、なんてくだらない事が頭をよぎり、作業の手を止める。
忙しなく動いていた自分が止まったことが、目に付いたのかどうしたのか、と目で訴えかけられる。その視線を尻目に、仕上げに口元に紅をさす。
「お待たせしました」
そう言いながら、小さな鞄を持って近づけば左肩にかけた鞄を抜き取られ腰を抱かれる。抱かれるがまま彼に近づけば顎に手を添えられ上を向かされる。近づいてきた唇に、慌てて指をあて止める。
「駄目です。リップが落ちちゃう」
「今日のは、この前買った落ちないリップだろ」
だから大丈夫だろと言わんとばかりの顔に、何も言い返せなくなる。ミホークさんの言った通り、今日のリップはこの前彼に買い与えてもらったもの。
いい色だなとショーケースを眺めていた時、店員からの「色が落ちないがウリなんです」と声をかけられたことを思い返す。すごい代物が出てきたなと思っていたら、隣にいた彼が即決で買ったことを思い出した。
…もしかして、彼はこの時を狙っていたのであろうか。
近づいてくる唇を目を瞑って受け入れる。ミホークさんの整えられた髭が擽ったい。彼の少しカサついた唇が潤ったころ、温もりがリップ音を立てて離れた。
少しだけ狂わされた呼吸を整えながら、目を開けてミホークさんの顔を見つめる。彼の唇を見てみると湿り気とほんのり朱が入り交じっていた。
「やっぱり、色は移ってしまうものなんですね」
彼の唇に手を伸ばし、指先でそっと朱を拭う。ミホークさんが持ってくれている鞄からティッシュを取りだし、手を拭き手鏡を取り出す。鏡面を覗き込めば、自分に付けられた朱は残っていて、あの謳い文句は本当だったんだなと1人納得する。これなら手直しすることもないかと、手鏡を鞄にしまい、ごそごそと鞄の中を整理していると腰に添えられていた腕に力が籠る。「行くぞ」と、一言声をかけられ、エスコートを受けながら街へと2人で並んで歩き始めた。
――――――
街に着く頃にはお昼に近づいていて、人の往来が盛んになっていた。いつもなら何がお昼を、となるところだが今日の朝食が遅かったこともありとりあえず街を歩くことになった。雑貨屋で食器を見て見たり、普段着るような服を見てみたり、ウィンドウショッピングを楽しんだ。しかし、すぐに財布の紐を緩めそうになるミホークさんを止めるのが1番大変であった。
なんとか抑え込み、ほっと息をつくとミホークさんがそろそろかと呟いた。何がそろそろなのかと、隣に立つ彼の顔を見あげると添えられただけの腰に置かれた腕に力が入りある場所に向かって移動させられる。
一体どこまで行くのだろうか、この先にある店を思い出しても必要そうな店は思い出せない。ふと足が止まったのは、綺麗なブティック。いつも愛用しているようなブランドではなく、お呼ばれした時に着ていくようなブランド。道を歩くのを辞めた足は、店への入口へと向かっていて置いていかれないように足を動かす。
世界一の剣豪の為すことに抵抗できる手立てはなく、素直に店へと入店すると綺麗なお姉さんたちが、諸手を挙げて歓迎している。
「いらっしゃいませ。」
「この前伝えた用件だ、頼む」
頭上でポンポンと交わされるミホークさんと店員さんの会話に置いてけぼりをくらう。「それではご案内しますね」の声とともに、ミホークさんの手からお姉さんへと私の引導が渡される。
え、え、ミホークさん?と困惑を隠せない声を上げながらお姉さんに奥へと連れていかれる。最後に見えた彼の顔は、行ってこいと言わんばんばかりの満足気な顔をしていた。
裏に連れていかれると、数人のお姉さん店員に囲まれ、「可愛いくしてあげるからね」「腕がなる!」「とりあえずこの服から」と口々に言われた。
「…あの、今から何されるんでしょうか」
恐る恐る口から出た疑問は、耳に届いた店員さん達の笑みを深めさせた。
「お連れ様に、お客様が誕生日ということで最上級に可愛く仕立てるようにお申し付けられました。ですので、我々が腕を振るって仕立てさせていただきます。」
どうやら、私のお祝いにミホークさんが着飾ってくれるらしい。着飾ってどこに行くのだろうかと、まだまだ疑問は残るが、言われた言葉に納得していると、部屋に運び込まれたドレスをあてがわれ、1番似合うものを探してもらう。メイクも手直しされるかと思ったが、自分の顔に似合うメイクは自分が1番わかっていると言われそのままだ。
今施されているものは、あくまでも"お手伝い"の一環だそうで、髪の毛は少しだけ巻き直したり、整えたりのの手直し程度だ。
ドレスを宛てがわれて数十分。自分好みの一番似合う物を見つけ靴も見繕ってもらう。今まで着ていた物は、住まいに送って貰うことにした。
靴を履き替え、店内で待つミホークさんの所へと向かえば、彼は椅子に腰掛けていて私の存在に気づくと下がっていた視線が上がり混じりあった。混じりあった視線の彼は少し微笑んだ気がした。彼に近寄り、一言。
「お待たせしました」
「よく似合っている」
そう言って差し出された手を掴むと、店員さんに見守れながら店を後にした。次に辿り着いたのは、街の中心に聳え立つ高級ホテル。傾いてきた、赤支子色の日が明るく建物を照らしている。
ドレスを着させられた時点で、もしやとは思っていたが、本当に連れてこられるとは思ったいなかった。
「…ここ、ですか?」
「あァ、ここだ」
言葉少なに会話を交わしながら、ホテルの中へと足は止まることなく進んでいく。ホテルマンに案内され、連れてこられた場所は、街が一望できる豪華な一室。
今日のために、いくらのお金が飛んで行ったのか気になるが、ミホークさんにそれを心配するのは無意味で野暮なことだろう。「また後ほど」と、いい去っていくホテルマンを見送って部屋の中を探検のように歩き回る。
先程まで、隣にいた彼は着いてきている気配がないので入ってすぐのソファで休んでいるのだろう。用意はするのに、自身は興味がないのは彼らしい。
ベッドルームからお風呂、どの部屋も細かい装飾が施されていて、隅々まで見ていて楽しく1人での探検をすっかり楽しんでしまった。
1人にしすぎてしまったな、と慌てて彼の待つ部屋に戻ると、先程まで傾いていた日はすっかり落ちていて、日中に眺めてい店先の灯りが街を照らしている。戻ってきた私に気づいたミホークさんは、読んでいた本を閉じてこちらに近づいてくる。
「探検は楽しかったか」
「とても素敵な部屋で、ついついゆっくり見ちゃいました。」
笑って問いかけに答えれば、彼は「ならいい」と、満足気な顔を浮かべている。近づいてきたミホークさんの腕を引き、2人並んでで窓から夜景を眺めた。
「今日はこんな綺麗にしてもらって、素敵な場所に連れてきてありがとうございます。」
「お前を飾り立てされるのも、甘やかせれるのも俺の特権だ。」
感謝を伝えれば、こんなことはなんてことないと言ったふうに返され剥き出しの独占欲を見せつけられる。
私からすれば、ミホークさん以外からこんな祝福は受ける機会はないだろうし、もしあったとしても受けることはないというのに。まだ見ぬ相手に嫉妬の炎を燃やす彼に、笑みが生まれる。
暫く、談笑を楽しめばコンコンと扉をノックする音が部屋に響いた。はい、と返事を返せば先程のホテルマンと後ろに連なる人とワゴン。
「失礼します」の声ともに、部屋に入ってくる人達をリアクションが追いつかず静かに眺める。眺めていると、部屋のテーブルにディナーのセットをしてくれているようだった。どうやら今夜の食事は部屋で取れるように手配してくれたらしい。「それではお楽しみください」と、言い去っていく彼らを見送った。
扉が閉じられると、ミホークさんに手を引かれ椅子の前まで連れていかれた。椅子を引いてくれた彼にお礼をいい席に着く。彼はそのまま、対面に移動し椅子に腰かけた。
食事が置かれているテーブルの横に置かれているミニテーブル。ミホークさんは、その上に載っているワインを手に取り、器用に栓を開けている。
私の方に置かれているグラスの3分の1ほど注ぐと、自分のグラスへと注ぎ元の場所にワインを戻していた。グラスの脚を手に取り、胸の高さぐらいまで上げ、ミホークさんと目を合わせる。
「おめでとう」
「お祝い、ありがとうございます。大切な日を一緒に迎えることができて、とても嬉しいです。」
ミホークさんは、たった一言だけのお祝いの言葉だけど、今日一日の祝うための行動で既に気持ちは伝わってきている。次の彼の誕生日には盛大にお祝いをしないとなと静かに決意を固める。
「ミホークさんの誕生日も、お祝いさせてくださいね」
「あァ、楽しみにしている」
――――――華を飾り立てるのは