丁度、雨が降っていた。 霧雨よりは大きくて涙よりも小さい雨粒の存在感は如実でありながら直ぐに頬の上を滑り落ちる。睫毛に乗った水滴を瞬きによって落下に追いやりながら、「あの人みたいな小雨です」とハルは笑った。正しくは、発語の際に特定の音を紡ぎ出すべく動いた口角が僅かばかり上向いた事で、唇が笑みを造っているように見えた。 だから獄寺は言ったのだ。 「無理に笑うんじゃねえよ」 だからハルは言ったのだ。 「笑ってなんて、いませんよ」 細身のシルエットを持つシンプルな黒いロザリオをぶら下げた数珠がかちゃりと、ハルの指の間で鳴いた。日本生まれの黒真珠の合間でゆらゆらと揺れるイタリア生まれの黒い十字架は新品同様で、傷も禿げも欠けも一つとして見当たらない。 かちゃり。 光沢を放つ丸い其れが、かちゃりと。滑らかな肌に挟まれて擦れ合って嫌に安っぽい音色を奏でる。 半袖からだらりと垂れ下がったハルの生白い腕は黒一色に染めあげられた質素な喪服に包まれた肢体の傍らに鎮座する事で一層其の白さを主張し、手の甲に透けている筈の蒼い血管が三十センチ以上離れた位置からでは見えない事でいよいよ肌は造り物めいて視えた。 かちゃり。ハルはしきりに数珠玉を持ち直す。宝玉に自らの体温が染み込む事を避けるかのように、幼子が暇を潰すべく興じる手遊びを真似るように、ハルは数珠を、鳴かせる。 左の手首が重い。其の重みはあくまで腕時計が齎すものだと知りながらも、獄寺は如何にも今の時刻を確かめられずに居た。 ざわりと枝葉を揺らめかせる風は今朝方から変わらぬ涼しさを帯び続けるばかりで時間の経過を察する材料にはならない。寧ろ気温があまり変わらない事で、ハルの手の甲の白さが全く変わらない事で、時は然程進んでいないような陳腐な錯覚さえ覚えてしまうのだ。 鴉のように真っ黒い色をして泥団子のように重苦しい様相で風に遊ばれるハルの黒髪は、毛先だけが雨に濡らされて艶やかな光沢を持っている。雨の匂いも深緑の香りに打ち消され、只々濃い緑葉の気配が立ち込めるばかりの墓地の真ん中で、ハルは毛先を濡らした儘湿った土の上に立ち続ける。 そうして獄寺は思い出す。数珠を握るハルの指が、今日は朝から一度もハンカチを握ってはいない事に。 僅かに濡れた傘はごろりと地面に投げ出されていた。雨が上がったのは何時頃の事だったのか、時計を見ていなかった獄寺には皆目見当もつかない。 「馬鹿みたいでしょう?」 マネキン人形のように突っ立つハルがぽつりと呟いた。レコーダーを再生した音のような語尾がぶつりと切れる話し方が、どう考察しようとも三浦ハルらしいと言う結論には至らなくて、獄寺はゆっくりと、まるで自らの感情の動きを率先して把握しようと努めるかのようにゆっくりと眉根を寄せた。 山本ハルとしてならばこんな物言いも有りなのかもしれない。そう思って、次には自分の中の随分と尊大な考え方を恥じるように更に眉間に皺を寄せた。 かちゃり。ハルが数珠を弄る。 「俺が死んだら寿司じゃなくて海苔巻きを墓前に添えてくれ、って。そう言った日の夜に左様為らしちゃうなんて、武さんって実はエスパーだったんでしょうか」 「馬鹿なエスパーとか聞いた事ねえよ」 「ハルが馬鹿って言いたいのは予知能力についてじゃありませんよ。海苔巻きだって、中に巻くのが生モノだったら結局は腐っちゃうって事を言いたいんです」 「そもそもアイツに予知能力なんざこれっぽっちも無いけどな」 会話が始まってから終わるまで、ハルは背中を向けるばかりでただの一度も獄寺を己の視界に入れる素振りや意思は見せなかった。 ついに、獄寺は左手を掲げる。のろのろと擡げた手首に巻き付く装飾品は正常に今現在の時刻を其の盤にて知らせていた。 「おい、戻るぞ」 帰るぞ、とは言えなかった。 このおくびょうものめ。獄寺はこっそりと自分と、雨雲を罵った。空が獄寺の味方をしてくれた事など片手の指で事足りる程度の回数しか無い。 ハルの顔が上向いて、数珠と薬指に嵌まる指輪が何度目になるか判らない接触を果たして、ハルの睫毛に乗った水滴が、 「馬鹿だって笑って下さい、獄寺さん」 落下した。 サンタマリアの影隠し ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ (title:透徹) |