何の香りもしない浴室。湯だと判る程度の快くも悪くも無い中途半端な匂いが充満する其処に居れば居る程、湯気が前髪をじわりと湿らせてゆく。額に張り付いてくる其れを退けるのも億劫で指先はただ浴槽の中へ埋めた。

整髪料だと、其の事しか告げてこないような質素過ぎる香りが自分の髪から漂っているというのはあまり気分の良い状態じゃない。
けれどそもそも男性が選んで使うような代物に手を出した時点である意味あたしは間違いを犯していたし、そうと気付いたからには腹を括るべきなのだ。どうせ明日の晩にはこの肌も髪も何時も通りの甘い華の香りに包まれているのだろうから。


「あんた何時まで其処に居るつもりよ。出られないじゃない」
「さっきお前が動くなっつったんだろうがぁ。ったく…気配が気になるなら探りゃ良い話だろ、一応はプロの癖して家ン中のそれも辿れねえのか」
「何処ぞのエリート暗殺部隊長さんみたいに常にカリカリしてないのよ」


チッ、と、舌打ちが一回磨り硝子の向こう側から送られる。浴室と脱衣室、壁一枚を隔てて感じる気配が肌を撫でる。
ピンで纏めた後ろ髪を濡らす事の無いように肩まで湯に浸かった儘で浴槽の縁に頬を預けると、ひやりとした硬い質感が皮膚を侵してきた。刹那背筋を這う震えさえやり過ごせば其の冷たさはあたしの体温と混ざり合って心地好い微温さを孕み始める。

微温い。湯も室温も肌を撫で上げる蒸気も、あたしの足の指先も、扉の向こうで動かずに居る気配も。

雨が降った。傘を持っていなかった。荷物はそれなりに重くて、あたしのパンプスもスカートも、綺麗と指す事は躊躇うようなくすんだ赤黒い汚れに因って其の外観の一端に妙な紋様を描いていた。
当時あたしの両足が踏んでいた穢い地面からは、自分好みの調度品が並ぶ家賃三十六万円の自室よりも、今は壁に凭れて眉間に皺でも寄せているのだろう男の此の部屋が近かった。だからあたしの髪からは質素な香りがしてしまうの。表面的に見える理由なんて其れらで充分でしょう。


「ねえ」
「あ?」
「余分なバスタオルの一枚や二枚、有るんでしょうね」
「もう用意してある」
「…言っとくけどあんたが使った事の有る奴なんて御免よ、厭らしい」
「そういう思考回路してるお前こそが厭らしいんじゃねえのかぁ」
「馬鹿言わないで頂戴。それよりバスタオル、新品か、じゃなきゃ洗い立てのものが有るならそっちに変えて」


無言。無音。だけど気配は其処に在る。あたしだってプロを名乗る人間、空気中に晒け出される不可視の痕跡と証を辿る事は然程難しくない。

( がたがた、ごとり、 )
引き出しを開ける音がする。視界の端で、輪郭を歪に暈した背中が動いている。黒のシャツを纏う手が伸びて、白くて四角くて大きくて柔らかそうな何かが磨り硝子の先で揺れる。腕が降りる。
(  ぱたん… )
溜め息みたいな音を生んで引き出しが閉まる。待てども待てども、舌打ちは聞こえない。物音の記憶だけが鼓膜にへばりつく。
( このタイミングで舌打ちをしないだなんて、全くこれだからこの男は! )

湯の中へ鼻から下を沈める。大きく口を開いて、声の限りに一言だけ叫んでやった。三文字で表される音の羅列は三つの泡に成って、次々に水面で割れて消えた。





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