黙考して逡巡して何がしかの懺悔を片手に咽び哭いた暁に獲得出来る恩恵なんて、きっとサルビアの花の蜜程度の量、即ち微々たるものでしか無い。
ならば人の仔らしく微笑いませんか。



フロントガラスを隔てて広がる外界は果ての無い、そう、絵本に描かれたパステルカラーの景色のように果てが無い楽園のような色調を持っている。
通りの屋台で売られているオレンジの鮮やかな橙がそう思わせるのか、洒落た珈琲ショップの屋根を照らす陽光の煌めきがそう見せるのか。憧憬が膨らむにつれて頭の中に棲みついた危惧感は削がれてゆく。

新緑の青々とした涼やかな空気で肺を充たせるアジトは好きだ。少し長い階段を抑揚とテンポを付けて上る余裕だって常に有る。温もりの染み込んだ屋敷の佇まいが、好きだ。けれど街中だって大変に好ましい。天然物の緑の天幕と麗らかな陽の光は比べられる筈も無い、斜陽には独自の魅力が有るし木洩れ日だってまた然り。


「ねえ、γ。さっきの通りに出ていた露店の果物はとても美味しそうだったわ、今度皆でオレンジのタルトを作って食べましょう」
「シャリマティーを添えて、か?」


ハンドルを握るγの瞳が車の屋根に程近い場所に在る小さな鏡に映り込む。顔を其方に向けて鏡像に目配せをすると、実像である運転手はくつりと喉奥を鳴らして含み笑いを返してきた。

市場が次第に遠ざかり、露店の代わりに味気無い様相のビルが建ち並び、走り回る子供達は失せて大人ばかりがせかせかと道を急ぐ。排気ガスが濃くなったように思えるのは恐らく錯覚、同時に少しだけ現実。
つい数分前に自ら紡いだ未来の予定が早々に危うさを孕み始めた。数十分後には訪れているだろうジェッソファミリー本部内で、果たしてこの唇は二度笑う事が出来るのだろうか。あなたの名を祝詞の響きで以て語る事が許されるのだろうか。

陽の光のきらびやかさは其の彩度と程度を保って燦然と在るにも関わらず、鎮んだ筈の寒気は素知らぬ体で背骨の中を這い上がり始める。削いだ危機感が再生する。

舌は、オレンジの酸味を覚えている。
瑞々しい果肉の甘やかさが恋しい。
現在進行形で酸素を吸い込む唇は如何だ。
嗚呼我等が母屋、嘗て母が横たわっていた広い寝台が遠ざかる。


「姫、」
「なあにγ」
「ジェッソとの会談が終わったら、何か旨いものでも食いに行かねぇか。ついでに果物も買えば良い」
「じゃあお前の注文はミネラルウォーターに決定だな。飲酒運転はマズいだろ?」
「冷てぇなニゲラ、其処は運転の交代を申し出るべき所だぜ」


軽やかな笑い声が耳朶を撫でる。是とも否とも応えられずに居る間にもビルの群れが視界の外へと弾かれて、鏡の中ではγの瞳がゆるりと細くなった。
一様に穏やかさを帯びた声色達が、四角い車の中を泡沫仕様の安寧で満たしてゆく。やがてブレーキを掛けてタイヤが止まった時にも皆がこんな心地で居られたのならどれだけ至福な事だろうか。

「良いですね、そうしましょう」。頭の真ん中で構成した返答は舌に乗った途端に溶けた。唇は二酸化炭素を生む。
育んだ覚悟が静かに息づいて、もう情動に任せた瞬きなど出来やしない。

ただ脳が命ずる儘に、
呼吸を繰り返す。黎明の匂いを忘れないように。
瞬きを繰り返す。夜明けの色を、陽に透ける金色の髪の細さを覚え込むように。
身動ぎをして、居住まいを正すのだ。模型じみた街を眺める事は止める。軽やかな笑い声が鼓膜を擽った。

前方には赤信号。振り向いた端正な顔が笑う。


「全く、うちのファミリーはお優しい奴らばっかりだ。なあ、姫?」


花が、視える、のだ。サルビアよりも余程雄々しく悩ましげに花弁を広げた花が。何方か彼の花の名を存じ上げてはいませんか、わたしというレジスタンスの喉を塞ぐであろう鬱ぐのだろう彼の花、の。白旗を咥えた舌を刈り取る花の馨りがあなたの掌から武器を奪う。だからどうか、どうか、明日から綴られる史実は平穏に彩られていますように。


「ええ。だからわたしは、皆が大好きです」






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