彼女が髪を切り落としたのは何時が最初の事だったろう。繰り返し繰り返し、其の黒々とした繊維のような細胞の一種は切り落とされる。数センチから数ミリだけ不要とされた何かは床に臥して、美容師の持つ掃除用具に拐われて、屑になる。たった今迄、彼女を形作る一部であったのに。
肩に触れてしまう毛先は不要物。彼女の髪が長かったのは何時が最期の事だったろう。屑に成ってしまった彼女の残骸の思ひ出を語れない俺はもしや薄情者か。

昔はそう、少し癖が掛かっていたのだ。緩く曲線を描く毛先は驚く程滑らかで、何度と無く無造作に扱っても指先に絡み付いたりはしなかった。
寝癖では無いと知りながら敢えて揶揄すれば『ハルの髪はちょっとだけ癖が有るんです!女の子の髪をからかってると、いつか痛い目見ますからね!』とまくし立てるのが彼女だった。根拠の無い事柄を滑舌良く言ってのけるのが三浦ハルという名の女だった。
高い位置で結われた髪の揺れる様は、よく笑いよく泣いてよく喋る女子中学生に似合っていた。


「隼人さん、何やってるんですか!京子ちゃんも山本さんも、皆待ってますよ」
「…おう」


ならばショートボブの髪が揺れる様はよく笑いよく泣いてよく喋りよく世話を焼いてよく溜め息をつく(だが思い返せばこいつは十代目や山本に対しては溜め息を吐かないし、吐息もどきの物さえ散布しようとはしていなかった)二十三歳の女に似合っていないのかと言えば、何もそういう訳では無い。そもそもそんな極論に達する程巷の女を観察したりもしていない。

煙草の火種を携帯灰皿に押し付け揉み消して、少しの煙臭さを纏ったネクタイを締め直す。タイピンを止める頃には恋人たる女が醸し出す雰囲気がヒールの先をカツカツと鳴らし始めそうな程に焦れていた。
護身用の自動式拳銃を引き出しから取り出そうとすると其の前に腕が横へ引かれ、存外強い加減で加えられた力に負けた。脚が戸棚から遠退く。


「おい、」
「立食パーティにそんな物必要ありません!人を待たせてるって言うのに何で隼人さんはそうなんですか」
「内輪の席で匣使う訳にいかねーからだろうが。十代目に何かあったらどうすんだ」
「同盟ファミリーが集まる場で一体何があるって言うんですかー!」


カツカツカツカツカツカツ、ヒールが鳴く。脚が扉から遠退く。あんなにも細い踵部分のパーツに体重を乗せて、こんなにも淀み無くふらつく事も無く廊下を進む事が出来るのは彼女が過去に新体操で運動神経を培ったからなのか、其れとも世の女性が揃いも揃って大変器用なのか。

ドレスの裾がひらりと翻って、アンクレットが巻かれた踝が露になって、髪がはらりと翻って、項が露になって。


「………、 あ」
「何ですか、銃も煙草も取りに行かせませんよ」
「あー、いや、…なあハル」
「何ですか」
「お前、髪切ったか?」
「…切りましたよ?昨日美容院行きましたから」


怪訝そうに持ち上がる柳眉。ああ、嗚呼、そうだ。俺はこの表情を知っている。俺は彼女の髪の命日を知っている。覚えている、思ひ出を。

数年前の春の日に同じ質問をした。『お前、髪切ったのか?』
彼女は答えた。『切りましたよ?…変、ですか?』
俺は答えた。『んな事ねえよ。良いんじゃねーの』
彼女は片眉を持ち上げた。『何ですか、その適当な返事。ショートも似合うんじゃないかって言ったの獄寺さんなのに』
俺は肩を竦めた。『だから言ってんだろ、良いって。似合ってると思うぜ』

歯が浮く程では無いにしろ、俺が自ら舌に乗せるには些か素直が過ぎる感想に彼女は笑っていた。笑っていた。今はもう屑と化しているだろう自分の一部だった髪を美容院の椅子の周りに置き去りにして。

彼女が髪を切り落としたのは春の暖かな午後が最初で、彼女が長髪であったのは春の暖かな昼頃が最期だ。彼女の髪を葬ったのは俺か、それとも美容師か、或いは鋏か。
何と無く言葉にした見解を大元にして己の一部分に然様為らを言える程に、彼女は髪への拘りが薄かっただろうか。女の髪を揶揄うと何時か痛い目を見ると、そう言っていた、のに。悪戯に髪を弄ると怒っていたのに。

嗚呼、ああ、そういえば。怒られて、まくし立てられる中で、伸ばした手を払い退けられた事は一度として無かった。そうだ、無かったのだ。


「……なあ」
「もう、何なんですかさっきから?今日の隼人さんちょっと変ですよ」
「今度、俺がオフん時にどっか行くか」
「…………はひ、?」


偶には荷物持ちになる決意と品物選びに長々待たされる覚悟を持って、愛しい女の買い物にとことん付き合って、ショートボブに似合うアクセサリーの一つや二つ買ってやるべきなのかもしれない。
でなければ、数年に渡り自分の一部を切り落として俺が良いと呟いた髪型を維持し続けてきた彼女に釣り合わないような気がした。





‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

(title:濁声)


「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -