目を疑う、或いは耳を疑うと云う形容詞は割と聞く言葉ではあるし、言いたい事はまあ解る。 けれども今現在、出来る事なら耳といった大まかな部位では無く鼓膜の一点に対象を絞った上で、果たして其の機能が正常な形に在るのか如何か検証してみたくなる位に僕は"耳を疑った"。 かつては大人達の狭間で暇を持て余していた利口な少女が自らの唇から投下した爆弾発言に、思わず両の瞼を降ろして膝に頬杖をつく。 今時キスをしたら赤子が産まれ落ちるのだと本気で信じる子供もそう居ないだろうが、女が自分自身の胎内で次世代の仔らを慈しむのだと知る子供は更に居ない。 「えーと……ブルーベル、誰かに何か言われたのかい?」 「違うわ、これはわたしのホントの本気の決意表明!わたしがびゃくらんの子供を産んで、すっごく強い子にしてあげる!」 声高らかに繰り返された宣誓文句は音の反響と一緒に僕の頭痛まで喚んできた。ああ、もしかしたら昨日の酒が原因だろうか。だけれど未だ酒気が髪や唇に纏わりついているなら目の前の少女は不服そうに眉尻を吊り上げる筈だ。 小さな口が暢気に綻んでいる以上、このささやかな頭痛が二日酔いに因るものである可能性は排除される。 いっそ頭痛を理由に夢路へ旅立ってしまおうか、なんて、丸い大きな瞳が此方に熱い視線を注いでいる限り叶わない小旅行プランなのだけど。 「あのね、ブルーベル。今の君に子供を産む事は難しいし、仮に問題が無くても僕はあまり子供は欲しくないんだ」 「ニュ、……どうして?何でブルーベルじゃ無理なの?何でびゃくらんは子供が要らないの?二人で一つになれるのに」 一心同体ならぬ二人同体との発言に首を傾げそうになる。実際に怪訝を露にする事は防いだものの、心中では思いきり首を捻ってしまった。 世の夫婦がよく言う「愛の結晶」なる言い回しに何か感銘でも受けたのだとしたら其の感受性は幼い彼女ならではのものだと微笑ましい位の気持ちで頭を撫でてやれるが、見上げてくる瞳の中にそんなお綺麗な色は無い。 さてどうしたものか。 年端もいかないこの娘にコウノトリ説は通用しそうにない、古き良き誤魔化し話は寧ろデイジーの方が信じるかもしれない。 二つ目の質問についても、自分の遺伝子が他者の物と融合して別個体に変貌する事象への純然たる嫌悪感を話して聞かせるのは些か趣味が悪いと言える。 「僕は僕で在りたいし、誰かのものに成りたくないからかな」 「だから子供は要らなくて、一つにもなりたくないの?」 「そう」 「ブルーベルが産むのは嫌?」 「いいや。ただ自分の子供は要らないだけだよ」 「…お願いしても駄目?」 「うん。ごめんね?」 瞳を細めて笑みを向けると、小さな頬が内側に空気を取り込んで風船のように膨れた。「レディがおねだりしてるのに、びゃくらんのケチ」との小言も寄越される。 どうやら彼女にとっての本気は三分足らずで潰える決心をも指すらしい。 暫く栗鼠か何かのように頬を膨らませていた少女の身体がくるりと反転し、コートの裾から伸びる裸足の爪先が扉を目指して歩き出す。 恐らくは、一番愛想良く会話に応じてくれる桔梗に今しがたのやり取りと其れに対する自分の意見や不満や自賛などを並べ立てに行くのだろう。 遠ざかってゆく小さな背中を視線で追っていると、不意に丸い瞳がくるりと此方に振り返った。 「将来ブルーベルがびっくりする位の美人になった時後悔しても遅いんだからね!口説かれてなんかあげないわよ!」 「ん、どうなるか楽しみにしてるよ」 遠目にもまだ膨れているように見える顔が、やはりくるりと扉の方に向き直る。 剥き出しの肌と固い床が触れ合う微かな足音は扉が閉じると同時に耳に届かなくなった。桔梗を探しているのか、気配は徐々に遠退いて行く。 いつの間にか痛まなくなっていたこめかみを一度指先で押さえて、それからゆっくりと溜め息を零した。 「随分と不埒なお強請りもあったものだなぁ…あれ位の年の頃、僕は銃の重さも知らなかったのに。女の子って凄いや」 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 「ルージュは要らない」に提出 |