「ワインの香りが、しましたよ。そんなに時が巡っていたんですねぇ」


しみじみと呟いた唇は、煙草も葉巻も酒瓶の口も咥えた事など無いのだろう。酸素と水と仄かな花の匂いがする。其れらはあたしには全く馴染みの無いもので、親しみを持つ事も出来なければ寄り添おうという予定も無い。
時間にしておよそ五秒。紅く色付いてもいないのに何故だか綺麗だと言える外観を持った骸ちゃんの唇が僅かに開き、其の端っこが音も無く持ち上がって穏やかさを孕む様子をじっと眺めていた。やる事ならば沢山有る筈なのに。
気に入りのシルバーリングを磨いたり、楽しみに取っておいたクランベリーと苺のムースを冷蔵庫から取り出したり、それから、それから………。

骸ちゃんはもうAランクの石が嵌め込まれた指輪を嵌めていない。真実守護者の台座に立って、堂々とヘルリングを付けていられるから。安定した供給と絶え間無い需要。渇望。どちらが飢えているのだろう。少なくともあたしは知らない。
其処は骸ちゃんの領域で、あたしは他人の内蔵を一から完璧に作る事の心境なんて理解出来はしない。
ださいったら無いわね。
( 誰が? )
骸ちゃんは、夢を観ているようにクロームの気配を語る。吐いた息がぼとりと絨毯に落ちて、溶けて、その儘スイートピーでも生えてきそうだ。葉はきっと赤い。だけど恐らく自生はせずに、泣くように恨むように慈しむように項垂れて枯れゆくのだ。あたしの胸の真ん中に居座るモノのように。

淹れた紅茶は既に冷えた。
どちらかで言えば、酷く情けない話だが、あたしの睫毛を冷やすのは疎外感だった。契約の糸で結ばれた繋がりは骸ちゃんと某小娘の関係と似ているけれど、あたしと骸ちゃんの間で揺れる糸は金が化けたものなのだから。
そして互いを繋ぐもう一本の糸は単なる電波だ。携帯電話から発せられる不可視の其れは頼りない。
有事に呼ばれて、自分の立ち位置にヒールで立って。そうして生きる為の呼吸をして満足を覚えていた十代のあたしは子供だったし、幼さは削げていたし、酒の味は識らなかった。そして敢えて日頃は彼らの視界から消え、しかし連絡を受けたならば参じる事で、頼られているという実感と優越感を得ていた。

今も携帯電話は鳴る。骸ちゃんからの着信音だけがオルゴールのメロディだなんて事、勿論骸ちゃん本人は知る訳が無い。だけど少し前まで、大概の場合はフランが幻覚となり現れて伝達を寄越してきていた。
「外側の世界に現出するだけでも、師匠にはそれなりの負担が掛かるんですよー」と言うものだから、媒体に埋もれたメロディを辿る事も何だか憚られて。
時折受信する千種からのメールも、あたしを呼ぶものではなく、現地での情報収集や必要な物の調達を頼む内容だった。其れをどうしても薄っぺらいとしか思えないあたしは、未だに他人の鼓動を強制的に停止させる事に怯えるあの小娘に対する嫌悪感が一層募ってゆく。


「…ワインが飲みたいの?」
「いえ、今はこれで充分です」


喉を通る微温さが苦い。現在に帰ってきた思考はやはり隻眼を忌々しいものと認識する。ただ泣いて陶酔して自己犠牲を掲げて骸ちゃんの脚に縋る女なら、あたしが代わりに蹴飛ばしたのに。
今のあたしの喉が生む声はきっと何より薄っぺらい。分かってた。最初に金を糸に変えたのはあたしだもの。


「僕の出所に浮き立つあまりボトルを開けてしまったのはあの子ですから。どうやら酒には弱いようですが、今ぐらい慣れない苦味に浸らせてやっても良いでしょう」


そう言ってお湯の入ったポットを傾ける骸ちゃんの、生身の右手。新しく淹れられた紅茶が誰の喉を通る為のものかなんて、言われなくても解っている。

あたし、昔のあなたが浮かべる微笑の方が好きだったわ。……なんてね。






‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

一周年ありがとう企画/木綿さまへ
(title:Que sera sera)

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -