俺なしで成立する世界が其処にはあった。
 俺さえおらへんかったら、きっと何の滞りもないだろう、場所。


「おとうさん、見て!わたしがかいたの!おとうさんにあげる!」
「ああ、ありがとう。アキラは字が上手だねえ」
「お手紙なんてすごいわ、アキラ。もういっぱい言葉を覚えてるのね」


 笑う母親。その傍に寄り添い、愛おしげに紙を眺める男。撫でる手に喜色満面の笑みを浮かべる、妹。
 家族の理想像。幸せな、幸せな。
 そこだけで完成されとる、世界。


「あ、おにいちゃん!」


 妹がこちらに気づいて笑った。
 その声を追って、男が、母親が視線を寄越してくる。俺はただ曖昧に笑って、すっと目を逸らした。
 顔を見るのが嫌やったから。


「ねえ、おにいちゃん、今日は遊んでくれるの?」
「ああ、ごめんなぁ。学校の宿題やらなあかんから、また今度な」
「そっか……」
「ほら、お父さんが遊んであげるから。お兄ちゃんを困らせちゃいけないよ」


(わからんとでも思っとるんか)

 明らかに温度の変わった声音。団欒を邪魔されて気分を害したとでも言いたげな。
 指摘するのも謝るのも阿呆らしい。面倒は嫌いやったから気づかんフリして適当に手を振り、扉を閉める。向こうでおべんきょうがんばってね、幼い声が無邪気に言った。
 結局母親の言葉はなかった。



 電気をつける気にもならず、暗いままの自室のベッドに寝転ぶ。
 夜が好きやった。自分が隠れるから。けど、だから嫌いやった。消しきれない自分を思い知るから。
 ベッド下の引き出し、カッターを取り出して自分の手首に重ねる。
 ざくり。
 鈍い痛みと頭に湧いとった熱が放出される感覚。それに少しだけ、安心しとる自分が気持ち悪い。

(何で俺は此処におるんやろか)

 最初からおらんかったら。この静かで暖かい家庭が邪魔されることはないのに。
 存在する限り、干渉や影響は避けられへん。存在せえへんのが最高の状態なんやから俺の干渉は悪影響にしかならん。
 邪魔でしかないとわかっとるのに、無様にしがみついとる自分が滑稽で仕方なかった。

(母さん、)

(あんたは、どうなん?)

 ざく、り。
 薄く笑って、カッターを滑らせる。一筋血が腕を流れて、床にぽたり、染みを作った。
 顔を見るのが嫌なんは、決定打を打たれるのが怖いから。本当は嫌になるぐらいわかっとって、けど知らんフリをしとる。そんだけ。
 唯一の俺の純粋な血縁。繋がりのある、人間。
 そこがただ一つ、勘違いをできる場所。


(まだ、俺は、)


 ざくり。
 自分を殺す夢を見ながら、今も必要性を探しとる。
 思い知るまで。