望んだ筈だった。
 自分で選んだ、筈だったのだ。



「話にならないね。やり直し」

 目の前でレポートを破かれるなんて、いつものこと。
 後ろから嫌みったらしい笑い声が聞こえてくるのも、あれでもあのオーキド博士の孫か、なんて言葉を掛けられるのも。
 反論すれば何倍にもされて返ってくると、身をもって知っていたから頭を下げる。すみません、もう一度やらせて下さい。しおらしく言えば、睨みつけていた大人は鼻を鳴らして去っていく。
 毎日、繰り返し。



「ただいま、ブラッキー」

 ふらつく足で与えられた個室に戻れば、ボールから出してあるブラッキーが出迎えてくれる。心配そうにすり寄ってくるブラッキーを撫でて、彼の夕飯を用意する時が、一日の中で数少ない気の休まる時間。

 ポケモンは、好きだった。
 人間にはない力を持ち、日々を強く生きるもの。愛情をかければ同じだけ、否、それ以上を返してくれるもの。言葉なんてなくてもポケモンが人と心を繋ぐさまを、何度も見てきた。
 だから知りたくて、近づきたくて、シゲルは研究者の道を選んだ。
 未熟な自覚はあったし、祖父の七光りだなんて言われる予想もついていたから人一倍努力した。何より、オーキドの孫としてではなく一研究者として認められたかった。

 その結果がこれか、と自嘲する。
 同僚の中に、シゲルを認める者は1人もいない。無視されるか、研究の邪魔をされるか、酷い時には資料やレポートを盗まれるか。
 唯一、研究チームのトップのナナカマド博士だけはシゲルを認めてくれている。しかし幾度となく押しつけられた「オーキド博士の孫」というレッテルが、彼の評価を疑わせる。
 それも、自分がオーキドの名を持つからではないのか、と。
 酷い被害妄想だと、笑ってしまいたかった。



 最近は気分が悪く殆ど食事をとっていなかったので、サプリメントで栄養だけは摂取する。
 ダメ出しとやり直しの繰り返しで睡眠時間が削れ、目眩と吐き気は酷くなる一方。精神的にも不安定になり、処方される薬の数は日に日に増えていた。
 自分はこんなにも弱かっただろうか。こんなものが、望んだ未来だったのか。
 何錠もの薬を飲み下しながら、毎日そんなことを考える。



 久々に部屋の電話が鳴ったのは、レポートを作り直していた時。
 前に提出した書類にまた文句をつけられでもするのかと、暗い気持ちで受話器を取る、と。

『シゲルっ!』

 耳に馴染んだ、しかしひどく懐かしい声。少し幼くて、やさしくて、とてもとてもいとおしい、それは。

「サト、シ……?」

 知らず、声が震えた。
 ずっと会いたいと、心の支えにしてきた彼が受話器の向こうにいる。それだけで。
 視界が歪むほど、安堵する自分がいた。

『シゲル?どうしたんだ?』

 声音で何かを察したらしいサトシに、何でもないよと返しながら、頬を伝う涙を拭う。夢に向かって走り続ける彼に、心配させて足を引っ張りたくはなかった。
 シゲルを当たり前のように『シゲル』として扱ってくれるサトシ。それが嬉しくてたまらなくて、久し振りに笑顔が零れる。

「そっちの調子はどうだい?ちゃんとやってる?」
『もちろん!ジムバッジ集めも順調だぜ!!』
「はは、そっか。よかった」

 相変わらずの元気な声は、目指す道を確かに進んでいることが窺えた。
 新しくゲットしたポケモンや、バトルしたトレーナー、新しい街。楽しそうに話すサトシの声を聞くたび、温かさとともに眩しさと、寂しさを覚える。
 こんなにも、自分とサトシの距離は遠いのだと。



『なあなあ、シゲルは?』
「……え?」
『シゲルの研究!お前のことだから、きっと博士に負けないぐらい頑張ってるんだろうなあ』

 信頼しきった声で言われて、喉が凍りつく。
 一番、聞かれたくないことだった。こんなにぼろぼろで、何も結果など残せていない自分。知られて、サトシに失望されることを想像するだけで恐ろしかった。
 目の前がちかちかとして、受話器を持つ手は震える。

『シゲル?』
「ごめん、サトシ、そろそろ研究に戻らなきゃ」
『え……』

 卑怯さに吐き気がする。醜い部分を知られたくないと、誤魔化す自分が浅ましくて仕方なく、ひどく気持ち悪かった。自己嫌悪が腹の中を渦巻いて、吐いてしまいそうになる。
 悟られまいと声だけは平静を装って、再び乾いた口を開いた。

「今日は楽しかった。ありがとう」
『な、なあシゲル、なんかお前……』
「僕も君に負けないように頑張るから。それじゃあまたこ」

 がしゃん、と受話器が落ちた。
 手に力が入らなくなったのだと気づくより早く、視界がぐらり、歪む。
 何が起きているのかわからなかった。体は全く言うことを聞かず、足が力を失うとすぐに崩れ落ちた。

『シゲル!!シゲルッ!?』

 慌てたようなサトシの声が、だらりと下がった受話器から発される。
 返事を返さなければ。心配されてしまう。そう思うのに、指は微かに震えるだけで。
 ブラッキーの駆け寄ってくる足音を遠くに聞きながら、意識がだんだんと闇に呑まれていくのを感じる。
 耐えきれず目を閉じれば、一瞬だけあの太陽のような笑顔が見えた気がした。



(ああ、なんて、きみはとおいのだろう)