遠くに蝉の声が聴こえ始める、初夏の頃だった。
 普段と同じように購買部で昼食争奪戦に参戦して戦利品を獲得し、志摩や子猫丸と校庭の空いているスペースを探し始めた頃、勝呂は偶然見慣れた後ろ姿を目にした。日差しを遮る木のすぐそば、弟に比べて若干跳ねの強い黒髪、細身の腕、背に負った長い赤の袋。あの刀えらい目立つな、なんてことを思いつつ、その傍に誰の姿もないのが気になって視線をそちらに送っていると、それを追ったらしい二人があ、と声を上げた。

「奥村くんやん」
「ほんまや、こっちで会うのは珍しいですねぇ」

 立ち止まった勝呂達の傍を笑い声が過ぎてゆく。木陰で談笑しながら食事を取ったりおふざけ程度のテニスをしたりと楽しげな雰囲気の中で、一人ぽつんと弁当を抱えてその光景をぼんやりと眺めている燐の姿は少し異質だった。伏せがちの青はやけにぬるい温度を孕んでいて、それがあまりにも塾での姿とかけ離れているものだから、僅か心が騒ぐ。
 その手にある箸は弁当箱の端のハンバーグを掴んだまま一向に動く気配がない。勝呂は周りに座れそうなスペースがないことを確認すると、購買部の袋を握り締めて一つ息を吐いた。

「坊?」

 子猫丸が後ろで呼ぶ声がする。振り返ることはせずどすどすと近づくと、まだこちらに気付いていない燐の前ににゅっと袋を突き出した。冷めた瞳がぱち、と瞬いて、普段の温度を取り戻すとこちらを向いた。すぐろ、少し舌ったらずな声が勝呂を呼ぶ。その顔が勝呂の知っている間の抜けたものだったからどこか安堵して、そのまま何も言わず横に腰を下ろした。
 傍で見ると、弁当箱の中身はほとんど減っていなかった。丁寧に詰められたおかずは栄養バランスも彩りも絶妙のバランスで、これも万能な彼の弟が作ったのだろうかと変なところに思考を飛ばした。後ろから2人分の足音が追いかけてくる。

「場所空いてへんのや。横ええやろ」
「お、おう、いいけど」

 戸惑ったように首を傾げる燐の横、意図を察したらしい志摩と子猫丸が同じように座る。坊も人がええなあ、なんて志摩がにやつきながら囁いてきたので無言で頭を叩き倒しておいた。抗議の声は聞こえないふりをして焼きそばパンの袋を開ける。思い出したように燐が箸を動かし始めた。

「奥村先生は一緒やないんですか?」
「んーと、塾のプリント作るからってパソコン室行っちまった。いつもは一緒に食ってんだけどなぁ」
「なるほど。あの人も忙しい人やねぇ」

 どうやらいつも一人で食べているわけではないらしい、と勝呂は密かに息をついた。よくよく考えてみれば、どうも過保護のきらいがあるかの弟が燐を放置するわけがない。余計な心配だったかと安堵しながら、変わらず賑やかな生徒たちの声をBGMにして食事を進めた。

 勝呂が手持ちの昼飯を完食し一息ついた頃、まだ食べ終えていないのは燐だけだった。常に三人でいる勝呂達と違い燐は会話をしながら食べる、ということに慣れていないようで、人の話を聞いたり喋ったりする時はついつい箸が止まってしまっていたのだった。志摩と子猫丸が京都の実家の話題に花を咲かせている傍ら、残った野菜やら肉やらをちまちまと食べているのをなんとなしに見やる。弁当の中身は本当にどれもそこらのレストランでお目にかけてもおかしくないような出来のものばかりで、多少物足りなさを感じていた腹にそれなりの刺激を与えてくる。

「奥村」
「ふあ?」
「それ、一口くれや」

 指差したのは、綺麗な山吹色をした玉子焼き。実家の料理を彷彿とさせるふわりとした見た目は特に勝呂の目を引いた。しかし言ってからきょとんと目を丸くした燐の顔を見て、いくらなんでも図々しかったかと思い至る。取り消そうかと悩み始めた頃、ぽかんとしていた燐がようやく動いた。自分の弁当と勝呂の顔を交互に見て、それからはし、と玉子焼きを一つ箸で掴む。
 それから、それをそのまま勝呂の方に向けて。

「じゃ、ほら、口開けろ」

 横で志摩が盛大に噴き出した。

「お、男同士で何してんねや!サムいわ!」
「えっ俺なんか間違った!?」
「いや、あ、ある意味間違ってへんから奥村くん、続行で……ぶふっ」
「お前はええ加減笑うん止めぇ!」

 ツボに入ったのか爆笑している志摩を叩き倒す。心底呆れた顔をしている子猫丸を横目に、勝呂は燐の傍にあった弁当箱の蓋を取って突き出した。またも意味を取り損ねたのか燐は首を傾げていたが、箸を指差せばようやく意図を理解したらしく、ああとかおおとか変な感嘆をもらしながらそこに玉子焼きを置いた。これ一つでえらい騒ぎである。
 相変わらずの世間からのずれっぷりにいっそ心配な気持ちが湧き上がるのを感じつつ、もらったそれを口に放り込む。咀嚼すると程よいだしの甘さが咥内に広がった。

「ん……美味いわ。ありがとぉな」
「へ……お、おう!」

 驚いたような顔からだんだんと喜色が混じり、そして次第に照れた上擦りが重なる。燐の感情表現はとても豊かだ。たった一言の礼に対していささか大げさな気はしたが、見ていて飽きないから口を閉じた。何よりその表情からあの奇妙なぬるさが消えて、今笑っている事実に安心を覚えていた。
 感じる理由はまだ、気付いていなかったのだけれど。





(そういえばあれは、奥村が作ったもんやったんか)

 いつかの昼を回想しながら、勝呂は購買部で受け取った袋の中を覗き込んだ。今日の昼飯は焼きそばパンとサンドイッチ。偶然にもあの日と同じメニューである。林間合宿でのカレーの味を思い出して、今更ながらに気付いた事実に妙な納得を覚える。自分の作ったものだからこそ、燐は勝呂の言葉をあれだけ嬉しそうに聞いていたのだろう。
 志摩と子猫丸は普通科の生徒と用事があるのだとかで今日は傍にいない。ぼんやりとあの玉子焼きのだしの味を思い返しつつ、変わらず賑わっている校庭を見遣った。
 と。

(……あれは、)

 あの日と同じ木の陰に、ひそりと。跳ねた黒髪、細い腕、長い赤の袋。変わらず一人でぼんやりと、笑い合う人々を眺める、ぬるい青。
 その意味を、既に勝呂は知っていた。魔神の落胤。力を知らずとも彼は人の中で異質だったのだろうと想像するのは容易だった。事実、勝呂達とてつい最近までは同じように扱っていたのだから。
 一つ息を吐いて、どすどすと大股で歩み寄る。まだ燐は気付かない。手にした箸は動かないまま、弁当箱の中身は減らないまま。その目の前ににゅっと袋を突き出した。ぱち、瞬きと、遅れて見上げる間の抜けた顔。

「すぐろ、」
「……場所空いてへんのや、横ええやろ」

 言ってからまだ辺りをよく見ていなかったことに気づいて内心焦るが、幸い燐はその言い訳にさしたる疑問を抱かなかったらしかった。素直に頷いた頭にほっとしながら横に腰かける。
 今日も弁当は燐の手作りらしい。あまり料理に詳しくない勝呂でも時間をかけたとわかる完成度の高い具材には素直に感嘆した。奥村くんの唯一の生産的な特技です、多少の毒を混ぜた雪男の声を思い出す。

「今日も奥村先生は仕事か」
「ん。そっちこそ、今日は二人ともいねーんだな」

 へらりと笑う、燐の顔にはまだ隠しきれない温度の低さが残っている。燻るものを感じる傍らで、当然だと冷静な頭が嘲笑った。不浄王の一件で距離は縮んだとはいえ、一時期の態度の変化はなかったことにはならない。気にしない振りをしたまま隅のトマトを口に運び始めた燐から目を逸らして、袋を開ける。
 あの日遠くで聴こえていた蝉の音はもうどこかに消えてしまった。代わりに頬を撫でるからりとした風、そろそろ秋が来る。いろいろなものを変えてしまった夏を過ぎて。
 いつかよりも少しだけ空いた間をつい意識してしまって、苦々しさに顔を歪めそうになるのを堪える。煮え切らない自分に苛立つ。割り切ったはずだった、のに。

「……な、なぁ、勝呂」
「……、何や」

 控えめに掛けられた声に振り向けば、どこか迷うような視線と、さまよう箸が視界に入った。挟まれているのは前に勝呂が選んだのと同じ、山吹。そわそわと動くそれは数秒の間を置いて蓋に乗せられて、勝呂の目の前に突き出された。
 燐の顔を見遣れば、不安やら恐怖やらといった怯えの色が半分、照れたような色が半分。俯きがちの頭、黒髪から覗く頬は赤い。

「ひ、ひ」
「……ひ?」
「ひとくちっ、いるか……?」

 まるで悪魔か何かと相対した時のような気迫とともに、蓋がぐっと近づいてくる。異様な状況についていけず一瞬固まるが、燐は至って真剣な表情をしていた。
 つまり、これは、あれだろうか。食べて欲しいと、そういう。ご丁寧に以前と全く同じものを選んで。蓋を掴んでいる指は緊張からか力を入れ過ぎて黄色くなっている。たった、たったこれだけのことで。
 肩から力が抜けていく。同時に思い悩んでいた自分の馬鹿らしさに気付いて、はああ、と少し大げさに息を吐き出した。

「す、勝呂……?」
「……ほんっま、お前は、予想の斜め上を飛んできよるな」

 不安げな表情を浮かべる燐の額を軽く叩く。いて、と小さい悲鳴。構わずそのまま玉子焼きに手を伸ばして摘まむと、ひょいと口に放り込んだ。広がるのは同じ、だしの甘み。
 本当に馬鹿馬鹿しい。変わったと思っていたのは勝呂だけだ。何も変わらない。燐が悪魔であることも、それ以前に勝呂にとって近しい者であることも、燐の料理が自分の好みであることも、何一つ。

「美味いわ、」

 ありがとぉな。面と向かって言えるほど素直な性格ではなかったので、すこし顔を逸らして。けれど燐の反応が気になったからちらりと視線を投げれば、先程以上に赤くなった頬。温度の低かった青は再び透き通って。嬉しそうに、嬉しそうに、頷く。
 少しだけ離れた距離を詰め、傍らに寄り添った。近づいた燐の顔が無邪気にほころぶ。

「な、な、俺も、ひとくち!ひとくち欲しい!」
「ただの購買のパンやぞ」
「いーんだよ!食いてーの!」



(ひとりぼっちの夏を過ぎて、)