前で揺れる骨張った手の体温が不意に恋しくなって、そっと腕を伸ばして握ってみた。力加減が苦手なことは自覚していたから、傷つけないよう細心の注意を払って、ゆっくり。どないしたん、特有の癖のある緩い声が鼓膜を震わせて、見上げればやわらかく笑む色素の薄い瞳。つられて、口元が綻ぶ。
 幼い頃弟とよく遊んでいた修道院近くの小さな公園は元々人気のない場所で、今日は人っ子ひとりいなかった。錆びついたブランコとジャングルジムには子どもの貼ったらしいシールがそこかしこに見えて、シーソーは端がところどころ欠けている。記憶よりも幾分か古くなったように感じるそれらを見渡して、燐は手を繋いだまま傍にあったベンチに向かい腰を下ろした。合わせて志摩が座ると鈍くぎしり、とそこから悲鳴が上がる。狭さから密着する距離に暑苦しいなんてどちらからともなく零して、笑った。
 今日も晴天。遠くで子供の笑い声。

「平和だなー」
「はは、そうやねぇ」

 祓魔塾に入ってから、修道院にいた頃使っていた場所に来るのは初めてだった。雪男とシーソーで遊んだり、ジャングルジムのてっぺんまで登って威張って見せたり、獅郎の手に押されてブランコを漕いだり。周りの人間には怖がられ遠ざけられてはいたけれど、思い返す記憶達は家族のぬくもりに満ちていて、ああ、しあわせだったんだなあと、思う。そして今、傍に燐の素性を知ってなお寄り添ってくれる体があることも、同じに。
 騎士團に悪魔だ兵器だ化け物だとわざわざ罵られたりしなくとも、燐は誰より正しく自分の異端を自覚していたし、その扱いが仕方のないことだと理解していた。だから、それでも変わらず燐を大事だと言ってくれる人の存在が、何よりもうれしかった。いつだって燐の身を案じてくれる雪男や態度を変えないでいてくれた出雲、怖くないと抱きしめてくれたしえみも、他人扱いするなと怒鳴った勝呂も、仲直りを約束してくれた子猫丸も。
 そして、最初に近づいてくれた、隣の彼も。

「なぁ」
「ん?」
「……何で、俺を選んでくれたん?」

 一瞬言っている意味がよくわからなくて目を瞬かせて、それからようやく合点がいって、ああ、と頷いた。確かに燐にとっては祓魔塾の皆も弟も何より大切で、誰が一番だなんて決められない。けれど今日、こうやって隣にいてくれるなら誰がいいかと考えて、浮かんだのは志摩だけだった。
 答えは、簡単。

「志摩なら、いつもみたいに馬鹿な話してさ、一緒に笑ってくれっかなって思って」
「……何それ、」

 俺ただのあほみたいやんか、なんて。
 笑う志摩の表情は優しくて、少しだけ強まった指を握る力がうれしくて、目を閉じた。風が髪をさらっていく。差し込む光の暖かさに、もう一度しあわせだなあ、と思う。こんなに穏やかに、自分を、人を想える日が来るなんて、自分でも正体のわからない力で他人を怯えさせてばかりいたあの頃には想像もできなかった。
 燐を守って死んだ養父の息子であろうと、その思いを無駄にしないためにと必死に前を向いてがむしゃらに走って、たくさん空回って、失敗して。それでもこうして想ってくれる人を、得て。全てが望む形ではきっとなかっただろうけれど、獅郎はきっと笑ってくれるだろう。燐の自慢の父親なのだから。

「奥村くん」
「なんだよ、」

 呼ばれて目を開ければ、伺うような視線と頬に長い指の触れる感触。ゆっくりと引き寄せられて、顔が近づいたと思った瞬間、くちづけ。重なった肉の薄い唇はなんとなく心地がよくて、されるがままに任せた。目を閉じた彼の顔は本人が言うとおりそれなりに整っている、と思った。言わないけれど。
 数秒、触れ合わせただけ。離れた温度は少しさみしかった。でもまだ感触が残っていて、それがいとおしくて、頬が熱くなる。

「しま、」
「……せっかくやから、な?」

 そうやって都合のいい言葉で覆い隠して見ない振りをしてくれる、志摩のそういうところが好きだった。真っ直ぐにぶつかってくる言葉も、優しさを隠した棘も、否定してくれる腕もうれしかったけれど、彼の嘘はいつだって燐を慰めてくれた。それに甘えるのはずるいとわかっていても離れられなかった。だから今日もこうして、わがままを言って。
 くちびるに触れる。志摩が与えてくれた、とくべつ、の好意。本当なら憎まれたって、蔑まれたって、おかしくないのに。悪魔の子、それも魔神の落胤に、こんなやさしさとあたたかさをくれた。
 本当に、しあわせもの、だ。

「ありがとな」

 たくさんの思いを込めて、一言。言えば志摩はやっぱり笑ってくれた。でもいちばん好きなあの緩い笑顔ではなくて、なんだか泣き出しそうな、ちょっと情けない顔をしていた。それがどうしようもなく彼らしくて、燐は笑った。
 絡めた指が離れて、ぎゅう、と抱き寄せられる。遠くの声はとっくにどこかにいってしまった。背中に触れる体温、抱き締める力。向こうで桜の花びらが揺れて散っていくのが見える。きれい、だった。
 志摩がなにかを、つぶやいた気がした。けれどその頭は燐の肩に預けられていたから吸い込まれてきこえなくて、だからわからない言葉の返事に、ごめんな、とだけ。





(あしたあなたはわらってくれるだろうか)




 その先にもう、燐はいないのだけれど。