『う、ウチな、志摩君のこと好きなん』

 どうやら、父親譲りのこの顔は女子の目にはすこぶる良く映るものらしい。異性を意識し始める中学生の頃ともなれば、志摩はこういった直接の告白やらメールやらそれらしいアプローチやら、勝呂や子猫丸にうんざりとした顔をされるぐらいには頂いた。少しでも自分を可愛く見せようと綺麗に整えた髪にごてごてとしたピンやらゴムやらを付けて、どういうところが格好いいだとか好きだとか、自分への称賛を次々に口にする少女達。クラスで見せる表面をなぞったに過ぎないことばかり、そんな理由でよく人を好きになれるものだと思いはするけれど、必死にそう伝える彼女らはその時確かに、志摩をいちばんと、見ていた。
 その日志摩を屋上に呼び出した少女も、そのひとり。普段はグループの隅で周りの会話に合わせて笑っているような、控えめな性格の子だった。短いスカートを緩く掴んで、上目遣いにこちらを見つめながら、震える言葉で同じように気を引く言葉を連ねていく。いつもクラス盛り上げてくれるし、ウチが資料係の時持ってくれたりして優しい、運動神経よくってかっこええ、それから、それから。上滑りの言葉は一つだって心には響かなかったけれど、その視線が他の誰でもなく志摩を見つめている、それが空洞をひとつ、埋めた。
 だから返事は、いつだって同じ。

『俺も、やえ?嬉しいわぁ』

 綻ぶ表情に合わせて笑みを作りその子の名前を囁けば、頬を赤らめて嬉しそうに志摩を見た。これからよろしゅう、なんて言ってさりげなく指を絡めて。触れる細く柔らかい腕が今自分だけに向けられていると思うその時だけは、虚ろな自分を見なくてすんだ。それが楽だったから、女の子と付き合うのが好きだった。
 面倒事は起こしたくなかったから一度に何人も、ということは避けていたが、思い返せばほとんど途切れず、誰かしらとそういった仲になっていたように思う。来るものは拒まず、去る者は追わず。別れればまた空洞は広がるけれど、何週間もしないうちに次が来て、それがまたひとつ、狭めた。そうして繰り返した。
 誰でもよかった。いちばん、であるのならば。



『お前、その癖ええ加減やめぇ』

 例の少女に別れを告げられた後、勝呂が苦々しい顔でそう言ってきたことがあった。確か振られた理由は他の女にもいい顔をしていたから、だったように思う。志摩にしてみればそんなもの、リップサービスに過ぎなかったのだけれど。
 何のことですやろか、普段の軽薄な笑みで答えれば、勝呂は不機嫌そうな顔を更に歪めた。わかっているくせにと言わんばかりの表情。けれど面倒だから、志摩は知らぬふりを通して首を傾げて見せた。耐えかねたのか視線を逸らして、彼は続ける。

『その気もないのに付き合うて、何がしたいん。お前も彼女もええ気持ちせえへんやろが』
『別に?かいらしい女の子と付き合うのは楽しいですし』

 嘘は吐いていなかった。世間一般の言う「楽しい」とは意味合いも価値も違っていることぐらいは知っていたけれど。そんな歪みの一片を言葉の端に感じたのか、勝呂の表情は険しくなるばかりで。他人に対して常に誠実であろうとする彼には自分の行動は全く理解できないようなものに映っているのだろう、彼は次期座主たるに相応しい志の持ち主であるのだから。
 構いはしなかった。元から理解されることなど望んでいない。

『付き合うんなら、ほんまに好きな奴とせえ』
『……、わかってますー』

 そんな言葉を吐く勝呂には、自分の心など絶対にわからないだろうと思った。
 誰かに大切にされれば、誰かを大切にできるのかもしれなかった。誰かのいちばん、であれば、誰かをいちばん、に選べるのかもしれなかった。
 けれど志摩には、物心ついたときから次期座主を優先された志摩には、大切なものなど。背負うものも期待されるものもなく、ただ年齢が同じであるがゆえだけの役割を与えられたこの虚ろを、理解できるだなんて最初から思っていない。
 いちばん、なんて志摩にはなかった。どれもおんなじ。価値の埋没した灰色の世界。
 へらへら笑って取り繕って穴を埋める小賢しい真似ばかり、そうやってずるずると無意味に、生きた。死んだまま、生きていた。






 今日の最後の授業は魔法円・印章術。几帳面にノートを取る勝呂のシャーペンをぼんやりと見つめ、右から左へと講義を聞き流していた志摩は、気付いていたらしい担当講師のシュラの言いつけで用具の片づけをさせていただく羽目となった。突き当たりの倉庫にしまってくるようにと指差されたのは全員分のコンパスと印章術の参考書。優等生の勝呂と子猫丸には早々に見捨てられ、志摩は次から彼女の授業はとりあえず受ける素振りだけでも見せておかなければならないと学習した。
 何往復かでようやく用具を片付け終え、鞄を置きっぱなしにしてある教室への道をぶらぶらと歩く。普段行動を共にする二人はとうに帰ってしまったから急いで帰るほどの用事もない。薄暗く静かな廊下、自分の足音だけがかつん、かつん、反響。時折後ろを通る小鬼の気配に振り返りながら、一一〇六、の扉の取っ手を握る。

「……あ、」

 そこには一人、先客がいた。
 教室の一番奥の一番端、鞄を枕にうつぶせた頭。黒い跳ねっ毛の間から覗く尖った耳。垂れ下がった尻尾はゆらゆらと机の脚の向こうで揺れている。
 奥村燐。魔神の末裔でありながら魔神を倒すことを宿願とする、志摩と同じ候補生のひとり。つい先日不浄王に関わる一連の事件で立場を危うくしたのにも関わらず、こんな場所で一人熟睡している呑気さに苦笑した。肝が据わっているのか楽観的なのか、単に何も考えていないのか。わからへんなぁ、なんて小さく零して、音を立てないよう気を遣いながら近づく。

「……こないなとこで寝とると風邪引くえ」

 囁いても、腕の隙間から見える瞼は震えない。微かに開いたくちびるから漏れる小さな寝息は安らかで、元よりさしてあったわけではなかった起こす気をどんどんと削いでいく。
 志摩はちょうど引きっぱなしだった彼の机の前の椅子に腰かけ、何とはなしにその様子を見つめた。普段はあまり意識しないが、端整な顔立ちの対悪魔薬学講師と双子なだけあって造形は整っていると思う。あれだけ豪快な性格をしているくせ、少し体を縮めて眠る姿はまるで小動物のようで、そのギャップにくすりと笑いが漏れた。

「眠っとると、ほんま普通の男の子、やなぁ」

 それでも、ズボンから覗く黒い尻尾は異端の証だ。離さず背負う彼の剣さえも。
 志摩よりも細い体の内にはおぞましいほどの力を、かつて自分の身内をも焼いた炎を、それゆえの業を負って。それでも燐は、決して下を向かない。いつだって真っ直ぐに人に向かって、誰かを思って、やさしい子ども。そのくせ変なところで不器用で、人に触れるあたたかさに戸惑ったり、近づくことを怖がってみたり、そんな。
 志摩の想像ではきっと及びもつかない悲惨な境遇でも一人立つ強さと、縋ることを知らない奇妙な脆さを併せた不安定さに、揺さぶられた。

『まーお前ってカッコ悪ィもんな』
『お前って……すげぇイイ奴だな!』

 どんな時でも思ったままの言葉を投げつける燐の傍は、不思議と居心地が良かった。繰り返しその恐ろしさを聞かされた魔神の落胤だと知って、関わりを持つのは面倒事が増えるばかりだとわかっていたのに。案の定子猫丸に責められて、それでも離れようとは思わなかった。
 なぜだろう。

「……奥村くん、」

 気まぐれに触れてみた髪は思いのほか触り心地が良かった。丁寧に梳いていると、くすぐったかったのか燐は言葉にならない声を漏らしてむずがるような仕草をする。それが彼の使い魔にそっくりだったものだから、なんだか面白くて。
 凪いでいた筈の心を、穏やかな風が抜けていく。ゆるやかに。ゆるやかに。なんとなく、しばらくこうしていたいなんて気持ち。ほころんだ頬にふと気づいて、そんな自分に戸惑った。今まで一度だってそんな風に感じたことなどなかったのに。目の前にあるものがすべてで、流されるまま生きていた自分が。どうして。


『ウチな、志摩くんのこと好きなん』


(――あ、)

 浮かんだのは、頬を染めながら必死に告白するかつての少女の姿。振り向いてもらおうと言葉を重ねて、志摩の承諾に見せたしあわせそうな笑み。
 あの頃は理解できなかった。誰か一人の傍にいるだけで笑える少女達も。誰か特別な人のために動こうとする勝呂も子猫丸も、家族も。だれひとり。志摩にとってはどれも同じようにしか見えなかったのだから。利害以外で人を選べる意味を、知らないままずっと生きて。
 けれど、今。これは。気持ちよさそうな寝顔を見つめて思うのは。二人きりの教室に浮かぶのは。触れる髪の柔らかさに感じるのは。きっと。



「……ん、ぅ」

 まだ夢を半分引きずったような、あやふやな声が薄く開いた口から漏れる。頭をゆっくりと持ち上げて、燐はぼうっと視線を泳がせた。何秒か遅れて正面の志摩に気付いたようで、焦点をこちらで引き結ぶ。まだ覚めきらないらしい頭がゆらりと揺れた。

「しま……?」
「おー、おはよーさん。よう寝てはったねぇ」

 いつもの軽薄な声音を作りながら、笑みを作ろうと口の端を持ち上げる。ふと、違和感。
 ぼんやりと見上げていた少し間の抜けた燐の表情はだんだんと眠気を削ぎ落として、代わりに驚いたような色に染まっていく。それでも志摩は、動かなかった。


「……どうして、おまえ、泣いてんだ?」



(この子がほしい、なんて)