『ばけものだ!』
『に、にげろぉ!』

 夕日の方、早足に去っていく怯えた背中。雪男はずれてしまったメガネを直すと、汚れたカバンの土を払ってそれを抱きしめた。いつも弟を守ってくれる燐の足はばんそうこうとアザが目立ってひどく痛々しい。遠ざかる足音の方を見つめる燐の、雪男のものより青みの強い瞳。何か口に出すのを堪えるように引き結ばれたくちびるが苦しくて、座り込んだまま燐のズボンの裾をくい、と引いた。
 振り返る。オレンジ色の光を背にした兄の顔は良く見えない。けれど口元が笑みのかたちを作っているのだけは知れた。泥と傷だらけの手を差し伸べて、燐は笑う。

『かえるぞ、ゆき』

 おまえをいじめてたやつ、おれがぜんぶおっぱらってやったから。
 その声音と言葉は、いつだって安心感とぬくもりを与えてくれた。叩かれた痛みも罵られた悲しみもじわりと溶けて、消えてゆくような気がした。自分にないものばかり持っている双子の片割れは、どんな時でも雪男のヒーローだった。
 弟よりも少しだけ大きな手を、ぎゅうっと握り締める。離れないように。すがりつくように。引っ張ってくれる力はとても優しかった。
 だから、





「ゆきお?」

 寝ぼけ半分の声が自分の名を呼ぶのを聞いて、雪男ははっとそちらを振り返った。見ると、恐らく装備の確認をしていた時の音で目を覚ましたのだろう、ベッドに潜っていた燐が目をこすりながら体を起こしていた。雪男に比べて癖の強い黒髪はところどころ跳ねていて、傍らで眠る彼の使い魔とそっくりのシルエットを作っている。しごとか、まだ夢から覚めきらない様子で呟くのを拾い上げて、雪男は銃をホルスターにしまい歩み寄った。
 見上げる表情と仕草は眠気のせいか幾分幼い感じがする。寝間着から覗く首や腕が鍛えた自分のそれより細くなっていたことに気づいたのはいつだったろうか。ずっとあの背に守ってもらってばかりいたのにと小さく苦笑を漏らして、髪を梳いた。子猫のようにむずがる頭をあやしながら腰を落とし、視線を合わせる。

「うん、仕事。帰りは明日になるから、ちゃんと自分で起きてね」
「ん、おう……気ぃつけて、な」

 その時ふと、燐の瞳がゆらり、影を帯びた気がした。
 それは本当にほんの僅かな間で、瞬きをすれば先程までの眠そうな表情を取り戻してしまったのだけれど、雪男はそれが見間違いや気のせいでないことを知っていた。夜遅くに雪男が任務に出る時には、いつも燐は一瞬だけ悲しそうな顔をする。修道院にいた頃は決して家に一人、ということがなかったから、恐らくは家での一人の時間というものに慣れていないのだろう、と思う。燐はあれで案外寂しがりなところがある。
 置いて行くことに僅かな躊躇いを感じながらも、任務を放り出すわけにはいかないと思い直し手を離す。行ってくる、言えば燐はいつもの調子で手を振り、布団の中に再び体を潜らせた。手早く最後の点検を行って漏れがないことを確認すると、雪男は音を立てないよう気を遣いながらドアに鍵を差し込んだ。





 浴びせかけられた聖水に悶えのた打ち回る大型の悪魔の、頭を狙ってトリガーを引く。一発、二発、三発、完全に力をなくし撃たれた反動にしか揺れなくなった体を見届けると、ようやく雪男は息を吐いて武器を下ろした。顔に掛かった悪魔の血液は人間には毒だ。処理しなければと頭では思うが億劫で、聖水をしみ込ませたハンカチで乱雑に拭き取るだけに留めた。
 人払いを済ませた旧街道、割り振られた地域の悪魔は先程滅したので最後だった。耳を澄ませると遠くで金属音や悪魔の唸り声が微かに聴こえるから、他の祓魔師達はまだ交戦中なのだろう。少し休んだら加勢に行くか。思って括り付けた薬瓶の残りを数えようと腰を屈めたその時、聴き慣れた足音が鼓膜を震わせた。

「相変わらず容赦ねーなぁ」
「……いたんですか、貴方」

 仮にも上一級なんだからちゃんと仕事してくださいよ。言えばシュラは気にもかけないというようににゃははと笑った。ふざけているとしか思えない布面積の服を纏い愛刀で肩を叩く彼女の実力は、非常に不本意だが雪男よりも高い。既に悪魔の死骸に埋め尽くされたこんな場所で無駄口を叩いている暇はないはずなのだ。いい加減さに湧き上がる苛立ちをやり過ごそうと努めていると、眉間に皺寄ってんぞ、とにやつかれる。誰のせいだ。

「天才最年少祓魔師は大変だな、上級の出るような任務までこなしちまって」
「割り振られたならやりますよ。仕事ですし」
「早く上に上り詰めなきゃいけないし、か?」

 残りの薬瓶の数を数えていた手を止めて、顔を上げた。シュラは変わらずとぼけた表情で、倒された悪魔の様子を興味もなさそうに眺めている。そうやって何も考えていないような振りをして、その実人を見透かしているところが雪男は苦手だった。もう慣れてしまったからさして動揺することもないのだけれど。

「……ええ、そうですよ。そうしなければ守れませんから」
「守る、ねぇ」

 誰を、など愚問だった。血を分けたたった一人の兄弟。それだけのために、普通の子供なら遊んで暮らすだろう八年間を雪男は悪魔を殺すことに費やしてきたのだから。養父が死ぬ前から、燐が人と関わることを遠ざける前から、ずっと。いつも傷ばかり作ってくる体を守るために知りうる限りの知識を詰め込み手の皮が硬くなるまで敵を撃つ訓練を積み、いつ崩れるともしれない足場を守るために立場と賢しさを得た。けれどまだ足りない。まだ今は、守りきれない。だから、今はそのための。
 胸で鈍く光るバッジを握り締めると、こちらを見ていたシュラがどこか疲れたような調子で溜息をついた。

「……お前の『守る』は、呪いみてーだな」
「は?」

 言われた言葉の意味を図りかねて顔を上げると、厳しい色を孕んだ紫に貫かれる。先程までのふざけた空気は一変し、年長者としての顔がこちらを見上げていた。こういう時の彼女は苦手だ。かつかつと歩み寄る隙のない足音、力あるものの威圧を込めた視線。また、見透かされる。

「お綺麗な言葉で飾っちゃいるが、お前、守りたいだけじゃないだろう」
「何を、」
「守る代わり、救われたいんだろう」

 一瞬湧き上がったのは、その口に銃口を突っ込んで撃ち抜いてやりたいという激しい衝動。すぐに取り戻した理性で、そう思ってしまった自分に驚愕した。わけがわからない。心がやけに波立っている。
 強張った表情を読み取ったのだろう、シュラは再び唇を笑みの形に歪めた。緩いそれではない、ひどく冷めたもの。女特有の柔らかさを持った指が雪男の顎をゆっくりと撫でる、その仕草すらもう不快でしかなくて、そんな感情に戸惑う。ここまでの嫌悪は、何故。
 そんなでまかせ。何を馬鹿なことをと、鼻で笑ってしまえばそれで終わりなのに。

「いつもどこかで燐に縋ってるように見えるんだよ、アタシには」
「違う、僕は兄を守りたくて」
「なら何でお前は燐の心を守らないんだ?」

――――死んでくれ
 突き刺さる。違うと否定しようとする口を心が塞いだ。知らない。雪男はずっと守ろうと銃を握ってきた。守ってきた、はずだ。それを。
 今更になって殺した悪魔が垂らした血の生臭さに気付いて、ひどい気分の悪さに鼻を覆って目を逸らした。兄と同じで全く違うもの、兄を苦しめるものの死の臭い。噎せ返りそうだ。
 燐と似て非なる鋭い光を持つ瞳は、雪男の逃げを許さない。顎を掴んだシュラの指が強引に視線を引き戻す。いつだって一番見たくないものを突き付ける彼女が嫌いだった。

「少しは縛ってることを自覚しろよ。でなきゃ」
「っ黙れ!」

 手がグリップを強く握りしめ、気が付けば銃口を向けていた。ほとんど本能で、黙らせなければ駄目だ、と思った。一瞬だけ目を瞬かせて跳び退った目の前の女は変わらず、挑発的な笑みを浮かべたまま。
 その口が再び音を紡ごうと開きかけた瞬間、雪男は手にした銃の引き金を引いた。高らかな音とともに放たれた銃弾は彼女の心臓ではなく、その後ろの壁を撃ち抜く。僅かな動作だけで自分への攻撃を回避したシュラはそのまま速度を殺さず懐に飛び込み、全く無駄のない動きで武器を払って雪男を素早く押し倒した。叩きつけられた痛みに顔が歪む、その隙を彼女は見逃さない。遠慮なく首に押し付けられた魔剣に呻けば、見下ろす紫苑が笑った。


「お前、いつかあいつを殺すぞ」


 呼吸が止まる。
 本当は。本当は、知っていた。
 逆光に隠れた笑顔、瞳の翳っていたこと。その縁に溜めていた涙。
 浅い眠りを引きずりながらひとときだけ見せる悲しみが、雪男の真意を知っているがゆえのものと。
 けれど雪男は、全て目を塞いだ。そうしなければ。
 耳を覆う。何も聞こえないように。そこに踏み込んでは、いけない。

(そこは、ぼくとにいさん、だけの)





「あんにゃろぉ、女相手に容赦なく殴りやがって」

 シュラは打たれた頬を擦ると、起き上がって視線だけで弾き飛ばされた愛刀を探した。思ったよりも遠くにあるそれを認めて、溜息をつく。どれだけ強い力で叩いたんだ、あの野郎。
 彼女を吹っ飛ばした張本人は既に逃げ去った後、コートの端すら見えない。それだけシュラの発言が地雷であったのだろう。今でこそ隠すことは上手くなったが彼は相当な激情家だ。流石に銃まで向けられたのには驚いたけれど。
 立ち上がり尻の土を叩いて払うと、悪魔の血に浸された魔剣を拾い上げる。どろりとしたそれが滴る中、混じる鮮やかな色は雪男のものだ。傷つくのも厭わず押しのけたのだろう。指でなぞり、あの絶望に似た表情を思い出す。

「あのバカが」

 ―――おれが、雪男を縛っちまってるのかなあ。
 いつだったか夢うつつに、燐が零した言葉。普段は前ばかり見つめているあの子どもは、自分でもさして意識しないうちに鬱屈とした感情を全て押し込めてしまう。時折その箍が外れかけるのが彼が浅い眠りにある時だ。
 その声音には毀れてしまいそうな危うさがあった。悲しみと、寂しさで満ち満ちた、溢れそうな自責。それが必ずしも誤りではないことを知っていたから、シュラは何も優しい言葉を掛けてはやれなかった。
 あの子ども達は近すぎて、どうしようもなく縛られている。こうしてシュラが追い詰めた雪男は、きっとその存在を許してしまう燐にまた救われるのだろう。本人たちすら気づかない、不均衡。

「……救えねぇな、ホントに」


 そしてまた、傾き続ける天秤を見る。