志摩廉造にとって、生きることは惰性だった。
 生まれた時には既に上には兄が四人。一番上はとうに死んでいたけれど、次男の柔造は優秀だった。少々感情に振り回されるきらいがあるが騎士としても詠唱騎士としても才能は申し分なくそのうえ努力家で、高齢となってきた父の八百造の後を継ぐにはさして問題もない。それに例え柔造の身に何かがあったとしても、その下には金造がいる。彼は代わりにすら据える必要もない子どもなのであった。
 もちろん八百造を始めとした家族は彼をそのように扱ったことは一度もなかったし、幼馴染の勝呂や子猫丸も彼をきちんと個人として認めていた。それはわかっている。わかっていても、割り切ることはそれとは別の問題だ。責任とプレッシャーと確たる場所を与えられた二人の近くにいれば、嫌でもその差は目についた。
 例えば明陀の集会が行われる時、鶯の間の扉が再び開くまでぼんやりと読んでいた本の題名だとか。例えば志摩家を継ぐための知識を柔造に与える時の、八百造の厳しい声音だとか。例えば勝呂が寺を復興すると語る時の、周囲の優しい視線だとか。思い出すひとつひとつは他愛ないそれも、十何年と積み重なれば思考を、精神を絡めとる。勝呂や子猫丸とともに過ごした時間は確かに楽しかったけれど、いつだって志摩の心はどこか空疎なところがあった。勝呂のように確固たる目標もなく、子猫丸のように明白な使命感もなく、ただそこに生まれたからそこにあるだけ。流される以外の道を知らず、空っぽな自分を笑顔で隠して嘘で取り繕って建前で覆った。明陀の人間以外には浅く浅く、いい顔を作って楽に生きてきた。

(やって、メンドいの嫌いやし)

 いつだって、上手く生きることだけを考えている。志摩にとっては明陀だって絶対のものではないけれど、そこになら一応居場所はあったから、それだけを守って。それでよかった。よかったはずだ。






「From:奥村燐
 Sub:(non title)
 いまひまか」

 各々の任務に出た勝呂と子猫丸を眠気半分で見送ってから、手持ち無沙汰になり何とはなしに携帯を開くとこんなメールが届いていた。受信時間は数分前。いまひまか。一瞬回文か何かかと思ったが、この味気の皆無な文面は恐らく単なる送信相手のメールスキルの不足のせいだろう。『今、暇か?』書きたかったのだろう内容を頭に浮かべて、今度変換の仕方と記号の付け方教えなあかんなあ、なんてこっそり思いながら返信ボタンを押す。

「To:奥村燐
 Sub:ほいほい
 暇やけどどしたん?合同デートのお誘い?(´∀`*)」

 三十秒足らずで打ち終わり送信。いつもはもう少しいろいろと言葉を盛りこんだり装飾したりするのだが、今回は相手が燐である。あまり長いと読むのに時間がかかるだろうし、そもそもそういった脚色は彼にはうっとうしいだけだということぐらいは把握していた。
 携帯を畳んで布団に寝転がり、今頃一文字一文字苦戦しながら打っているのだろう燐の姿を想像して小さく笑う。暇かと訊いたということは何か用事でもあるのだろう。どうせ今日は一日一人で過ごすつもりで、寝直すか雑誌でも読むかなどと適当なことしか考えていなかったのだ。燐の用事が何であるのかは知らないが、行動がいちいち新鮮で面白い彼と一緒に過ごせるかもしれないというのはなかなかに魅力的だ。ぱか、ぱたん、ぱか、と親指で携帯を開け閉めしながら、画面上のメールマークを待った。

 しかし十分経っても二十分経っても、一向に返信はない。そして三十分、いくら燐が文字が打つのが遅く多少メールに気づくのに遅れたとしてもそろそろ返せている頃だ。まさか自分で問いかけの形のメールを送っておいて携帯を見ていないのだろうか。

(……ありえすぎて嫌やなぁ)

 いかにも携帯不携帯な印象を受ける彼である。メールや着信を確認する癖などまずついていないだろう。微妙に気分が浮上した分期待していた返事が返ってこないと人のテンションというものは元のものより落ちる。ばちん、少し強めに携帯を畳んで部屋の隅に放り投げると、当初の予定のうちの一つを実行すべく目を閉じた。
 ぱたぱたぱた。ドアの向こうで寮生の誰かだろう足音がする。視界を閉ざすと聴覚がやたら過敏になるものだから気になって、ぼやけていた意識が覚醒してしまう。何でこんなときばかり邪魔してくるのか。メンドくさい。
 ばたばたばた。しかも音はだんだんとこちらに近づいてきていた。全速力で走っているような大きなそれに睡眠を妨害されて、さして沸点の低くない志摩も苦情の一つでも言ってやろうかという気になってくる。一時寝ようとする努力を捨てて起き上がり、のそのそと玄関に向かう。するとそのちょうど前で、足音が止んだ。
 ぴんぽんぴんぽんぴんぽんぴんぽんぴんぴんぴんぽーん

「しーまーっ!!」

 真正面で響く、凄まじい連打によるチャイムの音プラスとても聞き慣れた少年の声。
 思わず状況把握を忘れて三秒ほど固まっていると、再びぴんぽんぴんぽんぴんぽん、来訪者の存在を主張しだす。とんだ近所迷惑だ。慌ててロックを外し扉を開けると、その先には予想通りの人物が予想外のものを持って立っていた。

「ハッピーバースデー!!」

 にぱ、と屈託なく笑いながら、燐が押し付けてきたのは紙の板に乗せられた1ホールのショートケーキ。ふんわりとキツネ色に焼けたスポンジの中にホイップクリームと苺が均等に収まっていて、一番上の円の部分にはこれまた綺麗なクリームとチョコレートのデコレーション。まるで買ってきたもののように見えるが、これにかぶせていたと思われる床に転がっている箱は無地のものだし、その横で皺くちゃになっている袋はスーパーのものだ。恐らく燐が作ったものなのだろう。
 受け取ったそれをまじまじと見つめて、それからかけられた言葉を反芻する。ハッピーバースデー。誰が。

「お前今日誕生日なんだろ?この前勝呂に聞いてさ、お前用に作ったんだぜ!」

 言われてやっと、今日の日付を意識する。七月四日。俺か。
 どうやらだいぶ混乱していたらしい。ようやくまともに働き始めた頭で笑みを作る。ありがとなぁ、言えば燐はきょとんとして、それからなぜか不安そうに志摩の瞳を覗き込んできた。澄んだ青が揺らいでいて、柄にもなく動揺する。

「……もしかして、迷惑だったか?ケーキ嫌いとか」
「へ?いやいやそないなことあらへんよ!めっちゃ嬉しいわぁ」
「でも、なんか戸惑ってるみたいだった」

 図星だった。嬉しいという気持ちに決して偽りはないが、戸惑いの方が強い。志摩の家は五男である自分の誕生日など気にかけないし、勝呂や子猫丸は祝う言葉なり何なりをくれはするけれども、それはもはや習慣みたいなもので大した意味を持たず。言われるまでそうだということを忘れていたぐらいには、志摩にとって自分の生まれた日というものはさしたる重要性を持っていなかった。
 だからこうして思い切り祝われると、喜ぶ前に一歩引いてしまう。それでもいつもは反射的に取り繕えるのに、なぜか今回は思い切り失敗してしまった。迷惑だったのかと少し寂しそうな顔をする燐に慌てて、違うんよ、とまくし立てた。

「こないなこと久しぶりやったから慣れてへんくて、びっくりしてもうたやけなんよ。俺のためにここまでしてくれへんでも良かったんに……」
「え、でも誕生日じゃん!こんぐらいするだろ?」

「だって俺、志摩のこと好きだし」

 純粋な好意。見上げる青は絶対に嘘を吐けない。そんな器用な子ではないと、知っている。そして人が思っている以上に人を見ている子だと、知っている。
 ためらいなくまっすぐに、まっすぐに言うのだ。いつかは露骨に自分を避けた人間を。少し距離を戻したというだけで、何もしてやれていないというのに。澄んだ瞳で、淀みなく。

「……ほんまもう、かなわへんなあ……」
「……しま?」
 
 祝われるのに戸惑うのは、祝われるだけの価値がなかったから。でも燐が当たり前みたいに好きだなんて言うものだから、そんなことを考えるのもなんだかあほらしくなって。小難しいことなんて全部投げ出して、差し出された祝福を素直に受け取ればいいのだと。
 そうしてあたたかく、空疎なこころが埋まっていく。

「ありがとぉな、奥村くん」
「おう!」

 もう繕う必要なんてなかった。自然に口元はほころんでいた。
 それを見た燐が、嬉しそうに笑った。



(ああ、そういえば)

 思えば、明陀以外のものを上手くやり過ごしていた志摩が初めてぶつかったのが、奥村燐であった。
 魔神の落胤。立場だけで考えれば間違いなく明陀の敵である彼を、それまでなら遠ざけて知らない振りを決め込んで終わりだったはずが、できなかった。関われば何よりも面倒なことぐらいわかっていて、でも切り捨てようとするたびに出会ってからのわずか三か月が思考を邪魔して。
 強い力を込めたあの青が翳るのは嫌だと思った。あどけなさを残す顔がほころぶのをもう一度見たいと思った。それだけ、たったそれだけで、下手をしたら明陀の者すべてに軽蔑されるかもしれない選択をした。
 流されるばかりの空っぽの自分が、初めて自分で踏み出した一歩。
 手を引いたのは、燐だ。

(かなわへんなあ)

 いつだって虚ろを満たしてくれる。自分の足で立つ力を与えてくれる。
 だから傍が心地よくて、あたたかくて。

「うん、このケーキほんま美味いわ」
「とっ、トーゼンだろ!なんてったって俺が作ったんだからな!」




(その姿を傍らでずっと見ていられたらと)