鼻を突く硝煙の臭い。
 この世のものではありえない類の絶叫。
 肉の塊となったそれが地面に転がり落ちる向こうで、実体を失った悪魔の影が霧散していく。雪男は一歩引いて、既に癖づいた手で銃弾を装填、腰のホルスターに収めた。顔がべたついて何だか気持ち悪い、思って服の袖で頬を拭う。白いラインが赤く染まるのを見て、後で洗えば落ちるだろうか、と場違いな心配。
 誰かが叫んだ。泣き崩れる者もいた。養父が駆け寄って、動かなくなったそれを持ち上げた。ぐらり、その頭が揺れて、こちらを見た。瞳孔の開いた目、空洞。数分前まで雪男を安心させようと穏やかに笑んでいた黒はもう死んでいる。口の端から垂れている血は既に乾きかけていた。爛れた痕を残す腕には力など、欠片もなかった。
 ああ、なんて。見下ろす。見下ろす。

「帰るぞ」

 すぐ傍で声を掛けられて、いつの間にか養父が傍に来ていたことに気づく。背中に置かれた手は鍛えた者の無骨なそれだったけれど、無条件に雪男を守ってくれるのを知っていたから少し落ち着けた。下がった眼鏡を指の腹で直し、頷く動作だけを見せる。空洞は変わらずこちらを見ていたけれど、それからいくらもしないうちに手を引かれて、視界から追い出されてしまった。
 背中にぶつかる嗚咽は止まない。どうして、どうして。渦巻く感情の波がどろどろと零れ出るさまを、酷く冷めた頭で聴いていた。雪男を引っ張る手が微かに震えているのを見ながら、養父も泣いているのだろうかとぼんやり思う。そういえばあれは、獅郎の古くからの知り合いだったと言っていた。
 考えるのは得意であった筈なのに、今だけはそれが億劫で仕方なかった。誰にも聴こえないよう細く細く息を吐き出して、目を閉じる。閉ざされた暗闇に安心を覚え、て。

(兄さんに、会いたい)

 ただそれだけを、繰り返した。





「君が噂の最年少祓魔師か!話は聞いているよ」
「よ、よろしくお願いします」

 祓魔師となってから数か月。ようやく任務にも慣れてきた雪男は、養父である獅郎の付き添いで討伐依頼のある森へとやってきていた。集合地点には既に数人の祓魔師達が集まり、武器や装備の点検を行っているのが見えた。
 獅郎と雪男が到着したのに一番初めに気づいたのは、磨き抜かれた細身の剣を手にした騎士らしき男。こちらに気が付くと厳つい顔を穏やかに緩ませて、やあ、と低く通りの良い声を投げかける。同時に向けられる複数の視線に慌てて頭を下げれば、こいつらは俺の知り合いなんだ、そんな固くなるなよ、と笑みを含んだ声で獅郎が言った。
 簡単な自己紹介を済ませて、差し出された右手を握ろうと視線を滑らせる。鍛え上げられた腕、肘の上には大きく爛れた痕があった。思わず手を止めた雪男に、男が苦笑する。

「あ、……すみません」
「いや、驚いただろう。“青い夜”の時の傷だ。この程度で済んだだけ俺はまだマシだがな」

 改めて握手をすると、男は二の腕を庇うように右手でそこを覆う。青い夜。なんでもないような声音の中、そこだけは隠しきれない感情が混じっていたのを雪男は聞き逃さなかった。どろどろと淀んだ、憎悪。伝染したように沈む周囲の表情を言葉なく見渡していると、こほん、わざとらしい咳の音がそれをかき消した。

「俺とこいつは簡単な説明しか聞いてねぇんだ。任務の詳細を頼む」
「あ、はい!了解しました」

 やけに明るい声を受けて、男達の雰囲気が浮上する。任務内容は森に逃げ隠れた上級悪魔の討伐。他の悪魔に比べて力こそさほど強くないが生命力が高く、支配下にある下級悪魔を大量に呼んで足止めをさせ不意を突くという厄介な性質を持つため、雪男にはこの下級悪魔の駆逐、獅郎には雪男のサポートと上級討伐の援護を頼みたい。そういった内容の話を淡々と告げる男の顔に、先程のような暗さはなかった。

「藤本神父がきちんと守って下さるから、心配は要らない。こちらのことは気にせず、下級悪魔を倒すことに専念してくれ」
「はい、わかりました」

 銃弾のストックは、と訊かれて腰に括り付けたカートリッジを見せると、彼は満足そうに頷いて笑みを見せた。親が子どもに見せるような、人を安心させるそれ。子ども扱いをされるのは本当はあまり好きではないのだけれど、雪男を気遣ってくれていることは純粋にありがたかったので素直に笑顔を返した。

 装備の確認を終えて、一同は森の中へと足を踏み入れる。先頭はあの騎士の男、手騎士、医工騎士と続いて、その後ろに雪男、殿は獅郎。微かな気配も逃さないよう張り詰める空気、息が詰まる。溜まった唾を嚥下して、銃のグリップを握り直した。何せ直接戦わないとはいえ、上級悪魔と相対するのはこれが初めてなのだ。
 知らず強張る肩に、養父の手が触れる。とんとん、その僅かな仕草だけで力の抜ける自分がひどく単純に思えて、雪男は心のうちだけで小さく笑った。

「来たぞ!」

 先頭から鋭い声が飛ぶ。同時に巨大な木の枝らしきものが前方から伸びてきて、反射的に後ろへ飛び退りながらトリガーを引いた。放った弾丸は祓魔師達を絡め取ろうと蠢くそれを吹き飛ばしたが、尋常でない回復力でもってすぐに切り口から新しい枝が生えてくる。じゃきじゃきと、武器を構え直す音が響いた。
 当初の予定通り、雪男と獅郎は本体から離れ湧いてくる下級に銃を向ける。数が多く動きが多少速いだけで、一度撃ち抜いてしまえば再生できない程度の雑魚。聖騎士の元で幼い頃から訓練を積んできた雪男には及ぶはずもない。一匹一匹速く正確に撃ち落としながら、奥で巨大樹に憑いた悪魔と相対する彼らを見遣る。切っても切っても再生する枝に邪魔されながらも、三人は着実にそれを追いつめてきていた。だんだん回復のスピードが遅くなり、枝を振るう勢いが弱まり、そして雪男が十個目のカートリッジを装填する頃、悪魔は大きな音を立てて倒れ、動かなくなった。

「やったか!」
「ああ、終了だ」

 剣を納め、男が一つ息を突く。彼は医工騎士の女性が手騎士の負った傷の手当てを行っているのをちらりと見てから、銃をしまう雪男の方に近づいてきた。怪我をしていないかどうか確かめるように上から下までざっと確認すると、例の人好きのするような笑みを浮かべて右手を伸ばしてくる。わしゃわしゃと優しく、獅郎がしてくるのとは違う撫で方。

「君が雑魚をすぐに片付けてくれたおかげで、こちらに集中できた。流石藤本神父の息子だけあって優秀だな、ありがとう」
「いえ……ありがとう、ございます」

 その言葉に嘘はなかった。妬みのない視線はあまり慣れなくて、月並みな言葉だけを返す。男は気にしないというように笑うと、治療が終わったらしい二人を呼んで撤収を宣言した。頑張ったな、肩を小突く獅郎を見上げて、ようやっと笑みが浮かんだ。

 ずぶり。

 振り返った。笑ったままの男の口から一筋、赤いものが垂れる。その左胸から、鋭利な棘のようなものが生えていた。よく見ると、地面から突き出した木の根が男を貫いているのだった。
 唐突すぎる変化に、横を歩いていた医工騎士と手騎士の二人は固まったままそこを凝視していた。獅郎が一番早く反応し、雪男の手を引いて背に庇った。何も見せないようにとの配慮もあったのだろう、けれどどうしても隠しきれない隙間から、ぼたぼたと広がる血だまりが覗いていた。
 巨大樹の幹が震え、ぞぞぞぞぞ、と引きずられるようにこちらに突進してくる。下に隠されていたらしい木の根が一気に土を突き破って襲いかかってきた。だらりとぶら下がる男の体はそのまま、ないかのようにうねるそれに振り回されている。医工騎士の女性が遅れた絶叫を上げる中、獅郎だけがまともに武器を構え攻撃していた。

「雪男、早く下がれ!そこにいたら庇いきれん!」

 常になく切羽詰まった声。名を呼ばれて、手が腰のホルスターに伸びる。
 気配を感じて咄嗟に左に跳べば、すぐそばを男を串刺しにした根が通り過ぎて行った。引きずられる腕の爛れた痕が視界に入る。青い夜の痕。ふうっと、思考が現実に帰ってくる。
 先程装填したばかりの銃を再び構えた。ぎゃぎゃぎゃ、おぞましい声で哂う悪魔の、幹に照準を合わせる。雪男に気づいたらしいそいつが、盾にするように男を貫いた木の根をこちらに近づけてくる。ぶらり、あの右腕が揺れていた。
指は少しだって震えていなかった。
 そして、





『ゆき、うごかねぇ』

 その手の中には目を閉じ力をなくした黒猫がいた。
 小学校からの帰り道、緩やかな坂道を下って行った先の電柱の横にちょこんと座っているのを見たのが最初。とても人懐こい子で、ただ一度お菓子の残りをあげただけの燐と雪男によく懐いてきた。抱き上げるとあたたかくて、じゃれついて鼻の頭を舐めてくるのがくすぐったくて、かわいくてかわいくて、養父にも内緒で一緒に遊んでいた。
 その日もいつものように坂を下りながら、どっちが先に抱っこするかなんて言い合いをして、けれどお決まりの席だった電柱の横、見下ろせばそこはいつも通りではなかった。

『つめたい、なんで……しっかりしろよ、なあ!』

 何かに轢かれたのだろう、変な方向に曲がった細い体。抱き上げた燐が揺さぶっても声を掛けても、力なく閉じた目は動かない。だらりと垂れたしっぽの先は泥で汚れていた。
 それは既に、燐と雪男がかわいがっていた黒猫とは別のもの。

『……にいさん』
『っ、うそだ、こん、なの』

 死、というものを正しく理解するには雪男達は幼すぎたけれど、もう二度と猫が起きないのだということは何故だかわかっていた。
燐は小さいその亡骸を抱きしめてうつむいた。ぱたぱたと、透明な雫が生気の抜けた頬に落ちた。悲しくて悲しくてたまらないと、うなだれる頭が、震える腕が、伝えていた。
 雪男はそれを、ただ見ていた。ばかに冷静な頭の中を、何か泡立つものが埋めていった。
 夏の暑い日、遠くで蝉の声。しゃくり上げる燐の声と、染みを増やす透明な粒と、汚れてしまった黒猫の死体。埋め尽くされた感情を一つ掬い上げて、雪男の頬に一度だけ、涙が滑り落ちた。





「遅かったな、何かあったのか?時間になっても帰ってこねぇから心配したんだぞ」

 後のことは任せてとにかく休め、と獅郎に背を叩かれて修道院に戻れば、玄関の前に座り込む兄の姿があった。燐は雪男の姿を見るなり駆け寄ってきて、案じるように手を取り握ってくる。雪男よりもよほど冷たいその体温がどれだけの時間待っていたのかを伝えてきて、心が締め付けられる。燐は、やさしい。
 数時間前まで銃を握り締めていた指でその頬を撫でて、それから背中に腕を回して、握られた左手はそのまま、抱き締めた。いつからだったか少し自分より低くなった華奢な肩。一般的な中学生よりも細いその体の中には悪魔が潜んでいるということは、本人すら知らない。悪魔の王たる力を持ち人間よりも純粋な心で家族を愛おしむ、雪男の対、双子の兄。

「ゆ、き?」
「……兄さん」

 燐は、やさしい。
 修道院の誰かが傷つけば一生懸命心配するし、見ず知らずの人間が困っていればすぐ手を差し伸べようとする、人の好意を無下にするようなことは許さない。あの黒猫の時だって、死んだとわかった後はその子の為だけに目を赤く腫らすほどに泣いて、獅郎に打ち明けて墓を作って、ひたすら祈り続けていた。
 忌むべき魔神の血を継いでいながら、その心は誰よりも人間のあたたかみに満ちていた。真実を知りながら限りない愛情をもって接してくれる獅郎と同じに。
 けれどそれなら、悪魔の心はどこに?

「なあ、やっぱり何かあったのか……?俺で良かったら聞く、から」
「……うん、」

 ずっと考えていたことがある。燐が力を得たのなら、雪男は心を得たのではないかと。
 だって悲しみなど、少しも感じなかったのだ。あの猫が死んだ時も、優しい目の祓魔師が目の前で串刺しにされた時も。感じたのは憤り、煩わしさ、それから暗い愉悦。猫が死んだ時には燐を悲しませたことに苛立ち、男が死んだ時には咽び泣く女の声に辟易し、魔神を憎む手が力をなくしたことに喜びを覚えた。死そのものには、何の情も抱けなかった。
 本当は、雪男こそ魔神の落胤なのではないか、と。そして、それにすら。

「……早く、兄さんの夕飯が食べたいな」
「……んだよそれ。人がせっかく心配してやったってのに」

 ソンした、と笑う燐には牙も尖った耳もない。普通の人間と何も変わらない、形。
 だから雪男は、まだ結論を出さないでいられる。まだ人間として生きていられるのだ、と。例え目を閉じて平然とあの男の笑顔と死に顔を浮かべられるとしても。悲しみに暮れる祓魔師の背中に同情すらできなかったとしても。
 返り血のついたコートは鞄の中。死体ごと悪魔を貫いた銃がすぐそばにあるだなんて、燐は知らない。それでいい。

「今日は兄ちゃんの力作だぞー!味わって食えよ!」
「うん、ありがとう。楽しみだな」



(どうかこの箱庭が壊れませんように)