「なんや新婚さんみたいやなあ」
「意味わかんねーし」
「やって二人でおかいもの、とか、それぽいと思わへん?」

 ほんなら買い物かご持つのは旦那さんの役目やな、志摩が笑ってスーパーの入り口に走っていく。手にした買い物メモに書かれているのは燐と弟とクロ、それから目の前ではしゃぐ彼のぶんの食材の量。別に買い物まで付き合ってくれなくたって費用出してくれれば作ったのに、とか、俺男なんだけど、とか、言いたいことは色々とあったのだけれど、視線を合わせると少し目尻の下がった瞳が楽しそうに緩んでいるものだから、燐は結局一つも声にすることができなかった。
 雪男の任務がない日は一緒に買い出しに行ったりするが、そういえば祓魔塾に来てからは弟以外の誰ともプライベートで出かけたことがない。そもそも燐には友達というものができたためしがなかったから今までその状況をどう思っていたというわけでもないのだけれど、気付くとなんだか新鮮な感じがする。早く、と呼びかける手とこちらに向けられる笑顔にはまだ少し、慣れない。

「野菜何買うんやったっけ」
「あー、ほうれん草と玉ねぎ、あとにんじん」
「よしゃ、安いやつ探したろ」

 ご飯作ってくれへん、と志摩が燐に頼み込んできたのは数時間前。
何でも今晩は勝呂と子猫丸が任務で帰りが遅くなるらしく、一人で食事をしても味気ないから一緒に食べる人が欲しいのだとか。正十字学園の現男子寮には相当な数の生徒がいる(とは言っても燐は直接行ったことがないので雪男に聞いた話だが)のだから食堂だって一人になることは早々ない。どちらかというとあの幽霊マンションのような外観で二人きりの食事という方がわびしい気がするのだけれど、彼にとってはそうでもないらしい。
どうせ今夜も雪男は任務で出かけてしまうから、燐にとっても一緒に食事を取るというのは悪い話ではなかった。その分の食費を出すという条件つきで承諾すると、志摩はありがとぉな、と妙に嬉しそうに笑った。

「ほうれん草ってどれがええの」
「えーっと、それ。濃い緑色してて根本が赤くなってるやつ」

 野菜を吟味する志摩の手は意外と大きくて骨張っている。錫杖を握って戦っているからだろうか、とぼけた顔をして彼は案外強い。弟と同じ、きちんと鍛えている人間の腕。それでも、きっと燐が力を入れて握りしめてしまえば簡単に折れてしまうのだろうけれど。
 次なに、と振り返られて、ついぼうっとしていたのに気づき頭を振る。慌ててメモ帳を見直して肉売り場を指差すと、気付かなかったのか気付かないふりをしたのか、志摩は何も聞かずに行こか、とかごを振った。

「あー、プールいつ行こなぁ。奥村くんていつ修業終わるん」
「わかんね。つかこの前行ったんじゃねえの」
「行ってへんよ、皆で行かなつまらへんしね」

 他愛もない話をしながら、挽肉やら小麦粉やらをぽいぽいと中に放り込んでいく。せっかく他にも食べてくれる人がいるのだからと少し奮発して、だんだんと中身の詰まっていくかご。こんなに買ったのは修道院でおつかいを頼まれた時以来だった。代わろうと手を伸ばしてもひょいと避けられて、お嫁さんには持たせられへんよと笑われる。まだやってんのかよそれ、苦笑が漏れた。
 会計を済ませて買ったものを適当にバッグに詰め込んで、帰りこそは持ってやろうと思っていたのに気が付いたらまた取られていて、からっぽの手に慣れなくて視線を落とす。

「奥村くん、行くえ」

 さりげなく右腕を引き寄せられて、少し強引に手を繋がれる。微かに強張った指先。顔を上げればその表情は先程と少しも変わらなくて、だからなんだか不自然だと、思う。
 メンドくさいのは嫌いだとか言うくせ、志摩は変なところで優しいのだ。怖いなら怖いと離れればいいのに、気遣って近づいてくれる。そうやって好意を向けてくれるのは燐だって嬉しいけれど、無理をしてほしくはなかった。燐に悪魔の血が流れていることは事実で、仕方ないことだとわかっているのだから。
 だから離させようと手を引いて、けれど思い通りにはいかなかった。志摩が先程よりも強く手を握ったからだ。

「しま、」
「も少し、ええやろ?俺、奥村くんの手ぇ好きなんや」

 不意打ちに戸惑う。握る指の不自然さは消えない、それでも好きだという声音も本当で。だって怖いんだろ、言えば志摩は頷くけれど、やっぱり手を離そうとはしない。誤魔化されないのも、離れられないのも、家族以外では初めてだ。よくわからない。
 志摩は変わらず笑っている。

「そら魔神の炎言うたら恐ろしいもんやて小っさい頃から教わってきたさかい、怖い思とるけどな」

 言葉とともに手を引かれてやっと、いつの間にか足が止まっていたのだと気付く。行きは青かった空も今は赤く滲んで、残光の眩さに空いた手を翳した。もうすぐ、夜。
 今よりもっとずっと幼かった頃、こうして養父が手を引いてくれたのを少しだけ思い出す。守ってくれていたあの背中と前を歩く志摩とは似ても似つかないけれど、わけもなく安心するあたたかさは、同じ。どうしてだろう。

「それ以上に奥村くんがきつう好きやで、別にええかなって」

 特別なことなんて何もないというように、さらりと。
 胸が詰まる。だって燐は悪魔で、それも皆が憎む魔神の子で。何をしても上手くいかなくて、毎日のように怯えられて、それなのに。何もかもわかった上で燐を真っ直ぐ見てくれるなんて、好きだと言ってくれるなんて、なかったから。

「……俺、いつ前みたいに正気じゃなくなるかわかんねえんだぞ」
「ああ……そやなあ、」

 ぱっと手が離れて、やっぱり、少しの落胆と諦め。右手がなんだか冷たく感じる。それでもそれは仕方のないこと、と。
 らしくもなく苦しくなるから、せめて笑おうと顔を上げたら、すぐ目の前に見慣れたヘッドホンがあった。何かを考える暇もなく引き寄せられて体が密着する、背中に骨張った指の感触。
 ぎゅう、と、抱きしめられる。

「そしたら、全力で逃げて全力で名前呼ぶわ」

 燐くん、て。耳元で聴く低い声はなんだかいつもと違う。ひたすらにあたたかくて、やさしくて、心地いい。もし本当に呑まれてしまったとしても、そのたった一言できっと戻ってこられると思えるぐらいに。
 臆病な言葉はそのままの意味だけではないのだろう。傷つきたくない弱さと、傷つけさせまいとする強さと。志摩は隠さない、それが嬉しくて。
 ほころぶ。

「変なの」

 照らす光があたたかい。
 今度は燐の方から手を伸ばして、指に触れる。やっぱりそこは少し強張っていたけれど、構わず握ってやれば亜麻色の瞳がやわらかく緩んだ。
 そして夕焼けの帰り道、一緒に。