「あ。」

 気の抜けた声を漏らして燐がふと顔を上げた。ベッドにうつぶせていた体を起こし、窓の外に視線を遣る。今日は朝から大雨、窓ガラスにはざあざあと叩き付けられる雨粒以外別段変わったものはないはずだ。報告書にペンを走らせていた雪男は、無表情で何もないそこを見つめる兄を訝しんで手を止めた。

「どうしたの、兄さん」
「あー……いや、」

 空耳かな。へらりと笑う、燐の顔は普段の明るさとは違う色を帯びている。心に薄い膜を張ったような、普段感情表現がわかりやすい燐にしてはいささか不自然な表情。最近見せることが多くなったそれは決まって「空耳」が起きた時に作られる。
 けれど知らない振りを通して、そう、と興味なさそうに呟くと雪男は書類に視線を戻した。視界の端では燐がまだ窓の外を意識しているのが見えたが、触れることはしない。しばらくすると燐はばふ、と枕に顔を埋めて体を丸めた。肌蹴たTシャツの隙間から見える腰は記憶よりもずいぶん細い。

「なあ、雪男」
「何?」
「……お前は、聴こえねぇの」

 くぐもった声。怯えのような感情を含んだ問いかけは兄には珍しくて、思わず振り返る。突っ伏した燐の表情は当然ながら見えない。その質問の意図も。けれど問い返す言葉を持たなくて、開きかけた口を一度閉じ、多分の正解を投げつける。

「……何も」
「そっか、」

 よかった。最後の言葉はきっと聞かせるつもりはなかったのだろう、ひどく小さな呟きだった。安堵にまみれた声音に心が騒ぐ。何がいいと言うのだろう。気付かないとでも思っているのだろうか。走らせたサインが微かに歪んだ、けれどやはり何も言うことなどできなかった。


『あれ?』

 雪男が記憶している最初は数か月前、一緒に赴いた悪魔の討伐任務の時だった。雪男と燐を含め10人の祓魔師が出動した比較的大規模なもので、討伐した悪魔の数はゆうに100を超えていた。幸い強力なものはほとんどいなかったので、被害は1,2人の怪我人を出した程度だったのだが、討伐があらかた終わった頃燐に異変が起きた。
 雪男に倒した悪魔の特性を教わっている最中、名を呼ばれたわけでもないのに、突然ふっと雑談をしていた他の祓魔師の方に視線を向けたのである。

『誰だ?』

 その時雪男には何も聞こえなかったのだが、燐はまるで繰り返し誰かが話しかけてきているかのように辺りを見回していた。どうしたの、問うても気付かないのか返事はなく、どこか虚ろな目をさまよわせるばかり。いよいよ不審に思って燐の視線を引き戻そうと肩を掴んだ時、

『う、うわあああああぁぁ!!』

 ちょうど燐が最初に目を向けた祓魔師の後ろから、大型の屍が襲いかかってきたのだった。


 幸い最初からそちらに意識を向けていた燐と雪男によって屍はすぐに討伐されたため大事には至らなかった。ただその後燐に異変の理由を聞いても何でもない、と笑みを返されただけで、何も答えてくれなかったのがやたらと心に引っ掛かったのを覚えている。
 それ以降似たようなことが何回も起きた。燐が何かに呼ばれたかのように突然変な方向に視線を向け、雪男には聞こえない声の主を探す。この時のようにその方向にいた誰かしらが悪魔に襲われるようなこともあったし、今日のように何も起きないこともあった。ただ変わらないのは、見回す瞳のやけに温度のないこと、そして何が聴こえているのか頑なに話そうとしないこと。
 そして同じ頃、燐の表情に少しずつ翳りが見え始めた。

 あからさまに何かを隠しているのをどうしても見過ごしておけなくて、一度きつく問い詰めたことがある。様子がおかしいのはわかっている、どうして何も言わないのか、自分は兄を監視する立場にあるのだから知っておかなければならない、などと、本当はあまり使いたくない言葉まで駆使して。
 燐は困ったように笑っていた。笑ったままごめんな、と首を振り、

『お前は、人間だから』

 それだけ告げて、雪男から逃げるように立ち去っていった。


(兄さんは悪魔の声を聴いている)


 燐が残した一言は決定打だった。元々彼はウコバクやクロなどの悪魔の言葉を介していたのだから、大いに考えられる可能性だった。きっとぼうっと寝転がっている今も、燐には雪男に聴こえない声が聴こえているのだろう。その内容が何なのかは知らないが、燐を相当に苦しめるものであることは間違いなかった。そうでなければ、大抵のことでは沈んだりしない兄が衰弱していくなどありえない。
 燐を罵っているのか、甘言を吐いているのか、それとも虚無界へ来いと脅しでもしているのか、いずれにせよ許しがたいことだった。傷つけていることもそうだが、何より燐に燐自身が悪魔だと線引きをしたような言葉を吐かせたのが何より苛立たしい。
 だから雪男は、今より一層悪魔を憎むようになった。討伐の任務ではいつも誰より多く悪魔を殺した。一匹でも多く、燐を惑わすものを減らせるように。

「……雪男、眉間に皺」

 僅か上体を起こした燐が、こちらを指さして小さく笑う。ずっとそんな顔してっととれなくなっちまうぜ、などと言う軽口は以前と変わらないのに、その声には覇気がなかった。
 下手に踏み込むと問い詰めてしまった時のように逆に傷つけかねない。ざわめく心を捻じ伏せて、余計なお世話だといつもの調子で返してやる。燐は安心したような表情を浮かべた。
 時計を見てそろそろ夕飯の頃合いか、と立ち上がろうとしたその時、雪男の携帯のバイブレーションが鳴る。

「仕事か?」
「ああ、多分」

 言いながら電話を取る。聞こえてきたのは雪男の上司の声で、用件は燐の予想通り人手が欲しいのですぐ来てほしい、という依頼だった。二つ返事で承諾して通話を終え、壁にかけてあったコートを羽織る。
 今までならここで燐が一緒に行く、とごねだすところだった。しかし今回はその素振りも見せず、寝ころんだまま雪男が準備しているのをぼうっと見つめている。ひとつ溜息。

「……一緒に来る?」
「え、いいのか?」
「人手足りないみたいだから」

 建前だ。燐がいなくても十分に仕事を完遂させられるだけの能力はある。それより不安なのは、この状態の兄を一人にしてしまうことだった。先程声が聴こえたような素振りを見せたばかりだというのに傍を離れたら、その隙に悪魔に付け入られてしまうかもしれない。それが心配でならなかった。
 こちらの意図を知ってか知らずか、燐はらしくもなく考え込む素振りを見せ、数秒の間を置いてから緩慢な動作で頷いた。明るさを装い支度を始める背中に言葉にしがたい感情が湧き上がるのを感じたが、それを上手く表す術を雪男は知らなかった。


 任されたのは悪魔の住処と化した廃墟の探索の任務だった。悪魔は見つけ次第討伐、その他悪魔の餌になりそうなものは破壊。雪男にとってはさほど珍しくもないタイプのものである。先程の声をまだ気にしているのかどこか本調子でない燐を横目に、湧いてくる悪魔を次々と撃ち殺しながら先に進む。長く放置されていた場所なのか所々が朽ちており、潜むものの数もかなり多いのにうんざりした。これだけいれば兄に話しかけてくる悪魔も相当な数だろう。連れてきたのは逆にまずかったかと口の中で舌打ちをして、部屋に残る最後の一匹を撃ち抜く。ぐしゃりと潰れ溶けていく小鬼を見下ろしながら、雪男は素早く弾丸を装填した。

「兄さん、次行くよ」
「待てって、少しは休憩させ――」

 不自然に声が途切れる。どうしたのかと振り返れば、崩れた壁の方に視線を向けたまま動かない燐の背中。
 “声”だ。
 思ったのと、瓦礫の中から巨大な屍番犬が飛び出したのは同時だった。

「兄さん!!」

 雪男が反応するよりも早く、それは燐に突進しその体を床に叩き付けた。考える前に手がトリガーを引き、覆いかぶさる屍番犬に銃弾を数発撃ち込む。怯んだ隙に駆け寄って蹴り飛ばすと、素早く燐の体を抱き上げた。薄く開いた目は何とか焦点を結んではいたが、腹に抉られたような酷い傷跡。内臓を傷つけたのだろうか、口の端からは血が零れている。

「ぐ、う、」
「兄さん、しっかり……っ」

 這いずり呻く屍番犬など目もくれず、雪男は腹を押さえる燐の手に自分のそれを重ねる。上手く働かない頭で治療の手順を反芻しようとした、時。


わあああああああああああああああああああああん。


「え?」

 ひどい雑音が頭の中に響く。
 それは意味を為さない唸りのような音だった。いや、よく聞くと数えきれないほどの声が幾重にも重なって唸りのように聞こえているのだった。

 わあああああああああああああああああああああん。

 わあああああああああああああああああああああん。

 わああああああばけものあああああどうしてわああああああんでしまえ

 聞き続けていると、次第に慣れてその中にだんだんと意味のある言葉を拾えるようになってくる。それは恨みと憎しみにまみれた声。黒く、黒く、塗りつぶされた。

 ばけものばけものあくまどうしてどうしていきている

 しんでしまえ、

「死んでしまえ。」

 瓦礫の向こう、頭に直接響くそれとは別の声。
 見上げれば、屍番犬を呼び出す魔法円の紙が視界に入った。それを握り締め佇むのは先程任務の説明を行っていた祓魔師のひとり。

「なに、を」
「どうして魔神の落胤がのうのうと生きている」

 しんでしまえ、呪う声は今も繰り返される頭の中の声とぴったりと重なった。
 茫然と腕の中の兄に視線を落とす。燐はあの虚ろな目で、呪詛を吐き続ける男を静かに、ただ静かに見ていた。
 そして一言ぽそりと呟く、


「だから、お前には聴かせたくなかったのに」


 わあああああああああああああああああああああん。