のみこんでしまった言葉がある。




 その日も兄は日が落ちてから帰ってきた。
 ぎいいと軋んだ音を立てて玄関の扉がゆっくりと開く。修道院はどこもかしこも古いのだから静かに入ろうとする努力など無駄でしかないのに、少しばかり思考力の足りない彼にそれは思い至らないらしい。僅かに空いた隙間から中を伺う瞳に視線を絡めて、にっこりと笑ってやる。

「おかえり、兄さん」
「げ、雪男……!ど、どうしたんだよこんなとこで……」
「兄さんの帰りを待ってたんだよ。ほら、早く靴脱いで」

 うう、と小さく零しながら燐は観念したように扉を開ける。つい先日衣替えして半袖になったばかりの学校の制服は泥で汚れ、白い腕には擦りむいた痕や痣が何か所にも散らばっていた。
隠し通せるとでも思っていたのだろうか。思わず険しくなる表情を伺って、燐がごめん、と気まずそうにつぶやいた。返事の代わりに溜息をつく。

「またジジイに怒られちまうな」
「で、また僕が手当するんでしょ」
「悪ィ」

 手を差し出して受け取った鞄は軽い。どうせまた漫画か料理の雑誌か、そんなものしか入っていないのだろう。燐はもう一年以上学校に顔を出すことすらしていない。
 それは逃げだと、雪男には言えなかった。養父である獅郎もそのように叱るつもりは毛頭ないらしい。なぜならその理由が傷つきたくないから、だけではないと知っているから。
 傷つけることが恐ろしいのだと、知っているから。

「……雪男?」

 へらりと笑って自分を呼ぶ燐に、胸をかきむしられたような気分にさせられる。昔も今も雪男より感情表現の豊かな兄だったが、ここ最近は笑うことが増えたような気がする。無邪気な笑みよりも、何かを押さえつけてごまかしているような、曖昧な笑みが、特に。きっと本人にその自覚はないのだろうけれど。

「……なんでもない。先行ってるよ」

 目を逸らして踵を返すと、すぐ行く、と明るい声が投げつけられる。慌ててばたばたと靴を脱ぐ燐を置いて、雪男は少し早い足取りでダイニングへと向かった。

 

「……って来たな……」
「……今日は大丈夫なのか……」

 微かに開いた扉の向こうから、怯えた声が聞こえる。
 構わず部屋に入れば、ぎょっとしたようにこちらを見る二対の瞳とかち合った。どちらも正十字から最近派遣された修道院の職員だ(しかしそれは名目で、実際には魔神の子の監視を命じられていることぐらい雪男には簡単に推測できたのだが)。動揺する二人に聞かなかった振りをしてどうかしましたか、と微笑を浮かべれば、何でもないよと明らかに無理に作った笑顔で適当に誤魔化された。
 逃げるように奥に向かう彼らの背を見送りながら、燻る苛立ちをなんとか鎮めようと努める。もうすぐこちらにやってくる燐に悟られたくはなかったし、そもそも自分に彼らの恐怖を責める権利はないとわかっていたから。
 雪男がただ一度感じた怯えが、兄を深く傷つけたことを知っていたから。






『おまえら、やめろよ!』

 幼い頃。体が弱く、心も弱く、そしてまだ、兄の秘密を知らなかった頃。何かと理由をつけて苛められていた雪男を助けてくれていたのは、いつも燐だった。
 周りの子供や幼稚園の先生達は燐を悪魔だ化け物だとよく罵ったが、獣のような唸り声を上げても遊具を壊しても他の子供を怪我させても、雪男にとって燐は優しい兄以外の何物でもなかった。そう、思っていた。

『きたぜ!バケモノだ!』

 その日雪男を苛めていた子供は、園の中でも力が強いことで有名な子だった。雪男の倍ぐらいはある太った体でいつも威張り散らしていて、よく取り巻きをひきつれては気に入らない子を叩きのめしているのを先生に止められていた。
その彼の今度の標的は兄であったらしい。弟を苛めれば燐は必ず飛んでくる、雪男はいわば餌代わりだった。案の定大声を上げて走り寄ってきたのを見てそいつはげらげらと笑い、丸太のような腕を思い切り突き出してその小柄な体を跳ね飛ばした。

『にいさん!』

 どしゃり。凄まじい勢いで地面に叩き付けられる音。思わず取り巻きに捕まっているのも忘れて叫んだ。
 燐はうつぶせたまま動かない。大口を開けて笑ったままそいつがゆっくりと近づいていき、おおいだいじょうぶかあ、心にもない言葉とともに汚れた靴のつま先で脇腹を蹴った。人形のように転がっていく兄の体。

『なんだ、アクマのくせによえーの!つまんねー!』
『も、もうやめとこうよぉ。そいつにやりかえされたらしんじゃうよ!』
『バーカ、おれがこんなのにやられるわけねーだろ!』

 怯える周りに馬鹿にした視線を向けて、そいつは太った足で燐の腹を踏みつける。一回、二回、三回。足や頭や腕が反動で跳ねる、それが痛そうで痛そうで見ていられなくて、やめさせようともがき始めた時、唐突に蹴る足が止まった。
 燐の腕が、その足首を掴んでいた。


『にい、』

 さん、と続けた声は地を這うような唸りにかき消された。
ぐるぐるぐるぐる。異常を感じて皆が口を閉じる。何事かと首を傾げていたそいつの体は突然浮き上がり、宙高く舞い上がった。わけのわからないまま、放物線を描いて落ちていくそれを視線で追う。誰もがそれを為した腕を見ていたけれど、燐がそいつを吹き飛ばしたなどということには思い至らなかった。それが普通なら、人間ならありえないということぐらい、幼い雪男でもわかっていた。
 痛い沈黙の中、ゆっくりと燐が起き上がる。深い海の色をしているはずのその瞳は氷のようにつめたかった。

『ば、ばけ……もの……!』

 取り巻きの一人が我に返ったように声を上げた。もう雪男など視界に入っていないようにばたばたと逃げていく、その背の一つが傾く。
 燐が引っ張り戻したのは先程ばけもの、と叫んでいた子だった。ぐるぐるぐる、狂暴な犬のように唸りながら、怯えるその顔を容赦なく殴りつける。ばきりと嫌な音。殴る。ひきつった呻き声。殴る。ぐるぐるぐるぐる。殴る。もがく腕が、止まった。
気絶して力を失った体を落として、燐が今度は教室の方を見た。竦み上がる子供と先生達をつめたい目で睨み付け、一歩一歩近づいていく。
だめだ。直感的に、思った。

『にいさん!』

 頬を殴られた痛みも肩を蹴られた痛みも全部忘れて、必死に駆け寄った。そうしなければ兄が、燐が燐でなくなってしまう。あれほど恐ろしいものを見せつけられた後なのに、その時の雪男には自分が燐に傷つけられるなどという考えが全くなかった。ただ兄がそうやって怯えられるのが嫌で嫌で仕方なかった。
 だから何も考えず、無防備に抱き着いた。

『だめ、おちついて、にいさん……!』

 ぐるぐるぐる。燐はこちらを見ておらず、首に雪男がしがみついても構わず歩き続ける。それでも何とか止めようと腕に力を入れて踏ん張った。ざりざりと雪男の靴が土に長い線を描いて、そして、やがて止まった。奇妙な唸り声も、同じく。
 とまってくれた。いつものにいさんにもどった。安堵で胸がいっぱいになって、顔を上げた。燐の瞳と視線がかち合う。


 その色は凍ったままだった。



『っあ、』

 腕を振りほどかれて、地面に押し倒される。首にかかった燐の手はやけに熱かった。
 つめたい目が突き抜けていく。視線はこちらに向いていても、意識は雪男を越えた何か別のものに向けられていた。今更手放していた恐怖がせり上がってきて、息を呑む。先程のぼろぼろにされた子供が頭を過ぎる。

 今目の前にいるのは見知らぬものだった。雪男がいつも恐れる「あくま」と同じ、得体の知れない怖いもの。だって、同じ目をしている。
おなじ、


『や……だ……っ』


 ぱしんと、無意識に首にかかった手を払う。意外にもそれはあっけなく外れて、だらんと落ちた。

 あ。

正気を取り戻す。いまぼくはなにをしたんだろう。
なにを、と見上げ、



『…………ゆ、き』



 恐怖に染まりきった燐の顔を、見た。


『……にいさ』
『あ、ごめ、おれ……おれ』

冗談みたいに震え出す体。燐はまるで勝手に暴れ出すのを怖がるように自分の腕で自分を抱きしめ、ふらふらと後ずさった。真っ青な顔で、ごめん、ごめん、と繰り返す。
首を振りたかった。ぼくこそごめんと、謝りたかった。けれど首も口も動いてはくれなかった。ただ呆然と、泣き出しそうな兄の顔を見ていた。
思い出したように先生が呼んだ救急車のサイレンが聴こえてくるまで、二人はずっと動けずにいた。






「また小難しい顔してんな」

夕飯を食べ終え、早々に眠りについた兄を何とはなしに見つめていると、いつの間にか入ってきていたらしい養父に声を投げられた。
考えごとか、問われたのに頷いて、起こさないようそっと燐の腕を撫でた。帰宅した時には傷だらけだったそこは既に癒えきって、痕のひとつも見当たらない。おれは「まとも」じゃないから、と回復の早さに自嘲したいつかの顔を思い出して、小さく顔を歪めた。

雪男が手を払ったあの時以来、燐は化け物だとか悪魔だとか呼ばれてもさほど怒らなくなった。雪男や周りの人間が傷ついたり、誰かが困ったりした時には変わらず力を振るったが、少なくとも自分のためだけに怒り他人を傷つけることはなくなった。正気を失って暴走することも、ほとんど。その変化は、燐自身が自分を異常なものであると認めてしまったが故のもののように雪男には感じられた。
雪男が恐怖に歪んだ兄の顔を忘れられないように、燐もまた、怯えてしまった弟の顔を、払い落とされた手の衝撃を、忘れられてはいないのだろう。あの日言えなかった「ごめんなさい」の一言は、今も自分の内で燻ったままだ。

「……バカに真面目なところは変わらねぇな、お前は」
「引きずるな、って方が無理ですよ」
「まあ、そうかも知れんがなぁ」

 苦笑が一つ。傍に椅子を引いてきて、雪男の前に獅郎が座る。燐の無防備な寝顔を見やる表情はとても穏やかで、そうしていると本当の親のようだといつも思っていた。
 その骨張った大きな手が擽るように頭を撫でれば、気持ちよさそうに擦り寄ってむにゃむにゃと何か寝言を零し、再び規則的な寝息を立てる。ほとんど雪男と同じだけの時間を過ごしているはずなのに、ひどく幼く見えるその仕草。獅郎は愛おしそうに目を細めて手を離し、雪男に視線を向ける。

「……倶利加羅の封印が保たなくなってきている」
「!」
「新しく封印を掛け直してはいるが、時間の問題だろうな。近いうち、覚醒するかもしれん」

 それは、なるべくなら考えないでいたいことだった。
 燐が覚醒すれば世界中が敵に回る。祓魔師達は魔神の血統を憎み排除しようとするだろうし、悪魔も貴重なその存在を手に入れようと追い掛け回すだろう。兄が今以上に過酷な道を歩むことになるのは容易に想像できた。
 けれど、それがきっと避けられないだろうことも、なんとなくわかっていた。だからこそ雪男は、死に物狂いで祓魔師としての技術や知識を身につけてきたのだ。守られてきた自分が、傷つけてしまった自分が、今度は守れるように。ぎゅう、と拳を握りしめる。

「……だぁからお前はカタいってんだよ」
「っ、え?」

 燐を撫でていた獅郎の手が、今度は雪男の頭に乗せられる。わしわしと乱暴に撫でられて、ずれた眼鏡を直しながら困惑の表情を向けると、にい、と聖職者らしからぬいたずらっぽい笑みが返ってきた。

「もしその時が来たら、お前は燐の傍にいてやれ。ただ傍にいて、お前が感じるままに接してやればいい」
「でも、」
「お互いがお互いを必要だと知るのに、理屈こねて作った行動がいると思うか?」

 言い返そうとして、言葉を探して、けれどできなくて、口をつぐんだ。
 やさしい兄。いつも自分にはできないことをしてしまう、憧れの人。雪男のせいで、自分の異常を肯定してしまった人。だから空白のままの謝罪の代わりに今度はと、そればかりを思って。
 いつしか燐を見ているのが苦しくなっていた。

「……傍にいるだけで、笑ってくれるでしょうか」
「笑えるさ。お前も燐が好きだからな」

 そっと視線を向ける、穏やかな顔で眠る自分の片割れ。
 真実を知れば、きっと一層苦しむだろう。表立って燐を否定する人間も間違いなく増える。幼い雪男がつけた傷は癒えるどころか、更に抉られていくに違いない。
 それを止めることはできなくても、せめて楔になれるのなら。


(たいせつなんだと、わかってくれるだろうか)


 救いを求めた手を、今度はちゃんと握りしめるから。