―――お前、俺とフツーに喋っちゃって平気なの?

 悪意なく。怯えもなく。当たり前のように。
 きょとんと見据えた、まっさらな瞳。






(しもたなぁ)

 かつかつと、人気のない祓魔塾の廊下を早足に歩く。志摩にとっては既に通い慣れた教室への道ではあるが、夜になると全く違う雰囲気を醸し出していた。申し訳程度の明かりがいるだけの廊下は薄暗く、何か潜んでいるのではないかという不安を駆り立てる。おおこわ、とわざと大げさに腕を擦りながら、志摩は自分の迂闊さに一つため息をついた。
 対悪魔薬学の教科書を教室に置き忘れてきたのに気付いたのは数分前のこと。教科書は学期の始めか終わりに鞄に入れるもの、という彼の中の学校の常識をうっかり塾でも適用させてしまうため、志摩は時折こういった失敗をやらかしてしまっていた。それも他の教科なら次の日にこっそり回収もできたが、今回は比較的課題の多い対悪魔薬学である。手間を惜しんで雪男のプレッシャーに晒されるのはなるべくなら避けたかった。

(ほんまこういうとこメンドいなぁ、奥村センセは)

 双子なのだから兄の燐の大雑把さの欠片でも彼にあればよかったのに、などと考えながらがりがりと頭を掻く。手にしたペンライトで一一〇一、一一〇二、と扉に刻まれた数字を照らしていき、遠く先にぼんやりと一一〇六、の字が視認できるようになった頃、


 がしゃん。

 どこかで何か重いものが割れるような音がした。
 反射的に首を竦めて辺りを見回すが人影は見当たらない。音の響き方からして恐らくは近くの教室からのものだろうが、既に午後七時を回っている今誰かが残っているというのは少し不自然な話だ。まさか小鬼か魍魎か、狂暴化して暴れているのだろうか。
 首を突っ込むべきか否か数秒の逡巡、しかしすぐに進路を自分の教室へと戻す。面倒事には関わらないのが志摩の常だった。野次馬は安全な所でするに限る。巻き込まれないようにと少し歩く速度を上げる、しかし通り抜けようとした一一〇五号室の前で複数の足音。


「あ、ぅあ……!」

 奇妙に潰れたような呻き声とともに扉が開く。
 次いで慌ただしく出てきた男達は怯えた色を隠しもせず、驚く志摩の存在など視界に入っていないかのように走り去っていく。すれ違う一瞬、視覚に中級を示す祓魔師のバッジ、聴覚にばけもの、と上ずった声を受け取って、はっと振り返るも既にその姿は闇の奥に埋もれてしまっていた。

「…………ばけもの、ねぇ」

 再び静まり返る廊下、ぎぃぎぃと開かれた扉の蝶番だけが音を立てる。微かに漂う血臭と知った気配を奥に感じ取って、引きつる頬で苦笑を作った。
 面倒事には関わらないのが志摩の常だった。野次馬は安全な所でするに限る。この向こうに踏み込めば、信条に反することになるとわかっていた。
 それでも、



「……志摩?」

 教室に足を踏み入れると、ひどく間抜けな声が耳に届く。
 ぽかんと見つめてくる瞳の上、額からは鮮血が滑っていた。
傍には割れた瓶の破片が赤く汚れたまま散らばり、恐らくその中身であったのだろう、床に撒き散らされた液体の中に沈んでいる。

「奥村くん、」
「え、あれ、何でお前こんなとこいんの?もう夜じゃん」

 屈託なく、笑み。
 燐は泥か何かでも拭うように自然に乱暴に、流れる血をごしごしと拭って再び志摩を見つめてくる。赤く染まった制服の袖と裏腹にそこにはもう傷痕すらないのが、何故だか逆にひどく痛く感じた。

「何では俺のセリフやろ。また修行しとったん?」
「あー……まあ、そんなとこ」

 頬を掻く仕草は燐を少し幼く見せる。泳いだ視線の意味はあまりにもわかりきっていて、訊く前からわかってしまっていて、だから指摘せずに笑った。
 冷徹な振りをしてその実誰よりも彼に対して過保護な弟ならもっと上手くやれたのだろうに。厄介な状況に免疫がないことを今だけ、呪った。

「ホウキとチリトリ、取ってこよか」
「あ、だな。明日ここ誰か使うかもしれねーし」

 手を差し伸べる、握る、力を入れて引いて、立たせる。常人より少し高い体温に、微か心がざわつく。
 笑顔と嘘と建前は得意だったはずなのに。歪みそうになる表面を取り繕って、割れたガラスをかき集める。零れた聖水はきっと燐を少なからず灼いていたろうに、それを気にする素振りもないのに苛立った。
 そして自分とて傷つけていたくせに、と囁く声は聞こえなかったふり。


「奥村くん」
「ん?」
「怒らへんの?」

 ぱち、と存外に大きな瞳が瞬く。
 意味を受け取り損ねたと言うように首を傾げ、数秒の間、そしてああ、と合点が言った顔で頷いて苦笑する。

「……まあ、当然の反応だからなぁ」

 諦観も、卑下も、憎しみも、ない。
 ほら何かされてもすぐ直るし、と血の染みた袖を振る燐の、男にしては細い腕。志摩と何も違わない、けれど決定的に違う、体が苦しめる。
 傷ついていないわけではない。怒っていないわけでもない。ただ、燐は受け入れてしまっている。だから憎まない。

(そないな風に思えるまでどんくらい傷ついたんやろか)

 ただの人間でない自分を認めて。理解されないことを認めて。どれほどの心があれば、ほんの数分前まで傍らにいた人間から悪魔の息子だと罵られて、それでも変わらず近づくことができるというのか。
 片付けを終えて、少し力任せに用具入れの戸を閉める。ぎしり、悲鳴。振り向いて帰ろか、と笑えば、僅か目線の下の頭が小さく上下した。
 かつかつこつこつと、行きは一つだった足音が今は二つ。頭の中にちらりと教科書のことが過ぎったが、なんだかもうどうでもよくなって意識の外に追い出してしまった。
 気まぐれの振りをして繋いだ手は変わらず、熱い。


「志摩は変な奴だなぁ」
「いきなり傷つくわぁ、どこが変て?」
「メンドいの嫌いとか言うくせに、俺に関わってくるし」
「――はは、」

 燐の表情に影はない。いっそ沈んだ顔で言ってくれればどれほど楽だったことか。
 笑顔も嘘も建前も、得意なことができなくなっていく。楽なことを選びたがる自分が悲鳴を上げる。すべて燐のせいだ。今までこんなにも揺らいだことなどなかったのに。
 無意識の内に根付いてしまった、当たり前、が痛い。


「ありがとな」


(そないな顔で笑わへんでくれ)




 純粋な好意が恐ろしかった。
 だって悟ってしまえば、きっとすべてを許せなくなるから。