ざあ、とひどい雷雨が地面を打っていた。シュラは腕を組み、窓から外のその様子を見下ろす。少しの距離を置いて蝋燭と向き合っていた筈の燐がぽかん、と口を開けてぴかぴかと光る雷を眺めていたのに気付いてその頭を足蹴にしてやれば苦しそうに声をあげた。 「お前はぼーっとしてんじゃねえよお?」 「いってえ……」 んだよ自分は酒ばっかり飲んでるくせに、と唇を尖らせる燐を一瞥するものの、シュラはそれ以上は何も言わなかった。ひどい豪雨だ。今日の夜にはニュースになっているかもしれないな、と容赦なく降り注ぐ雨粒を眺めながらぐい、と一口酒を嚥下する。 「なあシュラ」 燐の尻尾がふわりと揺れた。その視線は目の前に並べられた3本の蝋燭に注がれている。集中しているのかと思いきや、そうでもないらしい。 「幸せってなんだと思う?」 「酒」 「お前なあ」 即答するのは良いけどそれかよ、と燐がため息を吐く。無駄口を許してやっているというのに、偉そうな口を叩くではないか、と言ってやろうかと思うが、そういう気分にもなれずにシュラはへらへらと笑ってやる。 ――まあ、偶にはこういう日があってもいいか。 「冗談にゃよん。そだなぁ、幸せか……」 幸せ、という言葉で思い出すのは今は亡き師だった。その低く甘い声を思い出す。自分が最初に知った彼は幸せなんて言葉には確実に遠い人間だったにも関わらず、彼――藤本獅郎が頭から離れないのは目の前にいる子どもの所為だっただろう。子どもを預かってからの彼の変化は火を見るより明らかだったのだ。初めは獅郎の変化に気付きながらも理由を知らず、違和感を何も変わっていないのだという思い込みで消そうとしていた。だが、目尻に皺が刻まれていくのを見つめながら当時の自分はおそろしい、と思っていた。強い人間は簡単に変わってしまう。自分は変われず、ずっとごね続けていることしか出来ないというのに。そう完全に自覚したのは獅郎が自分に対して頭を下げ、全ての合点がいったあの日であった。 「お前は答え、持ってんの」 「色々考えたんだぜ、これでも一応。でも、わかんねえ」 「じゃあ逆のこと、考えてみれば?」 「逆?」 「そ。何がどうしたら最低の気分になれるか」 最低の気分。その答えを導き出せたとして、その逆が必ずしも幸せかと言えば勿論答えは否だろう。ただ、素直な子どもには解りやすい例ではあったらしい、燐はまるでぼんやりと呟くように言葉をこぼした。 「誰かが泣いてんのはいやだな。あと……誰かが死んじまうのも」 「お前って人のことばっかだな」 「いや、そんなことはないと、思うけど……親父に昔、言われたことがあって」 シュラの表情がほんの一瞬揺れたことに、燐は気付かない。 「優しいことのために力を使え、かっこいい人間になれ、って」 ――あんたがそれを言うのかよ。 腹から笑いが込み上げてきそうになったが、にやりと笑うにとどめた。全く馬鹿みたいだ。師は変わった。それを享受できるようになった自分も少しは変わったのだろうか。 「剣を抜いたのもそれか」 「……俺、色んなもの壊したり傷つけたりしてきたけど、本当は守れたらいいなって思ってる」 「そうか。……お前、後悔してるか? 剣を抜いたこと」 真っ直ぐな青い瞳がシュラを射抜く。深い青だな、と素直にその視線を受け止める。まだ若い光を抱いたそれから汲み取ることのできる意思は強く、しなやかだ。 「してない。俺、あそこで剣を抜かなかったら自分じゃいられない気がしたから」 「よかったって思ってんの?」 「……だめなのか?」 「ばか、だめじゃねえよ」 にやりとシュラは笑う。自分がこの子どもにこんな説教たれたことを言うようになるとは思わなかった。出来ることならば関わりすら持ちたくないと思った子どもだったはず。だが、悪くないな、と今は素直に思うことが出来た。 ――あいつもそう思ったのだろうか。 「その心を埋めるもんが答えだろ」 何ごとにも鋭い視線を送っていた人間が柔らかな表情をするようになるのを間近に見つめることに自分は耐えられなかった。羨望と嫉妬と憎悪に似た衝動でぐちゃぐちゃになりそうだとすら思った。だが、今ならわかる。藤本獅郎は2人の息子を愛していたし、その小さな存在が彼を穏やかな幸せを教えたのだ。 「……そっか、そうかも」 心底ほっとしたと言いたげに燐が笑った。今まで誰にも肯定されることのなかった自分の行動が少しでも許されたような気がしたのだろう。 「おら、おしゃべりしたらその10倍は働けよお」 「いで! 空き缶投げんな!」 「にゃははは! いい音したなあ」 いつの間にか雨脚が弱まっていた。夏の夕立だ。すぐに晴れるだろう。 Act.4 他愛のない、それでも何かに満ち足りた [*前] | [次#] |