――雪男のやつが任務でいなくってちょっと困ってんだ! 勉強教えてくれねえ?
 と、奥村燐からの誘いを快諾したのが今朝のことだ。特に用事もなかった上に燐と過ごせるならそれはそれでいいな、と思っての快諾であったが。
「これは思っとった以上に骨の折れる仕事やなあ」
「う……」
 友人と勉強するといえばぐだぐだと話をし、買ってきた菓子をつまみながら結局殆ど勉強しなかったね、で終わるのが定石だ。しかもそれでみんなある程度の成績を残し、テストも適当な点数をとって適当に――出来そうにもないのが目の前にいる彼である。
「奥村くんってほんま勉強苦手なんやね」
「……俺、高校行かねえつもりだったし」
「そうなん?」
「おう」
 廉造が持ってきたポテトチップスを1枚口に放り込む。少し離れた位置にあったティッシュケースを手を伸ばしてこちらに引き寄せ、油で汚れた手をふき取った。
 ――案外丁寧やんなあ、奥村くんって
 燐は粗雑に見えて、ちゃんとするべきところを知っている。
「これ、わかる?」
「えっとこれがこうで……こうか」
「おお、解ってきたやん」
「お、俺はやればできる男なんだぜ!」
 ありがとな、と言った燐のその笑顔の素直さに満足感が芽生えた気がして、廉造もつられてへらりと笑ってしまう。面倒くさいこと、煩わしいことは基本的には嫌いだ。だが、それも悪くないと思わせるこの少年は、心地がいい時間をくれる気がする。
「そういえばさ、これ雪男と勝呂にも訊いたんだけど」
「ん?」
「志摩にとっての幸せって何?」
 真顔でなんてことを聞くのだろう、というのが廉造の正直な感想であった。
「そんなん恥ずかしくて言えへんわ」
「恥ずかしいことなのか? ……あれか、まさかお前、女の子と」
「まあその辺は秘密ってことで。な?」
「ひ、人には色々あるもんな……そうだよな」
 建前で誤魔化して笑いながら、幸せか、と廉造は記憶を手繰る。
 あれは、放課後だった。黄昏時という表現が合う時間帯。祓魔塾の講義が始まる時間だというのに教室に燐が現れる気配もなかった時のこと。教師に頼まれて燐を探していた廉造が見つけたのは自分の所属するクラスの自分の机に突っ伏して眠る燐の姿だった。外からは橙色の光が差し込む。起こしてくれる人間もいないのか、と呆れたのは一瞬だった。起こさないようにゆっくりと近づき、その黒髪に触れる。さらさらと指を滑る感触は嫌いなものではない。髪を染め、ぱさぱさにした女の子の髪の毛よりもよっぽど柔らかだ。
 廉造は燐の前の席の椅子を音を立てないように引き、腰掛ける。すうすう、と気持ち良さそうに眠る彼の口元から息が漏れた。
 ――奥村くん、またせんせに怒られてしまうよ。
 真剣に起こすつもりなどなかった。なぜかこの空気が自分の過ごす学校生活の中では随分と貴重なものな気がして、廉造は頬を緩める。教室にかけられた時計をちらりと見る。あの長針が6を指したら、燐の肩に触れよう。そう決めて頬杖をついて目を閉じた。誰かのそばにいてここまで安らぐことが出来るという感覚を思い知った気がした。
「志摩?」
「あ? ああ、ごめんちょっと考え事しとってな」
「女の子ってそんなにいいもん?」
「人がくれる安心感は別の何かじゃ得られへんと俺は思うよ」
「あ、それならわかる気がする。俺、塾の皆はそういうところあるぜ」
 橙色の教室の中で感じた感覚を、目の前の彼はきっと容易に肯定してくれる。
「まあ、そういうことやね」


Act.3 響くのはただ、秒針と規則正しい君の寝息と


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