うだるような夏の日である。開かれた窓から風が吹き込むのを真正面から受け止め、燐は目を細めた。隣で雪男は勉強をしているのか祓魔塾の講座のための予習をしているのかは不明だったが、明確なのは自分が向かい合っている課題が未だ埋まることなく空白であるということだ。解らないと言えばもう少し自分で考えろと言われ、教えてくれと言えば今は忙しいと返してくる弟が憎らしい。
 暑さは苛立ちを助長させることもあるが、そもそも燐は夏が嫌いではない。じっとりと汗をかいたその肌を風が撫でていくのを爽やかだと思うことが出来たし、真っ青な空や大きな入道雲を見ると心が躍る。
「なあ雪男」
「……なに」
「幸せってなんだろうな」
「暑さで頭でもわいた?」
「失礼な!」
 まあ兄さんの頭がわいているのはいつものことだけど、とため息を吐いて雪男はちらりと燐を一瞥した。燐は不満そうに唇を突き出している。
「ちょっとコンビニ、行こうか。気分転換」
「いいな、それ。行こうぜ」
 自分も大概兄には甘いのだという自覚はある。真っ白の課題を前にして気分転換とは言ったものだと思うが、まあ今日くらいいいか、と雪男は意気揚々と立ち上がった燐の背中を負う。
「幸せってこんな感じかな」
「こんな感じって何さ。まだ考えてたの」
「うっ、こんな感じはこんな感じだよ! わかれ!」
 少し冷えたミネラルウォーターを口に含むと身体に染み込んでいく気がした。並んで歩く燐の歯がシャリ、とアイスを食む。
 ぼんやりと空を見上げた燐はまるで吸いこまれそうな表情をしている、と雪男は思う。見入っているというよりは魅入っているという表現が良く似合うのだ。
「雪男にとって幸せってなんだ?」
「僕?」
「おう」
 幸せ、という一言を表すもので何かを連想しようとすれば確実にひとつのものに思い当たる。
「当たり前にあって欲しいものだよ」
「それはまあ、そうだよな」
「でも」
 それは永遠ではない。永遠を維持するには難しすぎるのだ。
「失くしてしまわないと大事に出来ないものなのかもしれない」
「なんだ、それ」
「深く考えるのは失くしてしまってからってこと」
 そう雪男が言葉にして遠くへと眼差しを投げるのを見た燐にもわかっただろう。彼が見ている幻影は遠い昔の記憶。藤本神父に引き取られてからの自分たちの生活。あたたかい日々。当たり前すぎて気付かなかった幸せは、今思い返せば焦がれるほど愛おしいもので、もう二度と戻りはしないものだ。
「だから今のうちから見極めて、大事に出来たらいいんだけどね。ある程度の距離を保って客観的に見ないと案外解らないものだと思う」
「ずっとあってもだめだってことか?」
「うん、まあ、そんな感じかな。自分の中に具体的な存在があるかはわからないけど」
 それは嘘だ。自分には具体的な“何か”はある。
 ――ゆきお!
 その笑顔を守りたくて今の自分はここにいる。昔から変わらずに自分に誰よりも幸せを与え続けてきた人。幸せの経験は思い返してもあたたかくて、幸せだと思える確かな記憶になる。自分に武器を、意志を与えてくれた藤本獅郎の笑顔、その大きな掌が自分の頭を撫でる時のあたたかさ。いつでも自分を受け入れ、自信をもたせてくれた燐の存在。
「ただ、大事にしたいと思うよ」
 穏やかに微笑んだ弟の表情がひどく大人びているような気がして、燐は頷くことしかできなかった。
「……そうだな」
 こんな夏の昼下がりも悪くはない。妙な満足感を抱えて燐はぐっと身体を伸ばした。


Act.1 当たり前すぎて、気付いてしまえば壊れていきそうな


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