奥村燐は困っていた。が、厳密に言うなれば困ってはいなかった。彼にとってこの聖十字学園で過ごす第一の目的は祓魔師になることであったし、そもそも高校に進学するつもりのなかった彼からしてみれば高校で受ける授業といった類のものはさして重要ではなかったのだ。
 校舎に備え付けられた時計をちらりと見上げると、もう数分のうちにチャイムが鳴ることがわかった。
 ――諦めて、サボるか。
 体育の授業で必須となるジャージを忘れたことに気付いたのは先程の授業中。こそこそと携帯電話の電源を入れ、教師に気付かれないように素知らぬ顔をしながら雪男にジャージを持っていないかの確認のメールを入れたものの、返事がきたのは授業が終わってからだった。しかもその上、その内容と言えば『持っていない。忘れものしないようにちゃんと前日から準備しておきなよ。それに、授業中メールするとか何考えてるの?』というお叱りのメール。だよなあ、と大きくため息をつき、彼に連絡したこと自体に後悔していた。
「めんどくせえ」
 ぽつりと呟いて歩きだす。教科書だってジャージだって、燐には貸してくれると思い当たる伝手が殆どなかった。今日は木曜日。木曜日の昼休み後の授業で体育がある人間を一人だけ知っていたが、自分が使うよりも先に人に貸したがる人間などいないだろうと初めから諦めてしまう。ある木曜日の昼下がり、窓際の席でぼんやりとしていた際に見つけた、少し目立つ髪型の彼を、燐は覚えていた。
 どん、と肩と肩が触れ合ってはじめて人が近くに居ることを知り、慌てて顔をあげるとそこには今まさに思い出していた友人、がいて、瞬きを繰り返す。
「あ、勝呂」
「おお、奥村か」
「遅刻かあ?」
「お前と一緒にすんなや。辞書を忘れたから寮室まで取りに行っとっただけや」
「なるほど」
 お前こそ、と竜士が口を開きかけたところでチャイムの音が鳴り響く。やば、と声に出した勝呂は少し慌てたように教室へと足を伸ばそうとするが、違和感を覚えて立ち止まる、
「奥村、お前の教室そっちちゃうやろ」
「え、あ……あはは。俺、次サボり」
「はあ?」
「っつーかなんでお前が俺の教室知ってんの?」
「んなもん、どうでもええやろ」
 勝呂にしては歯切れの悪い返事だな、と思いながら燐はへらりと笑って見せた。
「なんかあったんか」
「へ? ああ、なんでもねえよ。ほら、先生来ちまうぞ」
 ふう、と息を吐きだし、竜士は手にしていた辞書でこつん、と自分の肩に触れる。呆れられてしまったか、と燐は眉を下げるが今更授業に出るつもりは毛頭なかった。屋上でぼんやりすごしてやろうと思っていたし、こんないい天気の日だとそのまま眠るのもいいかもしれないとすら思っていたのである。
「俺もサボる」
「は?」
「おら、屋上行くつもりやってんやろ。行くぞ」
「いや、でも、お前」
「ええからはよこい。見つかったら厄介やろ」
「お、おう」
 予想外の竜士の行動に戸惑いを感じつつも燐は慌てて竜士の背中を追いかけ、横に並んだ。いま、自分はどんな顔をしているのだろう。
 ――トモダチとサボりなんて、はじめてだ。
 そもそも、優等生の雪男は自分と同じように授業中に屋上や廊下で過ごすことなど有り得なかったため、燐にとって初めての時間だと言っていい。中学時代には友達と呼べる人間に恵まれず、授業もその殆どを欠席するか、出席していても眠っていたり、話を聞かずに過ごしてきた。
 嬉しいなんて言ったら、余計に呆れられちまうかな。祓魔塾でも優等生と言われている勝呂竜士が自分に付き合ってくれるだなんて思ってもみなかった燐は素直に嬉しいということも出来ずに緩む頬を必死に抑えこんだ。
「お前でも授業さぼったりすんのな」
「初めてやぞ」
「え」
「……授業は基本的にちゃんと出とる。ノートとらんとテストのときに困るからな」
「いいのか?」
「構わんからここにおるんや」
 柔らかく微笑むわけでもなく、ただいつもと同じように淡々と返事をするだけだったが、その言葉ひとつひとつが燐を舞い上がらせるものだということを竜士は知らない。
「大体さあ、この学園の屋上、ご丁寧にベンチまであるんだぜ? サボって下さいって言ってるみたいじゃねえ?」
「アホか。昼食とかとるのに使う生徒がおるからやろ」
「そんな普通に返されたら面白くもなんともねえじゃん」
「はあ」
 どかりとベンチに座り込んだ勝呂の横に、燐も腰を下ろした。さらさらと風が髪をさらっていく。竜士が時計を見ると、ちょうど11時をさしていた。少し日差しが強くなってくる時間帯だな、とちょうど影にあるベンチから日向と影の境目を見た。
「勝呂、今の時間なんの授業だったんだ?」
「英語や。ま、それなら予習と復習かかさんかったら授業ひとつ休んだくらいでついていけんくなることもないやろと思ってな」
「すげえ自信!」
「普通やで」
 俺には無理だ、と楽しそうに笑う燐の表情からは会ったばかりのときに感じた違和感も消え失せていた。竜士は意味なく燐と一緒にいるわけではなかった。なんとなく放っておけなかった、という表現が一番しっくりくるだろうか。いつもの屈託のない笑顔とは少し違う色味に帯びた表情が気にかかって結局ここまできてしまった。来たからにはどうしようもない、と燐の表情を盗み見するが、随分と嬉しそうな顔――というよりは、安心しきった顔、であろうか――をしており、あれはなんだったのか、と小さくため息を漏らす。
「俺、体育でさ。ジャージ、寮に忘れてきちまって」
「あー、お前と奥村先生の住んどる寮、距離あるし取りに行くのは難しいんか」
「そういうこと」
「誰かに借りればええんとちゃうんか」
 言ってからすぐにしまった、と思った。
「雪男のやつにメールしたんだぜ、一応。そしたらあいつ、持ってない、忘れものしないように前の日から準備しとけ、それから授業中にメールすんなーって怒られちまった」
「真っ当な意見やな」
「まあ、うん、そうだな」
 それ以外の人間は、と口を開きかけたが、すぐに訊くのをやめた。ここに居るのがその答えなのだろうと解ったからだ。そして、それを理解したと同時にやり場のない怒りがふつふつとこみあげてくる。
 ――俺ではいかんのか。
 もし頼ってくれたのなら、自分は誠意をもって応えようとするのに、と。竜士は燐のそういうところが嫌いだった。自分の力で解決しようとし、出来ないことはすぐに諦める。人の意見をうかがうこともしないし、誰かに何かを頼むという選択肢は初めから消去してしまう。まるで、それに慣れているかのように。
「お前、アホやろ」
「なっ……なんだよそれ、失礼な!」
「ほんまムカつくわ……」
 不思議そうに竜士の顔を覗き込む燐の額をぺしりと叩いてやれば、いて、と予想通りの情けない声が耳に入ってくる。
「塾の奴らに声かけてみればええやないか。志摩やら子猫やっておるやろ」
「ほら、今ってまだ2限目だろ? 1限目に体育がない限り自分が使う前に人に貸すのって嫌かなって……思ってさ」
 尻すぼみに声量が小さくなり、語尾は弱々しいものになっていくのは竜士の視線に気圧されたからだ。くだらないとでも言いたげな視線に思わず居心地の悪さを覚えてしまった燐は身体をすくめながら明後日の方向に視線を投げる。
「俺やっておるやろ」
「だって俺、お前の連絡先とか、教室とか、知らねえし……ジャージ持ってるだろうなとは思ったんだけど」
「は?なんで知っとるん」
「教室から体育やってんの見えるんだよ。木曜日の5限だろ、そっち」
 お前も見てたんか、と思わずもれそうになった言葉を飲み込んで、竜士は顔を歪めた。
「知っとるなら尚更やろ、お前……。ほら、携帯出せや」
 燐はごそごそとポケットから携帯電話を取り出した竜士の意図が読めずにぽかん、と口を開けたままにしている。その頬にさらさらと風に揺られた髪が触れた。
「連絡先、知らんのなら交換すればええやろ」
「あ、ああ!そういうことか! でもいいのか?」
「悪かったら言わへんわ」
「でもお前のジャージじゃ、でかい気がするなぁ」
「案外着たらどうにでもなるで」
「へへ、ありがとな」
 いつもぼんやりと外を眺めていた燐が、自分に気付いているとは思ってもいなかった。隣にいる彼といると自分のペースが毎度のように崩されていく気がして、竜士は自分を保つのに必死だった。その動揺を隠すことにも。
 電話帳に奥村燐、と表示されたのを確認して携帯電話を閉じた。一方、燐は確認に手間取っているのだろう、携帯電話の画面を食い入るように見つめた後、取り出した時よりも幾分か大事そうにその携帯電話をポケットにしまっていた。
 ――でも、お前のジャージじゃ、でかい気がするな。
 確かに細い手首だ、と思った。なんとなしにその腕を掴んでみたくなって手を伸ばして手首を握ってやると、それは見た目よりもずっとほっそりしている気がする。手を掴んではじめて解ったが、燐は手もしなやかだが男の太さは感じられず、どちらかというと骨っぽく、薄い掌だった。
「す、勝呂」
「ん?」
 手をぎゅうと握った。本当に不器用な手だ。人に頼ることも知らず、知らないが故に出来ない。年相応に笑い、馬鹿をするような人間かと思ったら意外とそうでもないところがある。
 ――不思議や、こいつ。
「勝呂!」
 焦っているような燐の声にはっと思い直してその顔を見れば、俯いていて表情はうかがえなかった。そこまで不快な思いをさせてしまっただろうか、と思って慌てて手を離す。すると、
 ――ん?
 何かを言いたげに歪む唇や、風に遊ばれている髪から覗く耳が目に入ると燐の焦りの意味がわかった気がして、言葉を失ってしまった。
「い、いきなり、びっくり、するだろ」
 なんだこれ、と自分で自身を理解することが出来なかった。心臓が馬鹿みたいに煩いし、顔は熱くてかなわない。まともに竜士の顔を直視することも出来ずに燐は唇を震わせていた。声まで震えているのが容易にわかって、更に恥ずかしくてたまらなくなる。
「いきなりやなかったらええんか」
 燐の口からは、と言葉が漏れるのを聞きながら、そう声をもらしたくなるのは自分もだと竜士は思う。何を言っているのだろう、と思う反面、なるほど、と納得するものがある。彼が人を頼らないことに不快感を覚えていなかったわけではなく、自分は確実に、自分を頼ってもらえなくて悔しかったのだろうと。それを自覚することで、途端に頭は冷静に戻っていく気がした。
「手、握ってもええ?」
「……なん、で」
「俺、お前のこと好きや」
「わけわっかんねえよ」
「顔真っ赤やぞ」
「うるさい」
 手、と促すとおずおずと燐が竜士の手のひらに自分の掌を重ねた。
「お前、人のこと使ったり、頼ることも覚えた方がええ」
「でも――」
「でももだってもないわ。話聞け。……それでや、出来るんなら頼ったりするん、最初に言うのは俺にしとき」
 さあ、っと風が吹く。木の葉がかすれる音が止み、燐が笑った。
「お前、ほんとわけわかんねえ」
 やがて竜士の手にこめられた握り返す強さ、掌のあたたかさが燐の答えだ。


[*前] | [次#]