乱れる呼吸は二人の唇と唇の間でまじって部屋に溶けていくようだった。足元に汗が流れていく。服を乱した時に感じた空気の温度はひんやりしたものであったはずなのに今この身体は熱さを訴えてやまない。肩に顔をうずめて息をしていた雪男がゆっくりと身体を上げるとともに訪れる体内を擦られる感覚に燐は身体をほんの少し震わせた。異物感は去り、じわじわと現実感だけが身体の中に流れ込んでくる。
 二人とも何も言葉は発しなかった。緩慢とした動作で雪男は燐の上から身体をどけ、それを感じて燐はさも当たり前とばかりに身体をほんの少し横にずらした。燐の身体がずれたことによって出来たその空間に雪男は身体を横たわらせ、ゆっくりと雪男は燐に口づけを落とす。
 燐も拒まずに目を伏せてそれを受け入れ、離れていくぬくもりにまつ毛を揺らせた。薄く開いた瞳は雪男の顔がほころんだのを捕えた、気がした。

「今日は冷えるから、兄さんもちゃんと服着て寝なよ」

 一見すると事後の甘い空気などないような空間であった。雪男はおもむろに身体を起こし、首を横に倒すとぱきぱき、と音が鳴る。その背中にひたりと手を添えると、振り向きもしないまま、なに、とだけ声を投げかける。特に何か用事があったわけでもない。なんとなく触りたかっただけだ、と素直に言うのもなぜだかとても悔しい気がして、燐は押し黙る。何も返事をしない燐を一瞥し、少しだけ浅い溜息を吐いて雪男は立ちあがる。燐はその身体に手を伸ばすこともなくただ気だるさに身を任せてベッドからペットボトルを手に取り、自分を見下ろす雪男を眺めていただけだった。彼が横からいなくなったら途端に周囲の冷えた空気が身体にまとわりつく気がして、燐はぱたぱたと手を動かし、布団を手繰り寄せる。

「んー……」
「風邪、引いても看病なんてしてあげないよ」

 そう言って雪男はベッドの中から探り出した下着を履き、部屋の床に転がっている燐の部屋着をベッドの上で転がっている燐の顔に投げつけた。看病しない、と言うのはきっと嘘だ。料理が得意な燐と双子であるとはまるで嘘のように料理が下手な雪男だったが、おかゆだけは作るのがうまい。それは燐が体調を崩してしまった時に看病するために覚えた幼い頃からの彼なりの兄に対する優しさと愛情であったのだろう。
 拾い上げた部屋着のズボンに足を通す雪男の背中を見つめていた。そこには燐がその手でつけた引っかき傷が多く残る。

「背中、痛い?」
「え?……ああ、シャワーとかするときはちょっとね」
「ずっと残ってればいいのにな、それ」
「何言ってんの」

 なあんでも、と雪男の少し尖った声音の追究から逃れるように背中を向けるように寝返りを打ったことがどうやら彼を苛立たせたらしいことは燐にもわかった。後ろで小さく舌打ちをした気がして、燐は笑いをかみ殺す。雪男は常識人の大人をぶっているがその実、ひどく子どもっぽい。それはきっと未だに祓魔塾の仲間たちは知らない彼の姿だろうと思うと、どこか優越感のようなものがわいた気がした。
 布擦れの音がして、雪男が背後に近付いて来たことを感じながら、燐は布団を握りしめてその存在を無視しようする。が、布団をめくられた次の瞬間に訪れるのは肩口への強い痛みだった。

「いっ……!」
「ざまあみろ」
「お、まえ……本気で噛んだだろ!」
「悪い?」
「なんだよその態度……むかつく」
「むかついてるのはこっちだ」

 心底不愉快そうに顔を歪めている雪男の顔を見つめながら、本当にこいつの顔は整っているな、と思考は彷徨う辺り、きっと燐は本心からは噛まれた痛みを気にしてはいないし、それを責めるつもりはないのがうかがえただろう。勿論、雪男は燐がそんなことを考えているなどとは露ほども知らないが。

「別にいいけどさ、こんな傷すぐ治っちまうし」
「だからむかつくんだよ馬鹿燐」

 へ、と我ながら情けない声が出たと思う。燐は口を開いてぽかん、とベッドの脇に中腰になって立っている雪男を見上げた。いつもより目つきが鋭いのは眼鏡をつけていない所為であることくらいわかっていたが、おいおい、なんでそんなに睨んでくれちゃってるんだこいつ、と思うのも本音ではある。

「僕の背中についた傷は数日の間とはいえ残るけど、僕が兄さんにつけた傷はひとつも残らない。それは苛々する」
「ば……」

 かだなぁ、と続けようと思った。だが、腹から湧きあがってくる笑いにその言葉は息のみで吐き出されてしまった。派手に声をあげて笑いはしないものの、肩を揺らし、目を細めて笑う燐の姿を雪男はほんの少し拗ねたように見つめていた。
 燐の腕が雪男の頬を撫で、髪をくしゃりと梳いた。事後の身体というのはどうしてこんなにも重たいのか、腕を上げるだけでも随分な力がいるものだと、そんなことすら可笑しかった。

「お前はもっと俺に大事なもんくれてるからいいんだよ」
「大事なもの?」
「おう」

 はっきりとは言ってやらない。だが、燐はわかっている。目の前の片割れがいなければ自分にあたたかな場所がなかったであろうことを。生まれてからも今までもこれからも、自分に居場所とあたたかな毛布を与えてくれるのは、目の前で目を細めている雪男だけなのだ。

「なにそれ」
「教えてやらない」
「はあ?」

 怒っても無駄だぞ、と笑って燐は枕元に転がった自分の部屋着に手を伸ばす。

「一緒に寝ようぜ」
「狭いから、やだよ」
「いつもこの狭いベッドで盛ってんのは誰だよ」
「兄さんでしょ」
「そんなこと……あるな」

 いいから、と手を引くのを雪男は絶対に拒まない。仕方ないな、と布団をめくるとその中に身体を滑らせ、燐に身を寄せるのだ。
 ――あったけえ
 雪男の腕がこちらに伸びてくる。それを感じた燐はさも当たり前かのように頭を上げ、その腕を受け入れた。


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