ひどく不安定な夜がある。
 日向の中にいる燐はまるで花が咲いたように笑う。めいっぱいに顔を綻ばせて、にこにことその八重歯を見せて笑う。誰かを遠くに見つけたら大きく手を振って見せる。だけど光が強ければその分、そこから生まれる影は濃い。
 一番そばにいる、と言って問題ない雪男から見たとしても燐は心の底に巣食う闇を吐露することはない、と思う。傘を持っていなくても大雨に降られ、ずぶ濡れになって帰ってくることがある。そんなときだって彼は泣きそうに歪んだ笑顔でただいま、と言ってみせる。泣けばいいものを口には出さず、へらへらと笑うことしかしない。全てを抱え込み、受け入れようとするその心には。

「兄さん」

 燐には燐すら知らない時間がある。その時間を過ごす彼を“燐らしくない”と形容することは容易だが、雪男はそうは思っていなかった。深夜に現れる燐は彼の深層心理を汲み取ることを許してくれる存在だ。雪男にとっては、心をさいなむものでもあり、安堵させるものでもあった。

「ゆき、お」
「……いきなり起き上がってどうしたの。変な夢でも見た?」

 行きかうことのない視線を虚空へと放り投げている燐の肩に雪男は手を置いた。それにも燐は微動だにせず、その表情すら能面のように動かさない。

「おれ――いつか、おまえのこともころすのかな」
「兄さん……?」
「だって、おれ、ころしたんだ……おまえのいうとおり」

 どくん、どくんと脈打つのを雪男は聞いていた。燐の言葉が静かな夜中の部屋の空気を揺らし、それと同時に雪男の心を揺さぶっていく。
 ――ああ、だめだ。声を傾けたら。
 言うならば、この状態の燐は人間と悪魔の狭間に立っているのだろう、と雪男は思っていた。肉親の声を悪魔の声だと一刀両断することは愚かであると思っているものの、それを完全には否定できないのも常に中立であろうとする雪男の判断が故だっただろう。

「おれが」

 悪魔の囁きだ。この心を揺さぶるこの声が養父の心も揺さぶりかけたのか。雪男はまるでその場に影を縫い付けられたように動けない。月が出ていない状態では影も薄く、影を縫い付けているという表現はもしかしたら値しないかもしれないが。

「おれが、とうさんをころした」

 燐の心を確かに蝕んでいたのは、誰でもない、自分自身の言葉であったことくらい雪男は知っていた筈だった。だが、それを本人の言葉として認識するのではまるでダメージが違う。燐は当たり前に傷ついていたのだ。雪男が吐いた、その言葉で。

「もうだれもきずつけたくない、だれもころしたくない」

 抑揚のない声音であったはずだったのに、なぜだかとてもその響きは痛切だった。まだ燐の“中”にできた傷はどくどくと血を流し続けているのだろう。かさぶたになるわけでもなく、傷痕となることもなく。それこそが、燐の優しさだからだ。言葉を受け入れ、責任からも逃れようとせず人の言葉を正直に、真正面から受け止めてしまう。
 ――ずっと、追い詰めていたと僕には解っていた筈だった
 だが、心にはキャパシティがある。これからも燐は同じような言葉を浴び続けるだろう。そのたびに彼は人の憎悪、悲哀そのすべてを受け取って、静かに心の底に沈めていく。決して、その痛みを忘れることはしないとでも言うように、傷は開いたままに。

「僕が、そんなことさせないから」
「ゆ、き」
「兄さんがしたくないなら、その時になったら絶対に僕が守るから」

 燐の身体が、いつもよりもずっと華奢な気がして、雪男は力の加減に少しだけ躊躇する。この身体は、崩れないだろうか。

「兄さんが兄さんを傷つけないように、僕が兄さんを守るから」

 自分の声が必死過ぎた気がして、雪男は少しだけ自嘲する。だけど自分が取り乱すくらい自分にとって目の前の片割れの存在は大切なのだと雪男はわかっている。だからこそ、その身体を抱きとめるのだ。冷えた心が少しでも寄り添うことであたたまるように。

「おまえがいるから」

 耳元をくすぐる言葉は、残酷だ。

「おれは、にんげんでいられるよ」

 もしも、と雪男は思う。自分の身体が生まれつき丈夫であれば、自分が未熟児でなければ、一卵性の双子であれば、燐の痛みを一緒に背負って生きていられただろうか。いつも自分はそうやって自分を責めるのに、当の本人である燐は絶対にそう言って雪男をなじったりはしない。
 ――兄さんには、かなわない
 その言葉にどれだけ雪男が救われているのか燐は知らないのだ。自分が吐いた言葉で傷ついてぼろぼろになってこうやってなんとか自分の制御のきかないところで吐露せずには自分を保っていられないくせに、燐の言葉は雪男には優しすぎる。

「……兄さん」

 髪をゆるりと撫でれば、燐の身体から少しずつ力が抜けていくのがわかった。雪男はその身体を支えながらベッドに横たわらせる。

「全部抱えこまなくたっていいのに、どうして」

 そのどうしての答えなどとうに出ている。もしも自分が、と何度繰り返したかもわからない。自分についた傷を数えることなどしない燐を見つめているのが雪男はつらくてたまらなかった。いっそ誰かこの心臓を貫いて欲しいと願うほど、自分が燐と同等になれないという事実は雪男を苛んでやまない。
 意識の外側で救いを求めるのは、きっとそれが彼の本質が求めているからだ。悪魔は欲求を耐えることはしない。だから、だから燐はいつだって本当は救われたがっている。
 少しだけ血色が悪い燐の唇にそっと雪男は唇を重ねた。すうすうと寝息独特の深い呼吸だけが繰り返されている。ごめんね、と呟くその声は燐の耳には届かない。明日、朝になったらまた日向で花が咲いたように笑う燐がいるだろう。ずっとずっと、その胸中に血が流れることは気付かないまま。
 だけどある意味ではきっと、血が流れていることに気付かない燐はそうすることによって燐を救っている。傷というものが、その存在に気付いてしまえばその痛みを自覚してしまうものであるが故に。
 ただ一筋、燐の頬には涙の跡が残った。


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