ばかやろう、と弟が――ゴールドが泣いているのをシキは聞いた。自分の守りたいものは、大切にしたいものは一体何だっただろうとシキは手の中に残った生々しい感触を持て余してしまう。
 だから夜は嫌いなのだ。どうしようもなくなる瞬間が来てしまう。それが訪れてしまえば自分は潰れそうになってしまう、逃げ出したくても逃げ出す場所すら自分には、ない。それでも食事はとらなければならず、食事をとったら眠らなければならなかった。そうしなければ、そうしなければ自分のために周りの人間が涙を流すのだ。そういうのは好きじゃない。好きじゃなかった。
 あの実家という家は自分にとっての家ではなかったと思う。居場所とはなんだ、とよく自問自答した。自分を潰していくだけの悪意ある圧力に満たされたあの空間に存在しなければならないことはただの拷問にしか過ぎず、いつしかシキは笑うことを覚えた。その笑いとともに諦めることも覚えてしまった。
 ――一緒に飯、食うやついないのって味気ないだろ。
 そう言ってゴールドが転がり込んできたのはまだ記憶に新しい。ゴールドはシキが食事を採らないこと、採っても吐きだしていることを知っていた。知っていた上でそう言っているのだから何て嫌みなやつだろうとシキは思う。でも、ゴールドは優しくて、好きだ。
 だけど、と続く。だけど、夜は嫌いだ。例えゴールドが近くにいたとしても人の存在を感じることができたとしても、どうしようもなくなる瞬間を避けられることは出来ない。そういう時、シキはいつも薬を嚥下した。大切そうに手のひらに乗せられた錠剤の数を数えることはいつからやめただろう。気分が悪くなることも、朝が来れば後悔することも知っているのに、今はただ、その白さに安堵するばかりだ。
 そして朝、気がつけば自分の腕は血にまみれ、服は茶色く酸化してしまった血液のあとが残っている。ゴールドは何も言わない。シキの行為を知っていようと、彼は何も言わないのだ。
 抱きしめて欲しいと思ったことはなかったが、許して欲しいと思うことは頻繁にあった。何を許して欲しいのかは自分でもわからないくせに、どこかにいる誰かに縋りたくなる。曖昧な感覚に眩暈を感じながら、縋ることのできない自分の身体を折りたたんで眠りにつく日々ばかりを繰り返す。

 その日は全てのめぐりあわせが悪かった。シキの記憶は断片的にしか存在しない。
 思い出せるのはいくつかのことしかない。自分よりも随分と細い首に食い込む感触。自分の目からぼたぼたと流れる涙がゴールドの頬に落ちるその音。息を求めて喘ぐゴールドの苦しそうな表情。
 自分はその時、何度も「たすけて」を繰り返し、ゴールドの首を絞めあげた。
 幼い頃に喘息を患っていたゴールドの口が息を吸えずに苦しそうにひゅーひゅーと音を立てているのを最後に聞いたのは随分と前のことだった気がする。それを思い出す。苦しそうな表情、抜けていく息の音。それに加わるみしみしという音。
 ――俺が指にこめた力を緩めた時、ゴールドは「ばかやろう」と言った。
 ばかやろう、という一言を紡ぐために息を吸い込み、唾液を呑み込んだことで微かに動くその細い首は、シキの腕から滴る血液で真っ赤に染まっていたのをシキはぼんやりと眺めていた。薬のせいで意識が歪む。それでも、意識がマヒしているお陰で腕はいたくない。自分は何も怖くない。だが、シキは泣いていた。

「おまえはほんとうにおくびょうでただのばかやろうだ」

 ゴールドはシキの頬に手を添える。何か、何か伝えなければと。

「このくそあにき」

 その一言に精一杯の愛をシキは感じることができるだろうか。




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Jack and Mark Get Busy!を聴きながら。


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