旧夢 | ナノ

▼吉良:警報

会社の先輩が消えた。
無断欠勤なんてしない穏やかな人だった。
誰からの好意においても数番手にいて、交友関係は広く浅い。
仕事も凄く意欲的というわけではないのにミスもない不思議な人だった。
全てにおいて不気味なほどスマートなので、時々女が間違って恋愛対象に据え置くことはあるけれど、誰かに酷く注目されるということはなかった。

「綺麗な手だね」
そう言ったいつかの先輩。
給湯室でそいつは自分のコーヒーを淹れに、私は係長のコーヒーを淹れに。
秋の午後の穏やかな日が、ブラインドから漏れ入ってくる。
空調で気だるく温まった給湯室につられてか、同じように気だるげな先輩は口元に笑みを刻んでいた。
「勿体無い。その傷がなければもっと評価されただろう」
「手なんて評価されたって」
私は愛想笑いをする。

入社したばかりの日、先輩と目が合った。
いや、合わなかった。ただ物凄い視線を感じ、それが自分の手に集中していた。
それから数日、手ばかりを見られて並々ならない何かを感じた。

昔から生存本能的な勘が強かった。
今日はここを通ったらいけない、明日はあそこへは行かない。
こいつにはこれ以上深入りするな。
時に生きることにうんざりするほど危険が垣間見えるけれど、ふと突然沸く警告のようなそれに従うと寸でのところで生き延びられた。

入社日の朝、偶々つけたテレビが映画サイコの名シーンをやっていた。
そして偶々、被害者の女の手がタイルに張り付く様が目に焼きついた。
それから先輩に会って何かを確信した。つまり、勘が働いた。

怖い。恐怖はそれ以上の警告だった。
帰宅後、すぐに私は手を深めに斬りつけた。
痛いのは嫌いだけど、手を怪我するよりも危険なことが迫っているような気がしたのだ。

間違えていなかったと思う。手の甲には蚯蚓腫れのような痕が残る。

それから、傷が癒えても痕はしっかり残った。
給湯室で誰かがお土産に置いた外国のお茶をポットに淹れる。
いい匂いだと思っていると後ろから給湯室に来訪者の気配がした。
振り返ると先輩だった。高級なスーツにどこか気だるい顔。
美形なのに、とてもモテるのに。この男は人に興味がなさそうだった。
私がポットを見せると「貰おう」と言った。
隣に立つ先輩が私の手を見て言う。

「とても綺麗な手をしていたのに。おっと失礼。セクハラにならないといいが」
「ふふ、過去形なんでセクハラではないかと思いますよ」
私は気だるく微笑むと、先輩のカップに自分のカップを軽く当てた。
余程気になるのだろう。この会話は数回目だ。

「面倒な午後に乾杯」
私が言うと先輩は「ああ」とカップを少し上げた。

最後はそんなところだった。
それから、次の日、一向に出社しない先輩を上司は心配し始めた。
連絡も付かない。あまりにも日が経ったので警察に連絡しようか、という話も持ち上がった。
そこで私は先輩には身寄りがいなかったと聞いた。

突然の失踪。

そかし、これ以上踏み込んではいけない、と警告は鳴らなかった。
怖くなかった。気持ち悪くもなかった。
だから探した。
調べてもただの失踪でしかなくて、新車を諦めて立ち寄った興信所もアテにならなかった。
結果も出せず返金もないなんて、興信所への金はまったくの無駄だった。

興信所を出て、喪失感。雨が降ったらしくコンクリートが湿気ていた。
定時に退社してまだ夕方の時分。
どんよりとした重い雲が広がり、遠くの方の切れ目に夕焼け空を覗かせていた。
がっかりした私は足元が覚束無い。また貯金すれば新車は帰るだろうが。

「おっと失礼」

肩をぶつけた通りがかりの男の声が先輩に似ているような気がして、立ち止まる。
見ると後姿だったが、似ても似つかない安物のスーツを着た背が小さくなっていく。
薄暗い曇り空と街灯光る町の景色に、その姿が妙に印象的だった。

あれは他人だ。まったくの他人だ。
私は後ろ髪を引かれるような気分を振り切って、進行方向へ向き直る。
流行のパンプスを鳴らして帰ることにする。
好奇心のやり場がない。
いつかの気だるい午後みたいな甘い熱はどこかへ行き、消化不良の違和感だけが残った。

きっと私は恋をしていた。そういう警告が鳴ればよかったのに。


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