旧夢 | ナノ

▼趙雲:恥ばかりかいてきました

つまらない女だ。
私自身、自分をそう思っていた。
静かで引っ込み思案。おどおどしているのが根っからの性とでも言わんばかり。
課せられた仕事を終えて間借りしている部屋へ戻る。
休日は誰かと交流を深めるでもなく過ごし、仕事場と家を往復する生活。
それでも仕事が終わって帰ればどっと疲れが噴出して歩きたくもない。
つまらない、真面目で寡黙な女官として十ヶ月も生活した。
正確なところの本性は自分でもわからないが、少なくともこんなに地味な女ではない。


夕方もほぼ夜に近い。軽食を手早く腹に収めつつ、今夜の手順を振り返る。
私はこの十ヶ月の仕事に終止符を打とうとしているのだ。


西日と共に外の雑音がさしてくる。
蜀はこんなにもつまらなく、貧相で、そして活気のあることだ。
実直で真面目な民が多い。皆が劉備を慕っている。
息苦しい、下らないと強引に感想を下し、僅かな感傷を捨てて私は国に帰る。
帰れば、もっと自由にのびのびと暮らせるはずだ。

私は情報を持って魏へ帰る。
魏の国土の辺境、どちらかと言えばまだどこの国とは定まっていないような荒廃した土地に、私の故郷がある。
戦乱が訪れる前は優雅とは言わないが、それなりの暮らしをしてきた貴族だった。
父、弟と、我が家の男達は揃いも揃って優しい文官ばかりで、商業にも疎いものだからあっという間に没落してしまった。

一族を再興できれば、弟夫婦の生活はもう少し貴族らしいものになる。
蜀へ潜入し、情報を持って魏へ行けばきっと曹操様は認めてくれる。
そうしたら、再興への近道になる。
私はそう言い聞かせて進んだ。

まだ跳ね返りの世間知らずでしかなかった私もこの十ヶ月で随分国というものを知った筈だ。
右も左もわからないまま、見よう見まねの女官仕事の合間に密書を書き上げるのは並大抵のことではなかった。
それも今夜で終わるのだ。
竦みそうになる足を動かし続ける。

この密書を持ち帰れば曹操様はお喜びになる。
そして私が目をかけてもらえれば、甥はもっと良い教育を受けられる。
あわよくば魏の将にだってなれるかもしれない。
ここまできたんだ。大丈夫。きっとできる。だって後は回収して帰るだけじゃないか。
許昌への道中だって安全に進める自信がある。大丈夫。

自分に言い聞かせながら立ち上がり、夜が迫りつつある城へ戻った。
仕事場に私物を忘れたという口実で城に入るつもりだ。
ここまで条件を揃えたというのに、この僅かな不安はなんだろう。


夜の迫る城はこんなに物々しかったか。

見慣れた道を歩きながら、通りかかった水溜りに自分の顔が移る。
結い上げた髪が少しへたって落ちていた。
耳にかければわからないか、と耳にかける。

ふと、水面に人影があった。

「こんな時間に会うとは珍しい、さては逢引かな」
穏やかに茶化して来たのは趙雲だった。
管轄の部屋が彼の部屋であったから、彼は上司でもある。
数時間前に別れたばかりだというのに、何がそんなに面白いのだろう。

「いえ、忘れ物を」
「そうか。ならば私も行こう。城とはいえ、もう夜だからな」
「まだ夕方ですわ」
私の声は抑揚も殆どなく、まるで喪に服しているようだ。
誠実だか勇猛だかの評判を備えたこの男は、加えて私には妙に気さくだとという。
配属されて始めてあったその日から、十ヶ月。よく話しかけてきたものだ。
真面目な男だから仕事の指示の方が多かったが、雑談も多い。
時には詮索もあった。ぼろを出してはならないから、下手に答えられず、かといって度を越して詮索されるわけでもないから無下にも出来ないという最も神経を使う男だ。
こいつが居なければもっと楽な十ヶ月だっただろう。

「すぐに夜になるさ」
「お手を煩わせるまでもありませんわ、趙雲様は明日も早いのですから」
「そんなに時間の掛かることでもないだろう」
「ええ、まぁ…」

仕方なく廊下を歩く。勿論これは想定外だ。
取り留めのない話を趙雲は振る。
「馬超殿の女官が変わるといった話はもう聞いたか」
「いえ、どちらが辞めるのですか」
「玲凜だと聞いた。君とは特に仲が良さそうに見えたが…」

ああ、玲凜か。あの子は穏やかでいい。何にも詮索してこない。
でもきっとこんな仕事でなければ話すこともそうはなかっただろう。
『私』と同じく静かで、そしてもう少しのほほんとしている、つまらない女だ。

「あまり話す機会もないものですから。彼女、幸せになるといいですね。」
「ああ。…君はそういった相手はいるのか?」
「さて」
私は趙雲の顔も見ずに半ば適当に返した。
もう明日には私はこの城にいない。趙雲とも二度と会うことはないだろう。
ヘマをして断頭台にでも上げられなければ。

全く、冗談じゃないぞ。

仕事場である執務室へ入り、予め置いておいた装飾を回収する。
万一見つかった時の為の予防策で、不審がられたらこれを取りに戻った、という体にするつもりだった。
回収してはこれ以上この部屋に居る口実もない。


「誰かと逢引であったら悪いなと思ったのだがな」
そんな軽口に、もう肯定するしかあるまいと腹を括る。
「…そのまさかですわ」

趙雲が此方を見る。
無意識に射抜くような目が真偽を確かめようとしている。
そんなに疑われることだろうか、いや、確かに少し苦しいが。

「本当なのか?」
いや、そこは『要らぬお節介だったな』とでも言って引くところだろう。
この男はもう少し穏やかな人物だと思っていた。野暮め。

一歩此方に歩み寄ってきた趙雲に私も一歩下がる。

「…趙雲様、その、」
「君に居たのか…?」
脇や背に汗をかき始める。表情に出る前に早く引いて欲しい。
「ええ、その、遅れてしまいますので。あの」
「どんな男なんだ」
もう一歩。合わせて下がると、すぐ背中には窓がある。肘が触れて、これ以上下がることは出来ないようだった。
「知ってどうなさるつもりですか?」
努めて冷静に切り返すと趙雲は初めて私から目を逸らした。

この日の為に作成した密書は私の机にあるのだ。
それは丁度趙雲の後ろ、真っ直ぐ出て行く途中で、どうにかそれを回収できればいい。
女官の服は歩きにくい。回収後一度家に戻り着替えて出発する。
もう時刻も迫っていて早く終えたいというところだ。

「…私は」
「趙雲様、その私もう行きますね」
私は趙雲の動揺なんか知ったことではないと、趙雲の脇をすり抜け、躓いた振りで自分の机の下に一旦屈む、という算段をつけた。
そして行動に移そうと脇をすり抜けたところで趙雲の腕が私を捉えたことに焦りと恐怖を覚える。

「趙雲様…?」
「君にはそういう奴がいないと思っていた。勝手に。いつか私は…高嶺の花であるとわかっていたが…」

ブツブツと心境を語りながら、趙雲の顔は確かに落胆していた。
馬鹿馬鹿しい。趙雲の気持ちなど考えたこともなかったが、この男はどちらが高嶺だか計算もできないらしい。

地味な女官と華々しくも曹操様に認められた武将。
独り身だと聞いたが、この男の家は蜀が滅びでもしない限り安泰じゃないか。
いや、蜀が滅んだとして、曹操様は趙雲を喜んで迎えるだろう。

この男の劉備への忠義心はゾッとする程で、そんな男が今、私に気があると言っているのだ。


「本当に、そのような男がいるのか?」
「ええ、その人に疑われてしまいます。手を離して」
振り払うようにもがくと、趙雲は昏い瞳を床に落とした。
力が緩くなるでもなく、こんな痴情の縺れで計画がおじゃんだなんて真っ平御免だと私は内心焦っていた。
「趙雲様!」
怒鳴ると、フ、と趙雲の口元が歪む。
焦りが段々恐怖に変わっていく。何で笑う。馬鹿馬鹿しい。本当に、馬鹿馬鹿しい。
床を見つめたまま自嘲とも取れる笑いを溢した趙雲を見ている間にも時は流れるのだ。

お互いが黙れば外で鳴く虫の声が聞こえるほど、この空間は静かだった。


私は私を掴む趙雲の手にもう片方の手を重ねる。
絆すしかない。心にもないことを言うのは実はあまり好きじゃない。

「趙雲様が私を想っていたと知っていれば」

私は趙雲へ近寄る。
お互いの胸が拳一つ分程の距離まで行けば、ぽつりと趙雲は言った。
「気が付いていると勝手に思っていたんだ」
「趙雲様は妻を娶るつもりはないと仰っていたので」

今から密書を持ち出すのはどうやっても怪しまれる。
私は後ろ手で帯に指を差し込んだ。いつだって護身用の武器は持っておくものだ。

「仕方がないな、話しかけても君はいつもつれなかったからな」

ご理解頂けて光栄です、とでも言うように微笑んで返す。
傷心の男なんて見たいものではない。立場や出会い方が違えばもう少し関係も変わっただろうが、そもそもきっと私の本性を知れば興味も無くす筈なのだ。
こんな地味な女がいいだなんて、真面目な人だったのだな、と頭のどこかで思う。


「見苦しいところを見せた。どうか忘れてくれないか」
趙雲の手が私から離れたその瞬間に私は思い切り趙雲を切りつけた。


鮮血と趙雲の驚愕を尻目に、私は密書を回収する。
相手は趙雲だ。深く深く切りつけたつもりだが、相手は趙雲だ。

床に崩れる趙雲を尻目に、私は脱兎の如く部屋を飛び出し、人気のない城を走り抜けた。
こうなっては一旦自宅に帰るのも危険だろうか。
でも旅支度もなしに飛び出すのはあんまりにも心もとない。こんなことならせめて靴だけは履き替えておけばよかった。
いつだってこうだ。この十ヶ月。趙雲という男は私の計画をいつも邪魔立てするのだ。
穏やかに、親しげな笑顔で。

最後に見た趙雲の顔は見ものだった。
目を見開く彼は綺麗な顔をしていた。
胸の動悸が酷くなっていく。恐怖と後悔と、感情が綯交ぜになって眩暈すらした。
淡く鮮烈なこの痛みには心当たりがあるような気がして、それは恋心なんじゃないかと錯覚してしまいそうになる。
だとしても終わっている。


私は自室に帰ると靴と整えていた荷物を引っつかんで、また走った。
裏路地を走りながら、喉が痛み始めていた。
城からここまで、荷物を取るときに一瞬止まったせいか胸への負担が増した。
それでも、こういった荒事は昔から得意だった。体の弱い弟に代わって、私は戦場に出た事だってある。

成都の裏門へ忍ぶと兵が立っている。
良かった、まだこちらは気づいていない。
私は下調べ済みの抜け道から都を脱したのだ。


しかし決して状況が良くなったわけではない。
用意した馬を置いてきてしまったから、向こうが兵を出して追ってきたらすぐに追いつかれてしまう。
街道を行くわけにも行かないから森の中を行く。

こうなってはいつ山賊に襲われるとも限らないし、一人でどこまで行けるかもわからない。
女官一人の乱心だと小さく見積もって忘れてくれることを祈るしかないのだ。


鬱蒼と繁る森を、この辺りにそこまで詳しいわけでもないのに身一つで行かなければならない。
民家が見えるわけでもなく、二日目の明け方。私は殆ど遭難していた。
水だけは運よく川に会ったが、食料は底を尽きている。
そもそも、馬で隣村まで行って補充する予定だったから装備もあまりない。
路銀だって殆どない。だって蜀の給料は驚くほど安かったから。

「おい、女だ!」
突然、下劣な声が上がった。


臭くて汚い死体の上で、私は男達を見上げていた。
5人、始めの5人は何とか倒した。しかし、遅れて現れた山賊たちは20人は居るだろう。
たった5人の山賊なんて聞いたことがない。もっと居るのだろうとはわかっていた。
立ち上がる余力もなく、せめて死ぬことが出来ればと祈りながら、死にたくないと願ってしまう。
密書があるんだ。これさえ届けられたら良かったのに。
白くて小さな手が私の指を掴んだのがつい先ほどの様な気がする。
もう10ヶ月も会っていないのだ。坊やから男の子に育っていた甥は、もう数年で成人する。
会うこともないのだろうか、趙雲を不意打ちに出し抜いて、そしてこんな末路なんだろうか。
霞む視界に映すものもない。

目蓋のすぐ裏には懐かしい故郷の庭が見えた。
棒切れを持って駆け寄ってくる甥は真っ直ぐで可愛い子だった。
青いまん丸の目が此方を見て、にっこりと歪むだけで私はあんなにも幸せだった。
出来ることなら、もう一度、甥に会いたかった。



男達の乱暴に腕が服を剥くが、私は腕一つ動かせなかった。



冷たい水が顔に当たって、意識が現実に戻った。
現実が必ずしもこの世とは限らないだろう、とわけのわからないことをぼんやりと思う。
頬を拭う感覚がして、再び目を開けると翠の双瞳とかち合った。
「趙雲…?」
かさかさの声が辛うじて言葉を成した。
趙雲は頷くでもなく、濡れた布で私の顔を拭っていた。

粗末な土壁を見るに、ここは成都ではないだろう。
「私死んだの?」
聞くと、趙雲は「馬鹿を言うな」と言った。

山賊が夢でなければ、私を助けたのは趙雲に他ならない。
何で、どうして、と疑問を並べるのも億劫で、水に湿った趙雲の手が頬に触れるのをそのまま受け入れた。

「暫く動けないと思ったのになぁ…」
趙雲はあの後、馬に乗るなりして私を追ったのだろう。
あの時、私は趙雲に対して肩から鎖骨、胸にかけて力いっぱい振った。
上手く行けば死んでいただろうに、この男の体力には驚きを通り越して凹んでしまう。
真っ向勝負は好きじゃあないが、それでも腕には多少自信があったのだ。

「今更どうなったって怖くないわ。処刑でもする?」
投げやりに聞くと、趙雲はぎゅ、と眉間を寄せた。
「助けてやってその態度はないだろう」
「こっちは斬りつけたののに、そっちこそおかしいでしょう」
「…その分だと、元気があるようだな」
趙雲は未だに態度を決めかねているのだろう。


「密偵だったのだな」
「ええ。」
「10ヶ月も私や皆を騙していたのか」
「ええ。ちょろかったわ」
ちょろいものか。どれ程大変だったか。
嘘をついて取り繕って、どれ程の厚意を溝に捨てたか。


「趙雲殿ォ、ナマエちゃんは目を覚ましたのかい?」
空気を壊すように、外から声がした。
顔を見ずとも馬岱だとわかる。馬超だったら知った途端に殺されていただろう。
その辺りをわかって趙雲は馬岱を呼んだのだろうか。

「ええ、大分回復したようで……」
趙雲は私の顔面に手を置いてそのまま眠れと床に押し付ける。
此方とて起き上がる元気はないのでそのまま沈む。
趙雲は馬岱の方へと行った。

密書は取られたのだろう。女官の服しか入っていない荷袋が隣に置かれていた。
武器は流石に無いか。首を動かしただけで痛い。けれど喉が渇いていた。
腕を伸ばして布の浮いた桶を取る。衛生的じゃないけど、川の水よりはマシかもしれない。

一口流すとなんだか脱力してしまって、桶が音を立てて転がった。
布が水を纏って脇に落ちる。物音を聞いて趙雲と馬岱が戻ってきた。

あーあーあーあー、あの時死んでれば良かった。
そうでなきゃ、いや、10ヶ月前の初日に正体が判明して殺されでもしていれば良かった。
10ヶ月が水泡。もう投げやりだ。
でももしかしたら、生きていれば甥に会えるかもしれない。少しだけ希望が沸いてしまう。
叶わなければ今よりもっと辛くなるとわかっていたのに。


「飲もうとしたのか」
「…てない」
最初の音が掠れた。反射的に答えたが、あんまり意味がない。
これじゃあ恥の上塗りみたいなものだ。
子供か、私は。


手の届かなかった瓶から趙雲が水を取ってくれる。
土臭いが、普通の水だった。何で毒が入ってないの。どうにか殺してよ、と言いたくなる。

この男が今私の命を握っているのだ。


それから一夜を明かして、私達は成都へ戻る為に出発した。


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