「…アメリカに、行く事になった」




夕飯の後神妙な顔をした父親に言われた台詞は、それだった。いきなりの言葉に目を丸くする私に、彼は申し訳なそうに眉を下げ説明を始める。時折母親が補足を入れながら紡がれたものは、こんな内容だった。

…父親は、薬品の研究を行っている。そこまで大きくない、所謂中小企業と呼ばれるような会社の付属の研究所で働いているのだ。しかし会社には大元となるとても大きな企業があり、その本社はアメリカにあるらしい。…難しい話は子供なので聞かせて貰えていないが、今回父のチームが発見した事は本社で行われている実験と大きく関わりがあるもので、それがあれば実験も良く進むらしい。なので父を含むチーム全員が大元の、しかも本社のアメリカの研究室に呼ばれたのだ。出世も出世、大抜擢だった。
本来ならばとても喜ぶべき話だろう。しかしそれを誇らしげに語る事なく…寧ろ申し訳なく伝える父は、とても子供想いだ。急にごめんな、友達だっているよな、と何度も謝る父に、思わず頬が緩む。…行き先はアメリカだ。今まで恐ろしい力を持った人外ばかりの世界を旅した私にとっては、単なる小旅行のようなものだった。しかもあの家族…そしてそれに関連するものが一切無いこの世界では、私は別に日本に未練は無かった。あるとしたら日本食が食べ辛くなるくらいか。しかし、それくらいならばどうでもいい。言語だってきっとなんとかなる。



「いいよ」



私の言葉に、父は目を丸くした。そして何故か隣に座る母が悲しそうに顔を歪ませる。…OKしたというのに、なぜそんな顔をされなきゃいけないのか。首を傾げていると、今度は母親が口を開いた。



「ねえ彩…本当にいいの?確かに私達は着いて来て欲しいけど…親戚のお家に住んで、日本にいる事だって出来るのよ?」

「いいの。確かに友達とさよならするのは寂しいけど…でも、私アメリカ行きたい。父さん、出世したんでしょ?凄い事だと思うし…」

「……でも…彩、我慢してない?」




眉を下げ私に問う彼女の顔は可愛らしく、幼く見える。絶対にママって呼んで、その方が可愛いもの!なんて呼び方を強制し、乙女趣味で擬音を付けるとしたらほわほわ。そんな人だけど実は芯がある、子供の事を一番に考えるとてもいい母親だと私は知っている。いつも私の事を想ってくれている、元母親から見てもとても素敵な人だ。だからこそ、子供にしては我が儘を言わない私を心配しているのだろう事もわかる。…知らないだろう、私があなたにどれ程救われているかなんて。今まで与える側だった愛情を貰い、くすぐったいながらも嬉しいと思っているなんて…彼女は、知らなくていいのだ。



「…私ね、ママと父さんと離れたくないの。だから一緒に行くよ」



説得の為と思い口から出た台詞は、思いの外自分の心の中にある本音だった。驚いたように目を見開く母親に、私自身も内心少し驚きながらそれを見せずに笑う。だって、こうやって無条件の優しさを十四年間与えられ続けてきたのだ。大切に思わない方が、可笑しいじゃないか。確かに彼らは忘れられないし諦め切れない。でも、それでも…やっぱり、私はこの世界の親が好きなんだ。
ストン、と自然に自分の中に落ちたその言葉がジワジワと広がる。好き…ああ、そうだ、この人達は大切だ。好きだ。優しい微笑みを浮かべた母親に、自分の選択肢は間違えていないと言われたようで嬉しくなった。父親も笑っている。

…この時ふと、どこかに埋れていた子供らしい気持ちが湧き上がってきた。子供らしいワクワクとした好奇心。…そう、私は純粋に父親の仕事が気になったのだ。子供らしく、その柔らかな気持ちのまま、その空気のまま口を開く。



「…ねえ父さん、父さんが行く会社の名前は何ていうの?」



私からのそんな質問が嬉しかったのだろう、父はどこか誇らしげに目を細め、私を見つめ返した。



「彩は知らないかもしれないなあ…でも向こうでは有名な会社だ。名前はーアンブレラ、って言うんだ」


「……………え?」


「英語で傘って意味だな。会社のマークも赤と白の傘みたいで…少しオシャレなんだ」





アンブレラ、傘の紅白のマーク、アメリカ、薬品研究…カチリカチリとパーツが一瞬で嵌り、直ぐに記憶が蘇る。忘れもしない、あのゾンビ物で一番有名だったであろう、私自身何度もプレイしたあのゲーム。…待って、だったら、父さんは、街は、アンブレラは……




「父さん…私達が行く街の名前って…」





私の様子が変わった事に気付かず、父は笑顔を浮かべる。笑顔で、とても優しい声色で、私を追い詰める。





「ラクーンシティ。緑が多くて素敵な街だよ」



「……………うそ……」







…私が何をしたの。
お願いだから、これ以上私の大切なものを奪わないで。



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