「あ………」


不意に彼…ミュウツーの方を向けば、バチリと目が合った。どこか気まずそうに、そして怖そうに逸らされるそれに、笑みがこぼれる。彼はきっと私に技を使った事を後悔しているのだろう。そして、拒絶を恐れているのだろう。…まったく、私が拒絶なんてするはずないのに。



「…おいで」



軽く手招きして彼を呼ぶと、怖ず怖ずとこちらに寄って来た。ゆっくりと歩くその姿が、何だか可愛く見える。それを見て、ミュウがクスクスと笑った。



「仲直り出来たみたいで良かったよ、母さん」



いつも通り、からかうような口調に私も口角を上げる。



「そっちも仲直りしなさいよね、父さん」


「……そうだね」



負けました、とばかりに上げられる手。こう見えて彼の事を心から心配していたし、罪悪感を感じてもいるのだ。研究所にいた時から素直になれなくなったミュウは、普段は饒舌だが本心を語る時はとても口下手になる事を私は知っている。
近々ミュウと彼の事もどうにかしなくては、と考えながら近くまで来た彼の手を握る。一瞬身体を大きく揺らしたが、すぐに力を抜いた。そして、それをどこか悔しそうにジト目で見るルカリオ、もといミュウ。


「…さて、と。これからどうしようか」


[どうって、洞窟を出るのが優先でしょ。早く病院行きなよ]


「いや、確かにそうなんだけどさ」



ミュウとしては自分が睨まれているのに、私が手を繋いでほのぼのとしているのが気に食わないのだろう。映画やテレビで見たように、ミュウと彼の仲は良好とは言えないようだ。そんな顔をするくらいなら素直になればいいのに、と心の中で一つため息。そして、ずっと考えていた事を彼に伝える。


「…私は、あなたと一緒に行きたいと思うよ。一緒に洞窟を出て、私の側にいて欲しいと思う。外の世界で色々な事を知って貰いたいと思う。…けど、そうするとやっぱりボールに入って貰うしかないんだよね…」


彼がそれを認めてくれるのか、それが一番の問題だった。映画で見たミュウツーは誰かのボールに入るという行為をするくらいなら死を選びそうだ。縛られる事を嫌うであろう彼が、果たしてボールに入ってくれるのか。



[……我は……お前と、共に居る事を望む。しかし人間の魂を持っていると言っても、今更人間のように振る舞う事が出来る筈がない。我の事は、ポケモンとして扱って欲しい。なので、その、ボールに入っても構わない。しかし…一つ条件がある]


「え…なに…?」



えらくあっさりと受け入れられた事に内心かなり驚きながらも、条件、という言葉に少し身構えてしまう。余り無茶な事ではないと信じたい、けども…我が息子の事ながら今日がほぼ初対面なので何を望むかなんてさっぱりだ。聞き返せば彼は、少し言いにくそうに顔をそらした。


[その……だな……我は…その……]


「ん?」



首を傾げ先を促せば、多少の逡巡の後決心したような目をこちらに向けた。と同時に、繋がれた手に力が入る。



[…っ……その、我は、お前を……母、と呼びたい……]


「っ、」



―返事が出来なかった。まさかそんな事を言ってくれるなんて思わなかったから。もっともっと時間が必要で、長い間一緒にいて初めて認めて貰えるのだと思っていたから。
まさか、だって、そんな。実感の無さにぐるぐると回る思考、しかし段々と目頭が熱くなってくる。軽く瞬きをすれば一粒涙が落ちた。すぐ横から息を呑む音が聞こえる。



「…夢みたい……ずっと、ずっと…願ってた事が…こんなに簡単に叶うなんて…信じらんない……」


[大袈裟な事を、]


「そんな事ない!」




ずっと、ずっと。この世界に来てからそれだけを願っていた事だったから。彼と、息子と一緒に暮らす事。母と、呼ばれる事。母と、認められる事。普通の親子なら簡単な、当たり前の事かもしれない。しかし私にとってはそれがとても難しい事であり、そして一番の願いだった。
ぼんやりと見える、どこか焦りを見せる彼の顔に心配をかけてはいけない、早く泣き止まなくてはと思う。でも、私の意思とは関係なくぽろぽろと流れる涙は中々止まってくれそうになかった。



「……私ね……本当に、本当に、あなたに会いたくて…一緒に、いたく、て…母親に、なりたくて……ずっとね、名前も、考えてて…お母さん、て、呼ばれたくてっ……」



途切れ途切れの、前後が繋がらない言葉。それでも彼は、じっと聞いてくれていた。そして、一つ瞬きをしてから口を開く。




[……名、とは……?]


「し、ゆう……紫優…って、いう、の……優しい、紫、で……」


[紫優…か……]



ぼやける視界の中で、しゆう、しゆう…と何度か名前を呟く彼を見た。気に入らなかったらどうしようか、なんてどこかずれた事を考えながらぐすりと鼻を啜る。段々と不安は増幅し、今それを伝えるタイミングだったのか、何を言っているのだろうか、と少し冷静な考えが復活し出した頃、彼はまた私の目を見た。―そして、



[……紫優……今日から我の名は紫優だ。……ありがとう、母さん]



ふわり、と。彼が目を細める。とても嬉しそうに。幸せそうに。彼が、笑ったのだ。
そして今、彼は、私を……



「ふっ…ふぅっ……うっ……!」



もう止められなかった。まともに喋る事は出来ないし、先程の比ではないくらいの涙が流れる。しかし、心の中は満ち足りていた。私はいま、幸せだった。



「…りがとっ……あ、りが…とっ……ありが…とう…っ!」



何度も何度も感謝の言葉を伝える私に、彼は笑顔のまま、繋がれている反対の手で頭を撫でてくれた。
ゆっくりと、優しく。



[……我こそ…心から感謝している……]



ぽつりと呟かれた言葉にいよいよ私の涙は止まらなくなり…それはミュウの呆れたような、しかしどこか嬉しさを含んだような溜め息を誘うのだった。
そして、ここから私と彼…紫優の、母と息子という関係は始まったのだ。





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