目を覚ました一太郎は、不思議な夢を見たと二人の兄やたちに話した。
その内容を二人に話したかったのだが、そんなことお構いなしに仁吉は薬を煎じ始め、佐助にはまだ寝てて下さいと蒲団に押し込まれた。
不思議な事に、今までにないくらいに体の調子が良いように思えた。

(不思議だね。佐助の話じゃ、もう三日も寝込んでたっていうのに…)

熱を出していたせいか、多少疲れた感じはあるが、怠さも何もなく、頭もスッキリと冴えている。
それに背中を打った筈なのにてんで痛みがない。
一太郎は蒲団の中で首を傾げる。

「きゅわきゅわ、若だんな本当に目を覚ました」
「お千重の言った通り!」
「お千重すごい!」
「接吻すごい!」
「きゅいー」

きゅわきゅわ、きゅいきゅいと現れたのは、身の丈数寸で怖面の小鬼鳴家。
一太郎は鳴家の言葉にわけがわからずきょとんとしていたが、八千重の名前が出てきて驚いた。

「どういうこと? 鳴家、お千重ちゃんがなんですごいの?」
「お千重来た」
「若だんなと接吻!」
「接吻して若だんな起きた」
「は!? 何だって? 接吻って…私が寝ている間に一体何があったんだい?」

鳴家の言葉にわけがわからないながらも、頻繁に出てくる『接吻』という言葉に、みるみる顔が朱に染まった。
混乱して蒲団の中で慌てている一太郎に、屏風のぞきがもう堪えられないと腹を抱えて笑い出す。
その拍子に屏風から転がり出た。

「屏風のぞき! お前、何があったか知っているんだね?」

一太郎は、真っ赤な顔で屏風のぞきを睨みつける。

「おやおや、さっきの嬢ちゃんとおんなじ顔して…よっぽど仲が良いんだねぇ。まぁ、接吻した仲だしねえ」

にやにやと笑う屏風のぞきは、一太郎のすごんだ顔など露とも気にせずにからかうように言う。

「せ! 接吻した仲!?」

耳まで赤くなった一太郎の様子に、佐助と仁吉の鋭い眼光が屏風のぞきを捉える。

「お前、また若だんなを熱で寝込ませる気かい?」
「折角のお千重さんの好意を無下にするんだね?」
「いい覚悟じゃぁないか」
「次はないと言った筈だけどね」
「に、仁吉、佐助! およしよ!」

立ち上がり、腕組みをして見下ろす仁吉と佐助。
屏風のぞきは慌てて屏風に戻ろうとするが、見逃す二人ではない。
あっという間に屏風のぞきを捕らえ、石畳紋の着物の袂を掴んで佐助が捻り上げる。
鳴家が、影の中にあわあわと逃げだす。
仁吉は屏風に近付くとゆっくりと爪を立てた。

「ひぃいいい! よしとくれ! あたしゃ屏風の化した付喪神なんだ! 屏風が破れたら死んじまうよ!」
「仁吉! 私ならそんなことで寝込んだりなんかしないよ!」

死に物狂いで叫ぶ屏風のぞきに、一太郎もやめるように仁吉に言うが、仁吉は聞いていない。
そして、佐助が煩いとばかりに屏風のぞきを更にきつく締め上げる。

「ぐぇええ…」
「佐助! 屏風のぞきが居なくなったら、それこそ私は寂しくて寝込んじまうよっ 仁吉! 薬もちゃんと飲むから許してやっておくれ!」

一太郎の言葉にピクリと反応し、二人は一太郎を見る。

「…どんな薬でも、ちゃんと飲みますか?」
「飲むよ! 飲むからよしておくれっ」

一太郎がコクコクと頷くと、仁吉の顔がコロリと変わる。

「若だんなに免じて許してやる…とっとと屏風に帰りな」

仁吉の手が屏風から離れる。
佐助は屏風を睨みつけて言い、パッと手を離した。
途端に屏風のぞきはふんっと吐き捨て、屏風に戻って行った。
ほっと胸を撫でおろした一太郎は、いそいそと薬を用意しに行った仁吉を見送りつつ、佐助を見る。

「ねぇ、佐助や。お前も知っているんだろう? 教えておくれよ」
「それよりも若だんな、食欲はありますか? 体力回復には滋養のあるものをたんと食べていただかなくてはいけません。何か持って来ましょう」

言うが早いか佐助が立ち上がる。

「ま、待っておくれよ佐助。食事よりも私は話が気になるよ」
「…そうですね、きちんと食事を食べ、仁吉の薬を飲んだならお話します」
「………わかったよ」

でも…、と出かかった言葉を飲み込み、一太郎は頷いた。
頑固で口の堅い兄やたちから聞き出す手はこれしかないのだ。
幸い体の調子が良いので食欲はある。
それでも茶碗一杯が限度だろうが、手代たちを満足させるには充分だろう。
佐助の遠ざかる足音を聞いていると、慌てたような足音が二つ近付いてきた。

(この足音は、多分―――…)

名を出す前に襖が開き、両の親が枕元に揃って急いで歩み寄る。

「おとっつぁん、おっかさんも…」
「仁吉から一太郎が目を覚ましたと聞いて、飛んで来たよ」
「具合はどうだい? 体は痛むかい? 辛くないかい?」

藤兵衛が一太郎の手をとり、たえが一太郎のやや乱れた髪を撫でながら心配そうに問う。
その目は涙で潤んでいて、一太郎は申し訳なさそうに眉を下げる。

「私はもう大丈夫です。不思議と体が楽で…調子がいいんですよ」

一太郎の言葉に、二人の顔がホッと和らぐ。

「そりゃぁ良かった」
「ねぇお前さん、私はお千重ちゃんのおかげなんじゃないかと思うんだけれど」
「おたえもかい? 私も今そう思っていたところだよ」

二人は顔を見合わせ、笑う。

(二人に聞けば、何かわかるかも知れない)

一太郎が口を開こうとした時、襖が開いて仁吉が現れた。
お盆に湯呑みを乗せている。
中身はきっと薬だ……えげつない色と味の。

「旦那様、番頭さんが探していらっしゃいましたよ。なんでも先の仕入れについて聞きたいことがあるとかで…」
「おや、そうかい。―――…じゃあ一太郎や、ゆっくり休むんだよ」
「はい、おとっつぁん」

仁吉の言葉に藤兵衛は一太郎を労りながら声をかけ、一太郎が頷くのを見て退出していった。

「じゃあ私は、何かお千重ちゃんにお礼の品を見繕うかね」

続いてたえが、そう言って立ち上がった。
たえと入れ代わりに、仁吉が一太郎の枕元にお盆を置いて座る。

「一太郎や、体調がいいからってあんまり無理はせずに、ゆっくり寝ているんだよ」
「はい、おっかさん」

一太郎は、藤兵衛と同じようなことを言って退出していくたえに苦笑いを浮かべて頷く。

「では、若だんな。ぐいっと男らしく飲み干して下さいまし」
「……………う゛、」

ニッコリと晴れやかな笑顔を浮かべる仁吉に手渡された湯呑みの中身は、本当にえげつない色をしていた。
思わず躊躇いの声を漏らす。

「………………」

そうっと仁吉の顔を盗み見ると、先程の笑顔のままジ、と一太郎を見つめている。
一太郎は、薬のことなら齢十七にして古強者である。
ぐっと覚悟を決めると、湯呑みの中を呷った。

「…っ、…う…‥」

強烈な味だった。
仁吉がにこにこと空の湯呑みを盆にのせていると、佐助が膳を運んで来た。

「さあ若だんな。たんと召し上がってくださいまし」

口直しにはちょうどいいが、一太郎が八千重の事と自分の身に起きた事を知るのはまだあと少し先になりそうだった。




明くる日、目覚めた八千重の熱はすっかり下がっていた。
だが、まだ少しの怠さが残っており、もう少しの休養が必要だった。
それよりひどいのは背中の打ち身。
呼吸をするのも難なほど、痛む。
開次が薬を布に塗り、患部に貼ってくれたので幾らか楽になってはいるが、それでも動くと痛みが走った。

「いたたた…。若だんなったら、とっても強く背中を打ったのね…寝返り打つのも痛いよ」
「摩ってやろうか?」
「ううん、いいよ。それより回診行って来て」

枕元に座る父、開次に蒲団の上で上体を起こしている八千重は苦笑して言う。
普段ならもう出掛けている刻だ。
寝たきりで起き上がれない患者が、開次が来るのを待っているだろう。
患者を不安にさせてはいけない。
病は気からとよく謂ったもので。
人の精神とは弱いもので、影響を受けやすい。
中には強い者もいるが、病に倒れ寝たきりの状態が長く続けば体だけではなく、精神も弱ってしまう。
そんな精神も元気づけてあげられる医者を八千重は開次位しか知らない。
手前みそと言われようが、本当にそうなのだから仕方ない。

「だがなぁ…」

心配そうに眉を寄せる開次に、八千重は蒲団の上の八千重の膝に乗っている小鬼を見る。
目が合うと鳴家はきょとんとして首を傾げる。

「私なら、この子達が一緒にいてくれるから心配しなくて大丈夫よ」

言いながら二匹の頭を交互に撫でる。
途端に気持ち良さそうに鳴家の目が細くなる。

「あぁ、確か鳴家だったね。長崎屋からのお客様だ」
「そう。昨日いつの間にかついて来ちゃったみたいなの。今朝まで気付かなくって…びっくりしちゃった」

朝目覚めると、三匹の鳴家が一緒に蒲団で眠っていたのだ。

「見えないのが残念だが…。鳴家くん、お千重の事をお願いしてもいいかな?」

八千重の手の動きで場所を見当付けて話し掛ける開次に、鳴家は胸を張ってきゅわきゅわと鳴いた。
軋むようなその声に、返事をもらえたと開次は受け取り、では頼んだと言って回診に出掛けた。
出掛ける際に、薬をちゃんと飲んでゆっくり休むようにと釘さすのを忘れなかった。

「本当なら、すぐにでも長崎屋に帰してあげたいんだけど…ごめんね?」

開次が出掛けてすぐ、八千重は横になりながら鳴家に言う。